砦にて2
コトヴァは少しよろめきながらも、ちゃんと中庭まで自分の足で歩いた。その全身の感じがあまりにも、足の不自由な母の歩き方に似ていたものだから、マイヤはギリギリまで肩を貸そうか迷ったほどだった。ユリウスは止めただろうし、年配の男の人が小娘にそのようにされたら矜持を傷つけるかもしれない。それでも反射的に、助けなければ。そう思ってしまうのは止められないのだった。
コトヴァは立派である。服装だけでなく、気品と呼べるものがぴんと伸びた背筋から言動から漂ってくる。マイヤとしても、自分の顔かたちがとくに古くからの家系の人々にどういう感情を呼び起こすのか、自覚がないわけではないから、無理に受け入れてもらおうとは思わない。けれど困っているなら力になりたいのだ。トロールのグリーグにそうしたように。
それが森の女神の教義だから。【大森林】の女神にとって、すべての種族は己の子である。よってすべて兄弟姉妹たちは助け合わねばならない。死んだあと、女神に優しくされたいのならば。次の人生もいいものにしたいと願うならば。
中庭にはテーブルと椅子がしつらえられ、再びあの侍従の青年たちが茶菓子と紅茶を用意してくれた。丸いテーブルを囲んで席に着くと、先ほどよりは気楽に話せるような気がする。
マイヤはユリウスの気持ちを探ろうとした。テーブルの下で手でも握りたかったが、彼は両手を上で組み合わせて忙しなく指を回している。
「正直なところあなたが納得されなくとも、私は一向に構わない。ただあなたに知ってほしい、我々の真意がどこにあるのかを。それがあなたの義務であると私は信じているからだ――あなたが真実主君の血に連なる者であるならば、あなた方のために命を散らした者たちを無碍にしてくださるな」
と、コトヴァは言った。そして話し始めた。
内戦の火種が百年にわたり燻り続けたことこそが、カーレリン弱体化の原因だった。
ラシュカー家とクース家の対立によって幾たびも内戦が引き起こされ、高貴なる貴族たちはそれぞれの利益によってどちらかについた。
二十年前になると、収穫期と種蒔き期を避けた小競り合いや大規模な合戦が、すでに日常茶飯事になっていた。
「当時の戦争は農民を徴収して行うものだったのです。そこからして、すでに職業軍人が採用されていたフェサレアに劣っていましたな」
「そうか、魔法兵器がいち早く一般化したから――」
とユリウスが呟く。マイヤはピンときていないので黙っている。
「こうしたことはアルフォンソから習いませんでしたか」
「少しずつ、教えてもらいました。近隣諸国のことやカーレリンのこと。学校では習わないような技術についても。でも両親の出自や祖父母の話は聞いた覚えがありません」
両親にとっては滅んだ自分の国のことだから、思うところがあるのだろうと思っていた。
(お母さんはよく昔の恋の話をしてくれたけど)
と思ったものの、マイヤは賢く黙っている。
度重なる戦争中、双方の家族は激しく戦い、首を取り合った。王位継承権を持つ幼い王子を巡って争うこともあった。ラシュカー家のハインリヒ五世が都の支配権を確立し、即位を宣言するといったん戦争はやんだ。しかしクース家の支持者たちは独自に継承権のあった王族を盛り立て、ラシュカーの支配を認めなかった。
ハインリヒ六世はラシュカーの純血の王子、早世した父に代わり幼い頃から王として君臨するが、性質は優しく、優柔不断だった。
「乱世に向いた方ではありませんでした」
コトヴァは断言する。低いどっしりした声音にマイヤは自分の胃が震えるのを感じた。
「優しく、清らかく、まこと女神の訓示に忠実な方であらせられました。我ら人狼など亜人に過ぎぬのに、朗らかにお声をかけてくださる。一を聞いて十を知るほど聡くあられ、生まれる時代が違っていれば名君となられたに違いありません」
両家の和解のため、ハインリヒ六世はクース家の姫を娶った。そして生まれたのが三人の王子たち。
「あなたとあなたの兄上たちです」
ユリウスの頭の中のどこを探しても、そんな記憶など見当たらない。
国は平和になったかと思われたが、クース家の恨みは消えていなかった。配下の兵士は盗賊だの傭兵だのに身をやつし、国じゅうに潜んでいた。号令あればクースの手足となって動けるように。
ラシュカー家の王の統治は平穏に進んだが、度重なる戦のための借金、王の権力を諸侯に示すための王宮の改築、不作続きなどが重なり国は荒れた。
そして機は熟したと見たクース一派は隣国フェサレアの後援を受けて一斉に蜂起、内乱。ご丁寧に収穫期を狙われ、ラシュカーに忠誠を誓う領主たちは兵士を集めきることができなかった。
「あとはご存じの通りです。国は滅び、あなたのご両親とご兄弟はお亡くなりになりました。フェサレアの軍勢が都に攻め上ったとき、まだ幼いあなたは母君と一緒に王宮にいたのだと聞いています。てっきり亡くなってしまったものとばかり思っていました。我が主君、ハインリヒ王陛下とともに」
ふうう、と大きなため息をコトヴァはついた。すっかり手付かずの紅茶が冷えている。
「クースの残党をまとめ上げ、フェサレアに内通した者がいました。裏切り者のアレクシスと呼ばれる男です。あれさえいなければカーレリンの土台骨は揺らいでも、少なくとも占領され名を失うことはなかったでしょう」
「裏切りは愛し合った者の名誉まで堕落させる行為です。女神はお喜びにはなりません」
とユリウスは格式ばった返答をした。どう返せばいいかわからないときはそうしろと、父母に教わったように。
実際のところ、それは老人に敬意を示すことに成功したようだった。コトヴァは顎髭を撫で、ゆっくりと目を伏せ、こう言った。
「アレクシスは私の息子です」
「えっ?」
マイヤは驚きのあまりぴょこんと飛び上がる。さすがの田舎娘マイヤでさえ、その名は知っていた。カーレリン王国に崩壊をもたらした人物の名であり、――正直なところ、通った学校ではこう習った、彼が悪意を持ってカーレリンを滅ぼしたので、フェサレアは救援のためやむなくカーレリンの領地へ入った。そして民のため、今のようにフェサレアの兵士と国内制度を貸し与え、国内の平和を整えた。そうするうちに、いつの間にかカーレリンとフェサレアはひとつの国になったのだ、と。
もちろん、家に帰れば父母から詳しいことを教わったし、近所の大人たちもひそひそと教えてくれた。フェサレアの軍人どもがこのあたりをうろついていたときは大変だった。畑は荒らす。飲み食いして金を払わない。若い娘は姿を消す。やつらは【大森林】にまで入り込んだ、もちろん出てこられやしなかったけどね。貨幣も神殿内部もフェサレアふうに作り変えられ、聞けば経文が持ち去れたという……。
けれどフェサレアは信仰を取り上げたり人々を奴隷にしたりはしなかった。正規の兵隊はすぐに引き上げられ、代わりに役人と兵士がやってきた。カーレリンはなくなったけれど、みんな死んでしまうよりはましだったね、と。
悪人アレクシス、裏切り者アレクシスの名は聞いたことはあっても、それはせいぜいが歴史立役者のうちの一人のような扱いだったのだ。
ははは、とコトヴァは笑い、はじめてマイヤに温かみのある目を向けた。
「あなたは正直者の、いい娘のようだ。アレクシスを地獄の悪魔の手先のように聞いてきたのだね?」
「は、はい……すみません」
「謝らずとも。あの子がそういう扱いをされているのは仕方ないことだ。敗者の宿命といっていい。だがアレクシスの裏切りは我らコトヴァ家にとっても衝撃的だった。誰よりも王家に忠実で、よい狼であるとばかり思っていた」
遠い目をする老人は、ふっと我に返ると若者ふたりに茶菓子を勧めた。さっき食べたばかりとはいえ、なんといっても若いのだし、真剣に頭を使ったから小腹がすいている。ふたりして喜んで舌鼓を打つことになり、ユリウスとしては釈然としない。
それからは歴史や戦争とは関係のない話をした。コトヴァの配慮だった。
ユリウスは熱を出しそうなほど頭がいかれかけていた。歴史の勉強だったらつまらないでもすむ、けれど自分が当事者とは。さっきから頭痛が煩わしい。本当に体調に影響が出る前に、少しでいい、マイヤとふたりで考えたい――いや、まあ姉さんはあんまり役に立たないだろうけど。
「あの、」
マイヤは成績のいい生徒よろしくちいさく手をあげた。余計なことするな、とユリウスの足が踝をつつくのをかわし、
「ユリウスは国が滅びたとき六歳だったと、先ほど仰いましたわ、お殿様。でしたら何かを覚えているはずありませんわ。小さすぎますもの」
「カーレリンの王の血筋は優秀です。この方はいかなるときの記憶も保持しているはずなのです。それが王の血というものですから」
「は、はあ……」
なんとまあ。尊い人というものは市民とかけ離れた考え方をするものである。
とはいえ、ユリウスも好きで思い出せないわけではない。
「今の話を聞いて、何か変化は」
と慎重だが端的に聞かれても、
「なにも。名前を聞いても、説明されても思い出せません」
と返すしかないのだった。
「何を言われても……アルフォンソが俺の父であることは違いないし、母はフランチェスカです。マイヤは姉で」
「そうか……」
意外なことに、コトヴァはふっと微笑んだ。
「わかりました。あなたが幸せに暮らしただろうと思われるのは、私にとって救いでもあります。長い間、ご心配申し上げておりましたから」
ユリウスはいたたまれない。マイヤがそっと気遣うまなざしで、手を握ってきた。少し前なら子ども扱いするなと睨み返したことだろう。
「あなた方には今後、我が賓客として城にご滞在いただく。市井には返せません。また命を狙われる可能性がある。そうすれば私は、やっと巡り合えた主君の正当なお血筋の王子を失うのです」
だからそれは、と反駁する暇もない。どう言い返してもこのご老人はユリウスを昔仕えた王家の一員と信じて疑わないだろう。コヤの街に戻ることを半ば覚悟していただけに、運命の流転についていけそうにない。その気持ちはマイヤも同じだったのだろう、顔を上げて静かだが断固とした口調で、
「コヤにまだ両親の遺体が……」
と首を横に振る。
「わかりました。埋葬の手配をいたしましょう。それでご納得いただくほかない。……弟御を死なせたいわけではなないでしょう」
受け応えたコトヴァもまた、断定的なまなざしである。マイヤは黙り込んだ。納得していないことはユリウスにはわかったが、だからといって何ができるわけでもない。
人が呼ばれ、茶会らしきものは終わった。




