マーネセン防衛
ユリウスが目を覚ましたのは、マーネセンに魔物が侵攻してすぐのことだった。
状況を完璧に把握できている者など一人もいなかった、あのご立派なご領主様でさえそうだった。
夕食時ののどかな雰囲気が一気に打ち消され、開店したばかりの酒場や娼館から、兵士や冒険者が飛び出してくる。
ユリウスは自分を揺すぶる手に気づいた、カインだった。彼はひどいありさまだった。倒れたときの衝撃で泥を浴びたらしく、全身が泥色のまだら模様だ。砂色の短い髪が寝起きのようにくるくるになっている。
「なに、が、起きたんだ?」
わからない、とユリウスは首を横に振った。自分を見下ろすとカインと同じくらいひどい汚れようだが、とくに傷を負ったということもない。ただあまりの音と光に耐えきれず、気絶していたのだった。
「ダンジョン、が……爆発した?」
としか思えなかった。首を振ると、銀色の髪から焦げたにおいがする。
何もわからない、わからないが、このまま座り込んでいるわけにはいかなかった。マーネセンの街はどこも破壊されていないのだから。彼はこの街のかたわらに出現したダンジョンによって稼がせてもらっている冒険者なわけで、この街の宿に住んでおり、つまりはマーネセンに借りがある。
「行こう、カイン」
と、ユリウスはなけなしの自尊心をかき集めて立ち上がった。心臓は早鐘をうち、血のめぐりがとんでもなく早く、手足はぶるぶる震えていたけれど。
「俺たちは冒険者だ、戦う者だ。挑戦するためにここにいるんだ、そうだろ?」
今にも脂汗を滲ませそうなユリウスの様子に、カインは感化される。武者震いにぶるりと身体を震わせると、
「ああ――そうだな、ユリウスの言う通りだ。女子供じゃないんだ、俺たちは!」
「ああ!」
そうして少年ふたりは走り始めた、とりあえず宿のある地区の方へ。しょうがない、剣を取らなきゃはじまらないんだもの。なんとも締まらないことだった。
そのようにして走り回っていたのはもちろん、彼らだけではない。ある者は神殿に駆けこんで神に祈りを捧げようとし、ある者はベッドの下に隠してあった内乱時代の剣を取り出した。ある母親は子供たちを地下の食糧庫に押し込み、ある父親は外に飛び出し近所連中と忙しなく情報交換する。
まだ何もわかっていない群衆に、最初に届いたのは悲鳴だった。
「あーっ!」
と、絹を裂いたようなカン高い女の悲鳴。続けて男の断末魔が。
街は困惑する。硬直する。なんだ、どうした。人々はとりあえず、円形公園に集まった。そこは社交の場であり、出店や紙芝居、小劇場が並ぶ文化と商売の場であり、朝には市が、夜には無法者がたむろする、よくも悪くも街の中心だったのだ。
「ぎゃあああ! ぎゃあああああ!」
と叫びながら老人が円形公園へ逃げてきた。城壁の近くに住んでいる、貧困層の人間である。禿げかけた頭には犬の耳がついていた。だいぶん血が薄くなっているとはいえ、人狼の家系なのだろう。
「オークだ、オーク!!」
と彼は円形公園のド真ん中で、集まってきた冒険者やら商人やら非番の兵士やらの前で、両腕をばたばたさせた。
「向こうからオークの軍勢が来る! ダンジョンから! 城壁の向こうからあっ!」
そしてぱたんと倒れ、死んでしまった。頭の後ろには斧が刺さっていた。だいぶん小ぶりの、古い木の柄がついた。
町医者と看護婦の夫婦が駆け寄るより先に、マーネセンは一息に混乱の極みに叩きこまれた。
人は走り犬は吠え猫が走り去る。上り切った月が煌々とそんな街の様子を見降ろし、たかと思えば光を遮って飛ぶ影がある。
「――ドラゴン!!」
悲鳴は誰のものだったか。
まだ子供か、あるいは小型のドラゴンである。ダンジョンでは五十階以上からしか出現しないはずの魔物だった。鱗は細かく、リザードマンのそれより細かく、硬い。体躯はしなやかで翼はコウモリのように薄い。そして何より、やつらは火を噴く。
マーネセンの城壁は、実のところ取り壊す予定があった。ダンジョンの実入りを取り込むため、まずは物理的に門戸を開こうとの計画だった。悪い冗談にしか思えないが、そのため一部の城壁が試験として破壊されていたのだった。魔物はそこから入り込んできたのだ。でなければ、こんなにも迅速に街に入り込んでくるはずがない。
すべての城壁がそうではなく、また計画も本格化していなかったのは不幸中の幸いなのかもしれない。だが空と陸の両方に襲われる今、それがどれだけの慰めになることか。
城の大門が開き、どっと吐き出されたのは鋼の鎧。騎士団の出陣だった。夜戦のため従士は手に手に小型魔法灯を持ち、馬の鞍にさえ挟んでいる。
ゆるゆるとふたつ目の赤い月が姿を現した。先に天上に登った白い月に照らされ、騎士たちはいっそ神々しい。そこに小さくも強い赤を放つふたつ目の月の光が加わると、まだ流されてもいない血が滴るのを錯覚するよう。
ユリウスは故郷のコヤがほぼ同刻に襲われているのを知らない。宿の薄いかけ布団の上から安物の剣を取り上げ、身に着ける間にも、
「助けてくれーっ、ドワーフを襲われてる!」
「きゃああああ!」
と窓の外から悲鳴が轟く。
「あっちにもゴブリンがいるぞ! 気をつけろ!」
「なんだってんだよ! なんだって街に魔物が」
どの種族ともしれない魔物の吠える音、考えたくないが何かの咀嚼音。剣戟の音。車輪と石畳が鋭くこすれる音は、どこかの金持ちが逃げ出そうとしたのだろうか?
ユリウスは安宿の階段を駆け下りた。冒険者たち、その見習いたちが住む地区は少し前まで貧民街だった。ダンジョンにより働き口が増え、領主の政策がそれを後押しし、住民のうち幸運だった者たちが新興住宅街にうつってから、家屋を再利用して狭苦しい宿や占い館や小規模な魔法使いギルド、そして娼館が乱立した。元からいる住民たちはさすがにこの地区に詳しいから、きっと安全に隠れられるだろう。
問題なのは新しい住民たちだった。冒険者以外にも、薬草術で生計を立てようとする若い薬師だとか、占い師だとか、仕事を求めてやってきたのにあぶれた者たちはどうすればいい?
だが、ユリウスにはどうすることもできないのだ。
争いあう音は、すぐそこの大通りから聞こえてくる。彼はそちらに向かって駆けだした。
彼のように飛び出す者はあらかた飛び出し、女将はとっくに雲隠れ。内乱を経験した世代、古くからマーネセンに住んだ者たち、真っ先に素早く隠れられたのは彼らとその家族だった。
宿には右往左往する非戦闘員や、ぐずぐずした冒険者がまだ残っている。
「あたしたちも行かなきゃ! ホラ!」
と、杖とダガーを装備した女の子は血気盛んに友達の手をひっぱった。魔法使いのローブではなく、革の鎧姿。へたりこむ同じ年ごろの少女の手をひっぱり、
「こんなときのために魔法の勉強してきたんでしょ! 魔物を全部ぶっ殺してやる!」
「ヤだよおぅ、ううう、ムリだよお、あれ見たでしょお。強いよ、怖いよ」
ワンピースと三つ編みを揺らし、少女は女の子に縋りついた。
「やっぱりムリだったんだ、あたしには。あんなんと戦えないよ。依頼だって薬草採取しかしたことないのにぃ」
革の鎧の女の子が激励しようとしたときだった。ふらりと一匹のリザードマンが宿に入ってきたのは。まるで酒場に入る冒険者のリザードマンのようだった、おうい、やってるかい、と今にも言いそうに。――だがそのリザードマンの目は金色だった。
服装は、かろうじてズタ袋のようなものを腰に巻いているがそれだけである。手には鉈。錆びた色をしている。緑の鱗がびっしり生えた上半身にナナメがけしたバッグから、人間の生首が覗いていた。
少女たちは凍り付いた。
すでにそのとき、魔物どもは細い路地裏、古い家屋の中にまで忍び込み、本能のままに動いていた。つまりはワーキャットを食い殺し、小鳥妖精の卵や雛を丸飲みにし、何より鉈で剣で槍で人間を殺そうと。一番数が多く大陸に繁殖した、毛なしの二本足をたくさん殺して食べようとしていた。人間は栄養があるから。
少女たちは絶叫した。てんでばらばらに逃げ出そうとしたが、安宿に出入り口はただひとつきり。リザードマンはふたり分以上の音量で威嚇した。声帯を解さない爬虫類のガラガラした音。
宿からはしばらく、金切り声、ものを投げつける音、不器用な魔法詠唱、剣が折られる音、打撲音と壁や食器の壊れる音が響いた。
やがてそれらが静かになると、咀嚼音が聞こえてきた。




