そのご令嬢は…
最終学年に上がったばかりのその日、教室はいつも通りざわついていた。
担任教師が入ってきて、幾人かの生徒たちは慌てて着席する。
担任のラッツェル先生は女学園で一番のベテラン。
公爵令嬢が在籍する学年なので身分差に怯むことなく指導できる、この先生が選ばれたそうだ。
黒いシンプルなドレスとしゃんと伸びた背筋が今日も美しい。
「ごきげんよう、皆さま。
引き続き今年度も私が担任を務めさせていただきます。
まずは、今年一年間いっしょに勉強される編入生をご紹介しましょう」
促されて教室に入ってきたのは、真新しい制服を着こなした背の高い令嬢。
「クリスタラー辺境伯家のゲルダと申します。
王都に長期間滞在するのは初めてで、至らぬところが多いと思います。
一年間、よろしくご指導お願いいたします」
立派な挨拶だった。
姿勢が良く、動作もきれいだ。
私の斜め前に座っている侯爵家令嬢のミリヤム様が、隣の伯爵家令嬢フリーデ様に言った。
「辺境伯ってことは田舎の伯爵家よね?
しかも三年間通うのが普通なのに、一年間だけって。
貧乏なのかしら?」
私は驚いた。
そもそも、辺境伯家についての認識が間違っている。
しかもクリスタラー辺境伯家といえば、建国に貢献した家柄。
女学園に入る前、家庭教師に最初に教わる歴史的な名家だ。
ミリヤム様とフリーデ様に教えて差し上げたいが、聞く耳持たない系のお二人である。
しがない男爵家令嬢の私の言葉など、鼻で笑われるだけだ。
「座席は…ユーディット様のお隣に座っていただきましょう」
教室がしんと静まった。
ユーディット様はライツィンガー公爵家のご令嬢で、現国王陛下の姪。
王太子殿下の従妹にあたられる。
気高く美しく、無口なユーディット様は身分の高さもあって憧れの的。
ミリヤム様が、また口を開いた。
「田舎令嬢に公爵家ご令嬢の小間使いをさせるつもりね!
いい勉強になるでしょうね」
フリーデ様は「そうですわね」と相槌を打っている。
ゲルダ様はユーディット様の側まで行くと優雅にお辞儀をして、席に着いた。
ユーディット様は軽い会釈を返したが、一瞬、ゲルダ様とアイコンタクトされたように見えた。
その日の放課後、私は馬車寄せの近くで迎えが来るのを待っていた。
足音に気付いて振り返れば、ユーディット様とゲルダ様だった。
ユーディット様は小柄で、背の高いゲルダ様と一緒だと姉妹のようだ。
黙ったまま歩いているのだが、どことなく仲良さげに見えた。
一歩下がって、礼をとった私にゲルダ様が声をかけてくださった。
「ごきげんよう、エッダ様。また明日」
「…ごきげんよう、ユーディット様。ゲルダ様」
声をかけられたことに驚いて、短く返事をするのがやっとだった。
顔を上げた私に、お二人とも微笑んでくださった。
ユーディット様の笑顔を見たのは初めてかもしれない。
そして、ゲルダ様は今日、初めてお会いしたのだ。
自己紹介したわけでもないのに、私の名前をご存じだった。
ライツィンガー公爵家の馬車に乗り込むお二人を見送った私は、急に学園生活が色付いたような不思議な気持ちがしていた。
「ねえねえ、私、見ちゃった!」
ある日のことだ、ミリヤム様がいつもの軽い調子でフリーデ様に話しかけていた。
「田舎令嬢が、ユーディット様の馬車に一緒に乗り込んでたのよ!
放課後も公爵家で小間使いをしてるのかしら?」
「そういえば」フリーデ様が話し出す。
「今朝、廊下を歩くユーディット様の後ろを、ゲルダ様が鞄を二つ持って歩いていましたわ」
「やだ、それって荷物持ち? うわあ、立派な小間使いねえ」
嬉しそうなミリヤム様は侯爵家のご令嬢らしからぬ嫌らしい笑みを浮かべている。
私は昨日のことを思い出した。
ユーディット様が護身術の授業中に手首を痛められたのだ。
ちょっとした騒ぎになったのに、ミリヤム様とフリーデ様は気付かなかったようだ。
ゲルダ様はユーディット様の怪我を案じて、鞄を持って差し上げたのだろう。
ユーディット様が学園内で誰かに荷物持ちをさせたことなどなかったのだから。
ユーディット様とゲルダ様は本当に仲が良いようで、昼休みもいつも一緒だ。
中庭のガゼボのベンチで二人で読書しているのを、よく見かける。
ユーディット様は一年生の時から、ずっと首席だ。
ゲルダ様は一年間だけの編入生なので成績は発表されない。
だが、授業中の教師とのやり取りを聞いていれば、かなり勉強されていることがわかる。
昼休みの読書の様子も、二人ともすごい集中力だ。
何を読んでいるかはわからなかったが、きっと高度な学術書なのだろうなと勝手な想像をしていた。
そんなある日、またしてもミリヤム様がフリーデ様に話しかけていた。
「お昼休みに中庭を通ったら、ユーディット様が扇子で何度も田舎令嬢を叩いていたの!
どんな失敗をして叱責されてたのかしらぁ?」
「きっと、お屋敷でも失敗続きで折檻されているのかもしれませんわねぇ」
「田舎者のお前には厩で鞭打ちがお似合いよ!
誰か、この下女を引きずって行って思い知らせておやり!」
なんだか危なそうな妄想で、ゲラゲラ笑っているお二人。
夜会デビュー前のご令嬢には相応しくない、大衆小説でもお読みなのだろうか?
教室にいた他の令嬢方も、お二人の様子に顔をしかめていた。
しばらく後、昼休みのガゼボで私は目を疑う光景を見てしまった。
ベンチに座るゲルダ様の両肩を掴んで、ユーディット様が揺さぶっていたのだ。
思わず耳を澄ませる。
「ひどいわゲルダ! 私まだそこまで読んでないのに!」
「ごめんなさい、ユーディット。うっかりしてたの。
わざとじゃないのよ、許して」
「もう、知らない!」
可愛らしくむくれるユーディット様。
「ネタバレは万死に値するわね。もう絶対しないから」
「嘘よ。この前だって…」
その時、ゲルダ様が両手に持って盾のように掲げた本の表紙がはっきり見えた。
あれは…今流行りの恋愛小説だ。
教室内でも、よく話題に上っている。
もしかして、お忙しいお二人は昼休みに集中して恋愛小説を読まれていたのかしら?
だとしたら、ミリヤム様が言っていた扇子でゲルダ様が打たれていたというのも、こんなふうに仲のいい戯れ合いのひとコマだったかもしれない。
「ユーディット、お詫びに今日の帰りにいつものお店で新作ケーキをおごるから」
「…お土産のチョコレートもつけてくれなきゃ嫌よ」
「わかったわ」
むくれていたユーディット様の頬が緩み笑い出した。
つられてゲルダ様も。
明るくて楽し気なお二人の笑顔は、見ていても癒される。
ユーディット様とゲルダ様に癒され、ミリヤム様とフリーデ様に不快な思いをする日々が続いた。
しかし、これといった事件が起こることもなく卒業パーティーの日が近づいた。
ゲストに王太子殿下が来られると聞いた日、教室の中は色めき立った。
王太子殿下は私たちより四歳年上で、まだ婚約者はいない。
伯爵家以上の令嬢方には、王太子妃になれるチャンスがあるだろう。
このクラスで最も身分が高いのはユーディット様だ。
だが、可能性があるなら既に婚約が発表されていてもおかしくない。
すると、次に身分が高いのは侯爵家令嬢であるミリヤム様ということになる。
ミリヤム様が王太子妃にふさわしいとは思えないが、政治的な配慮というものもあるだろう。
卒業パーティー当日、すっかりその気のミリヤム様は気合いの入った装い。
フリーデ様は精一杯よいしょしているが、他のご令嬢方は悪目立ちする派手なドレスに呆れていた。
学園長や来賓の挨拶が終わり、次はダンス。
最初に、王太子殿下が会場の中から選んだパートナーと二人だけで踊る。
誰が選ばれるのかはわからない。
絶対に選ばれない自信のある私は、冷静に状況を見守った。
知らん顔のユーディット様、いつも通り柔らかく微笑むゲルダ様。
ミリヤム様は自信にあふれ、そっくり返っている。
有力な伯爵家の令嬢の中には、無いとは思いながら万一選ばれると後が面倒だと若干顔色を悪くしている方もいる。
長身の美丈夫、クリストハルト王太子殿下がゆっくり歩み寄って来る。
そして優雅な仕草で、ゲルダ様に片手を差し出した。
「ゲルダ嬢、あなたの最初のダンスパートナーを務める栄誉を私にいただけないだろうか?」
「ありがたく、お受けいたしますわ」
楽団が演奏を始め、ダンスが始まる。
長身の二人はお似合いで、思わずため息が漏れるような優雅な踊りだった。
卒業生一同は、ゲルダ様が選ばれたことに納得している者と驚いている者に分かれた。
一部、大喜びしている者と床に崩れ落ちている者がいたが、学生の賭け事はご法度だから派手なリアクションは控えた方がいい。
お二人のダンスが終わり、他の卒業生や来賓方、先生方がフロアに出てくる。
お父様やお兄様と踊る者、憧れの先生と記念に踊る者、皆楽しそうだ。
ダンスは強制ではないので、ごちそうのテーブルに駆け寄る者もいる。
私も、さっきから気になっているケーキでもいただこうかと歩き出した。
誰かがすごい勢いで前を横切り、ぶつかりそうになった。
ミリヤム様だ。
雰囲気がおかしい。どこか普通ではない感じがした。
両手に赤ワインのグラスを持っている。
向かう先は談笑している殿下とゲルダ様のいる方向。
このままでは…
迷っている暇はなかった。
私はスカートをつまみ、ミリヤム様を追いかけ、横に並んだ。
そして、ミリヤム様を巻き込み勢いを殺しながら床に倒れ込んだ。
私のドレスはワインまみれになり、ミリヤム様は呆然としている。
後ろから追いかけてきたフリーデ様が、泣きながらミリヤム様に縋り付いた。
「申し訳ございません、ミリヤム様。
私、とんだ粗相をしてしまい…」
「二人とも怪我はないか?
初めてのワインが回ったのだろう。少し休んできなさい。
誰か、ご令嬢たちを控室に」
殿下の素早い指示で従僕たちが動き、この騒ぎに気付いた者は少なかった。
ぼんやりした様子のミリヤム様をフリーデ様が抱きかかえるようにして、部屋から出て行った。
私もドレスがひどい有様なので、ここにはいられない。
着替えもないので、このまま帰るのもありだ。
とりあえず廊下に出ると、後ろから声がかかる。
「エッダ嬢、お待ちください」
振り返ると殿下の側近のお一人、ヨーゼフ様だった。
「お帰りになられますか?」
「はい。着替えもございませんし」と私は笑って見せる。
「では、馬車でお送りします」
それはありがたいが、ヨーゼフ様は侯爵家のご子息。
恐れ多くて頼めない。
返事に迷っていると
「殿下のご指示なのです。断られると、私が叱られてしまうのでどうか…」
と本当に困っている顔をされる。
これは、我を張っている場合ではなさそうだ。
「わかりました。よろしくお願いいたします」
困り顔から一転、ヨーゼフ様は素直な笑顔を見せる。
なんか、今…素晴らしく躾のいい大型犬を見た気がした。
思わず、頭を撫でたくなったことは内緒だ。
数日後、私はライツィンガー公爵家の応接間にいた。
ユーディット様から、お茶会のご招待にあずかったのだ。
その場にはゲルダ様もいらっしゃった。
ユーディット様とゲルダ様は幼馴染。
そもそも、ゲルダ様の実家である辺境伯家はクリスタラー将軍の末裔。
クリスタラー将軍はこの国の建国時に、初代の国王陛下の剣となって活躍された。
『国境の王』と、国王陛下自らが呼ばれたという逸話もある。
そして、それ以降もクリスタラー辺境伯家は国境の守護者として、王家との繋がりは浅くない。
ゲルダ様は王弟であるライツィンガー公爵様に庇護され、その屋敷に滞在していたのだった。
応接間には王太子殿下もいらした。
あの卒業パーティーの翌日、王太子殿下とゲルダ様の婚約が大々的に発表されたのだ。
「この一年間、学園から帰って来ても、ゲルダは公爵家で王太子妃としての教育を受けていたんだ」
クリストハルト王太子殿下が説明してくださる。
「…もっとも、すでに君は知っていたね。エッダ・フライホルツ男爵家令嬢」
「はい」
私の家は代々密偵の家系だ。
文官として働く父や長兄、騎士団に勤める次兄。
いずれも文官や騎士は表向きの仕事に過ぎない。
本職は、表向きの仕事ならではの立場で行う情報収集。
当然、公にはされていない情報も知り得ている。
女学園に通うにあたり、ユーディット公爵家令嬢の御身に問題が生じないよう、同い年の私が学院内での密偵となった。
最終学年では、王太子殿下との婚約が予定されていたゲルダ様も対象とされた。
とはいえ、幸いにも質の悪い嫌がらせなどに走る令嬢もなく、三年間を振り返れば楽な仕事だったと思う。
ゲルダ様にワインをかけそうになったミリヤム様も、一時的な気の迷いとされ、責任は問われなかった。
しかし、一歩間違えれば殿下にワインをかけて不敬罪に問われた可能性がある。
父である侯爵様によって、王都から遠い領地で分家筋に嫁がされるそうだ。
おそらく、王宮の夜会に出ることは一生ないだろう。
「エッダ嬢のおかげで大事にならずに済んだ。
私からも礼を言う」
「たまたま粗相をしただけですから…」
「侯爵も恩に着ていた。いい貸しが出来たな」
殿下は少し悪い顔で笑っておられる。
「卒業後は王城で侍女になると聞いたが」
「はい。男爵家の娘ですので、侍女と言っても雑用係として走り回るようになるかと…」
「ゲルダの侍女になる気はないか?」
殿下の突然の勧誘に驚いた。
しかし、王太子妃殿下の侍女ともなれば身分的に…
「ありがたいお申し出ですが、身分が釣り合いません」
「身分、か。フライホルツ家は代々手柄を立てているにもかかわらず、陞爵を断り続けているからな。
本来なら、すでに侯爵位になっていてもおかしくない」
「もったいないお言葉でございます」
「エッダ様」
ゲルダ様が口を開く。
「この一年、貴女が見守ってくださって本当に心強かったわ。
貴方のように信頼できる方が侍女になってくださると、とても助かるの」
「それに、身分は婚約でもすれば問題なかろう。
そこの壁際にいる男は三男だが、伯爵位を継ぐ予定だ。
エッダ嬢さえよければ…」
王太子殿下が顔を向けた壁際には、ヨーゼフ様がいらっしゃる。
しかし、流石に即答は出来ない。
「クリストハルトお兄様は強引ですわ。
エッダ様が困っていらっしゃるでしょう」
「それは申し訳ない。
だが、ユーディット、私は強引ではないぞ。
お前に婚約の打診をしたとき、断られてすぐに退いただろう?」
「あれは、単なる形式でございましょう?
それに、お兄様とわたくしでは身長が違い過ぎて、お話しするだけで首が凝りますわ!」
幼い時から仲の良かったことをうかがわせる、お二人の会話だ。
微笑ましさに黙って見守っているとゲルダ様が手招きしている。
「ヨーゼフ様のこと、考えて差し上げてくださいね。
卒業パーティーでの身を挺しての働きぶりに、いたく感動されていましたから」
あの日、家まで送ってくださったヨーゼフ様は
「自分は脳筋なので、エッダ嬢のような細やかな対応は出来ません。
身を挺して全員を守ろうとするなんて、なんとお優しい!」
それほどのことではないのだが「ありがとうございます」とお礼を言った。
こんなこともあろうかと、ドレスもお古のリメイクだったことは内緒だ。
「あの、大切なドレスが汚れてしまったので、私に新しいものを贈らせていただけませんか?」
突然の申し出に戸惑う。
我が家の門に着いたので、返事は保留としお礼を言って馬車を降りた。
メイドがドレスの惨状に驚いて、私を館の中に引っ張っていった。
玄関から振り返った時、ヨーゼフ様は我が家の執事に話しかけていた。
ユーディット様のお茶会からしばらくして、王宮で行われるゲルダ様のお披露目の夜会への招待状が届いた。
当日には、ヨーゼフ様が迎えに来てくださった。
返事を保留したはずのドレスは、なぜかサイズもピッタリ。
馬車に乗り込む時、横で控えていた執事が満足気に微笑んでいた。
騎士団にいる次兄は、訓練でヨーゼフ様と一緒になることがあり、公正でまっすぐないい男だ、と褒めていた。
いつの間にやら身内にヨーゼフ様の味方がいて外堀が埋まっていく。
「今夜は職務は解く、と王太子殿下から言われています」
馬車から降りる直前、そう言ってヨーゼフ様は私の手を取って口付けた。
指先から少しずつ、柔らかい熱が体中に広がっていくみたいだった。
夜会の会場に入ると、目ざとく私たちを見つけた王太子殿下が「こっちに来るな!」と言わんばかりに、追い払う仕草をしていた。
隣ではゲルダ様が扇子の陰で、笑いをこらえている。
煌めく夜会の中、物語の主人公になったみたいに、自分と彼のことばかり考えて過ごした。
二人で踊り、たくさん話をして、ビュッフェテーブルでは好きな食べ物を教え合う。
送られた馬車の中、この世にたった一人だけの私の王子にプロポーズされ、私は小さく頷いていた。