八
江戸の街は夕闇に暮れ、主な通りでは仕事帰りの人々が喧騒混じりに行き交う。
そんな街の一角の商店、店主を数日前に失った関本屋では今日も店は閉められ住む者の悲しみを孕んだような陰鬱な空気が漂う。
おふみは二階の自室でふと目を覚まし、病床から身を起こす。
障子の隙間からは橙色の光が漏れるように差し込んでいた。
「もう、夕方……?」
しんと静まり返った部屋を見渡すようにおふみはよろめきながら立ち上がる。
ここ数日、色々なことがあり過ぎた。
ヤクザ者に店を荒らされ丁稚や番頭に怪我を負わされた。
追い討ちをかけるように父親を殺され、若い娘の心には重圧がのしかかり思うように身体が動かせない日々が続いた。
それでも兄の菅四郎には迷惑をかけたとおふみは反省している。
それにしても兄の帰宅が遅い。
おふみは訝しみながら首を捻る。
「兄さん……? 今日は帰りが遅いわね」
連日奉行所通いをしていても、いつもはどんなに遅くなっても昼過ぎには帰ってくるのだが、今日は一度も帰ってきた様子がない。
おふみはふと妙な匂いを嗅ぎつけ、部屋の異変を感じとる。
「焦げ臭い…… 何の匂いかしら? 暑い……」
焦げ臭いばかりか何やら妙な音と共に気温まで上がっているようだ。
おふみは部屋から出ようと扉に手を掛けるが……
「開かない……?」
まるで目張りがなされているかのように扉はびくりともせず、おふみは自室から出られない。
そのうちに朦朦と黒い煙が立ち込め、橙色の炎が部屋の畳にちろちろと立ち上がり始めた。
おふみは口を手で押さえながら部屋の隅に縮こまる。
「そんなっ……! 火事だわ‼︎ 誰か! 誰か助けてっ‼︎」
大声を上げるが何者も居ないこの店の誰に聞こえるはずもなく、おふみは部屋の隅で震えているしかなかった。
そうしていると火のついた柱の一つがおふみに向かってめきめきと音を立てて倒れかかってきた。
「うわぁぁぁ‼︎」
おふみは咄嗟に転がるようにして避けるが、柱は彼女の左の頬にぶつかり焼き痕をつけた。
おふみは床に倒れ、それでも這いながら二階の窓から力を振り絞り叫ぶ。
「うう……‼︎ 誰か……‼︎ たすけて‼︎」
すると窓の向こうの通りに集まった野次馬たちが驚いたようにおふみを見つめた。
「おい大変だ‼︎ あんなところにお嬢ちゃんが残ってるぞ‼︎」
「消防のあんちゃん! 何とかしてやってくれよ‼︎」
法被のような消防服を着た若者たちは、一室に取り残されたおふみを見ると歯噛みしながら悔しそうに言う。
「くそっ! 無茶言いなさんな……!」
火の回りが早く、屈強な消防団でも救出を躊躇うほど、もう関本屋はどうしようもなかった。
ガヤガヤと煩い喧騒などおふみの耳には入らず、彼女は必死でここから助かる術や出火の原因に思いを巡らせる。
(火事⁈ なんで火事なんか……! 誰も居ないはずなのに……)
辺りを見るにこの屋敷が出火元のようだ。
自分以外誰も居ないはずのこの屋敷から出火したこともおかしい。
おふみは次第に頭がぼうっとしてくるのを感じる。
煙を吸い過ぎたのだ。
目眩を感じ、床に倒れ込んで嘔吐しそうになった。
「げほっ!げほっ‼︎ もうだめ……」
その時、外から男たちの野太い声が聞こえてきた。
「おーーい、お嬢ちゃん‼︎ そこからこっちの布に向かって飛び降りてきなさい‼︎ 大丈夫だ‼︎ きっとみんなで受け止めてやる‼︎」
力を振り絞って立ち上がり外を見ると、消防の男たちが大きな布を広げこちらに降りて来いと促がしていた。
「……! ううっ!」
おふみは躊躇した。
二階とはいえ結構な高さがある。
足くらい折れそう、いや打ちどころが悪ければもっと悪いことになりかねなかった。
「さあ早くするんだお嬢ちゃん‼︎ 焼け死んじまうぞ‼︎」
しかし、更に勢いを上げて炎に呑み込まれていく自室を見ると最早おふみに選択の余地はなかった。
「う、くっ‼︎」
意を決しておふみは二階の窓から、広げられた布に向かって飛び降りた。