二十 根岸と原川の出会い
寺子屋の教室に、根岸の朗々とした声が響く。
「過ちて改めざる。これを過ちという」
子どもたちが続いて論語を吟じる。
いつもの日常、平和そのものの光景であった。
根岸は机に座る生徒たちを見回し、その意味を誦じ、解説する。
「これは、過ちというのは誰でも犯すが、一番悪いのは誤りながらもそれを認めず、反省しない事である、と孔子先生は説かれておるのだ。お前たちもこれからの長い人生、いくらでも過ちを犯すことだろう。間違えてもよい。でも、その度に反省はしなければならぬぞ」
「「「はい!!!」」」
根岸の教え方は子どもたちにも分かりやすい、と評判であり、ここドブ街の子どもたちにも学問の基礎というものが根付きつつあった。
「先生! さようならー!」
「ああ、気をつけてな」
授業を終え、赤い夕焼けが空へと掛かる頃、生徒たちは笑顔で根岸に挨拶しながら、連れ立って帰っていく。
生徒たちのうちでも、気の回る子どもが根岸に帰りの挨拶をする。
「先生もしっかり休んでね!」
「ああ。暗くなる前に帰るのだぞ」
明日から三日の休日が続き、しばらく寺子屋は休講となるのだ。
教室を片付け、根岸は帰宅の途へとつく。
一日仕事を終え、倦怠を覚えるが、根岸は充実していた。
根岸が教職についてひと月の時が過ぎていた。
ドブ街の寺子屋に通ってくる子どもたちは新しい知識に飢えている者が多く、やはり教え甲斐がある。
側から見ればどう見えるかは分からない。
しかし、根岸にとっては子どもたちに教えている間は暗い過去を忘れる事が出来る時間でもあった。
最愛の妻と過ごしていた時間を除けば、故郷で道場を営んでいた時よりも楽しい時間だったかもしれない。
夕焼けの薄赤に照らされながら、歩いていると、声をかけてくる者がいた。
「根岸先生」
振り返ると、顔にある傷に見覚えのある男であった。
「……なんだ、原川 まだ江戸におったのか」
呆れた顔をする根岸に、原川太一郎は慇懃に頭を下げて、畏まる。
「少しだけお時間よろしいでしょうか?」
以前よりも畏まったその様子に根岸は参ったとばかりに苦笑した。
「拙者、金は無いぞ。先日入った給料が早速取り立てられてのお」
「承知仕りました」
その返事に原川は嬉しそうに笑った。
湯で薄く割った焼酎をちびちびと呑みながら、ドブ街の飲み屋で根岸と原川は久々に膝を突き合わせる。
一献傾けると、原川は根岸に深々と頭を下げた。
「先生、先般は失礼致しました。先生の気持ちも考えず、私の考えを押し付け過ぎました」
先日のことを反省し、原川なりに詫びに来たらしい。
根岸は原川の肩を叩き、顔を起こす。
「いや、もういいのだ。拙者を慮ってのことなのだろう。応えてやれなくて済まぬな」
「そのようなこと…… 私が間違っていたのです。先生は剣の達人であらせられるが、子どもたちに勉強を教えるのも達者であらせられる。私が貴方の生き方に口を出す道理などありはしないのです」
ガヤガヤと飲み屋の喧騒に混じって、二人は訥々と会話を続ける。
「わかってくれたのなら、良い。拙者もきつく言いすぎたな、済まぬ」
「いえいえ…… 非礼を貴方の隣人に気付かされました。全くもって、道理であります」
「そうか……」
件の隣人たちに思い当たり、根岸は頷く。
そうして互いに酌を交わし合うと、原川はそぞろに根岸の顔を見つめる。
「先生…… こうして時折、江戸に会いに来ても宜しいでしょうか? ただ、こうして話をしたいだけなのです」
「分かった。いつでも来るがよい」
頷く根岸に原川はほっとしたように微笑む。
◇
一年前、原川は父から受け継いだ流派と道場を盛り立てん、と各地を巡り、武者修行の旅をしていた。
今日もある道場の門を叩き、気合いの乗った声を上げる。
「頼もう。私は原川古武流、原川太一郎と申します。こちらの道場の評判を聞いてご教授願いたく参上仕りました」
道場主始め、居並ぶ面々はある者は気だるそうに、ある者は忌々しそうに原川を睨め付ける。
「……ふん 生意気な若造だぜ」
威圧を意に介さず、原川は深々とお辞儀して、道場へと上がりこんだ。
「お願い申し上げます!」
とりわけ、でかい男が木刀を手に原川を薄笑いで睨みつけた。
「分からせてやるよ」
こうして、他流の道場に乗り込んでは稽古をつけてもらう。
それが、若き日の原川太一郎の日常であった。
汗を拭いながら、痣だらけになった原川は夕焼けの空を見上げる。
「……ふう 今日も良い鍛錬が出来たな。まだまだ上には上が居るはずだ。慢心してはならぬ」
道場主はじめ、あらかたの剣士を立ち合いで退け、満足そうに原川は今日の剣筋などを思い返す。
正面から立ち合いを仕掛け、他流に挑戦する。
原川太一郎は愚直な男であった。
悪意は欠けらもなかったのだが、その行為が「道場破り」と取られ、恨みを買うということなど思いも寄らないのは若さ故だったのだろう……
帰り道、取った宿の近くまで来ると武士らしき男たちの影がチラホラと見え隠れし、原川は夕闇に目を細めた。
「……む? あれは、先程の道場の」
四名ほどいた男たちは、よく見ると先程の道場で破ったばかりの男たちであった。
愚かにも原川は無警戒で近づいていく。
「こんばんは。先ほどぶりですな。お世話になりました。拙者に御用でしょうか」
男たちのうちの一人が、硬かった表情をわざとらしく緩めると、原川に作り笑いを見せる。
「ああ、原川太一郎殿だな?」
「はあ、その通りですが」
何用かと訝しむ原川に男の一人はヘラヘラと笑う。
「……大層な腕前でしたな。私、貴方の剣筋には感服致しました。付きましてはご教授願いたく、我ら一同会いにきた次第でして」
原川が彼らを見回すとほとんど全員が頷きながら、笑みを浮かべている。
かすかに残っていた警戒を解き、原川は嬉しそうに頭を掻いた。
「そうですか。いや、然程ではござらぬ。だが、それ程言われるのなら……」
「いやいや、ご謙遜ですな」
揉み手までしながら、男の一人は原川の機嫌を取り喋らせ続ける。
……その時だった。
「……ぐっ‼︎」
不意に原川の頭に鈍い痛みが走り、前へと倒れる。
地面に手をつきながら、何が起こったか分からず、原川は辺りを見回した。
すると、先程まで話していた男が原川の頭を蹴ってくる。
地面を転がりながら、男の一人が血に染まる角棒を手に持っているのが見えた。
漸く、原川は男たちに不意を突かれ棒で頭を殴られたことに気づく。
よろよろと立ち上がりながら、原川は男たちを睨む。
「な、何をなされる⁉︎」
それを合図に物陰に隠れていたらしき者達もやってくる。
全員で十名は超えているだろうか。
全員が武器を手にしており、原川はここにきて罠に掛けられたことに気づき、歯噛みした。
男達は顔を真っ赤にしながら原川に怒鳴る。
「あれだけ完膚なきまでにやられちゃあよお! 俺たちの面子が立ち行かねえんだよ!!!」
「俺たちが弱い、だなんて言いふらされちゃあ叶わねえ!!! 死んでもらうぜ! 原川太一郎!!!」
思いもよらぬ言いがかりに、朦朧とした意識で原川は言い返す。
原川の頭からはポタポタと血が流れる。
「……な、何を言うか⁉︎ 尋常な立ち合いであっただろう⁉︎ 私に負けたのはお主らの鍛錬が足らぬ故だ!!! それに今日の勝ちを吹聴する気などない!!!」
男たちは嫌な笑みを浮かべながら原川を嘲笑った。
「はっはっ!!! うるせえよ! 間抜け!!!」
「ムカつくんだよ!!! 生意気な若造が!!!」
何とも勝手な言い分であるが、原川にはどうしようもない。
原川は震える腕で漸く抜刀する。
「くそ……!」
「それにここでお前を殺しちまえば、俺たちの無様さが外に漏れる心配はないってわけだ、な!!!」
金棒の一撃が迫り来るが、朦朧とした原川にはかわせず、頭に再び一撃を喰らい、地面へと転がる。
「……ぐぅっ⁉︎」
「へへっ! 今、無様で間抜けなのはお前だけどな‼︎」
一対一なら倒せる相手に見下ろされ、原川は悔しく思うがどうすることも出来ない。
「く、クソッ!!! 卑怯な……!」
「ははは!!! なんとでもいえ!!!」
「死人に口なし、ってな! じゃあさっさとやっちまうかあ!!!」
そう言って男たちは刃を振り上げる。
(くそっ……! なんて卑劣な!!!)
原川が悔しさに涙を滲ませたその時だった。
男の一人が明後日の方へと吹っ飛んだ。
「……ぐはっ⁈」
草原に投げ出された男は目を回し、気絶する。
何事かと男達が驚き、振り返ると見知らぬ男が睨め付けていた。
「おい、何をしておる」
殺気を放つその男に仲間の一人が投げ飛ばされたようだ。
その男は髭も伸び放題で、汚らしい服を身につけた浮浪者のようななりであった。
男達は憤慨しながらその汚らしい男を威嚇する。
「なんだあ?! おっさん!!!」
汚らしい男は表情を変えずに、血塗れで倒れている原川と男たちとを見比べ、状況を把握したようだった。
構える男達に怯むことなく、淡々と道理を説き始めた。
「少し聞こえておったが、余りな無道ではないか? 暴漢どもよ、頭を冷やせ。もう今は乱世ではないのだ。無闇に人を殺してはならぬ……」
男たちはその物言いに、ますます憤慨し、数名が斬りかかっていった。
「うるせえ!!! この小汚い浮浪者が!」
「くたばれ!!!」
しかし、男達は抜刀したその汚い男に腕を斬られ、次々と肘打ちや蹴りを喉や股間に喰らい、悶絶しながら倒れていく。
汚い男はため息を吐きながら、倒れた男達を見下ろす。
「……失礼な 拙者は浮浪者ではないわ」
もはや、原川に構っている余裕もなく、暴漢達は汚い男を取り囲む。
「チッ!!! 手強いぞ! こいつ!!! かまわん。こいつもやっちまえ!!!」
汚い男は頭を振ると、刀を構え直す。
「仕方ない。かかってくるなら、容赦は出来んぞ。お前達が悪いのだ」
「うるっせえええええ!!!」
「死ね!!! 汚い野郎が!!!」
男たちが一斉に襲いかかる。
原川は予想される凄惨な光景に思わず目を逸らした。
しかし、その汚い男は迫り来る斬撃を次々とかわすと、逆に男たちの腕や脚を切り裂いていく。
「……ぐはっ⁉︎」
「ぐええっ⁉︎」
「うああっ⁉︎」
手足を斬られた男たちは次々と地面へと転がっていく。
十名以上いた暴漢たちが、遂にあと二、三名ほどを残すばかりとなった。
その汚い男の剣の技量は暴漢たちを圧倒していた。
顔を青ざめさせながら、男達は後退りする。
「な、なんだあっ!? このおっさん強いぞ⁉︎」
「くっ……! とても敵わん! おい! お前! 関係ないだろうが!!! すっこんでろよお!!!」
汚い男は情けない屁理屈を捏ねだす男達に呆れながら、にじり寄る。
「関係ない、か。その通りと言えば、その通りだが、お前たちが先に拙者に刃を向けたのではないか。今更都合の良い言い分だな」
「……くっ!!!」
冷や汗を垂らしながら男達は、迫り来るその浮浪者風の男になす術がない。
汚い男が冷たい目で舐めつける。
「少し話は聞こえていたが、体裁が悪いから尋常に立ち会った相手を始末しよう、などどちらがみっともないのだ? ようく貴様らの今の姿を鏡で見返してみることだな」
「……ぐっ! やめっ! ぐはっ⁉︎」
男の蹴りが暴漢たちの股間や脇腹を穿つと、とうとう立つものは居なくなった。
悪党を片付けると、汚い男は唖然とその光景を見つめていた原川に手を差し伸べる。
「大丈夫か? 命には別状なさそうだな。歩けるか?」
手を借り、原川はよろめきながら立ち上がる。
そして、改めて振り返ると暴漢たちの気絶、もしくは悶絶した無様な姿に驚愕する。
(たった一人で……!)
しかも、あれ程の人数を相手にして命は奪っていないらしかった。
恐る恐る男を見上げながら原川はその名を尋ねる。
「……あ、ありがとうございます あなたは……?」
「根岸、と申す。ふらついておるな。やれやれ。家までは送ってやる」
根岸と名乗ったその男は肩を貸し、共に歩きだす。
「面目ござらん…… 危ないところを」
「構わんよ。困った時はお互い様だ」
そう言いながら、根岸は薄闇にどこか影のある笑みを浮かべた。
◇
飲み屋を出て、空にかかる月を眺めながら、原川は前を歩く根岸をチラと見遣る。
あの日以来、原川は根岸を理想の剣士として憧れてきた。
その暗い過去も自宅に招いた際に聞いた事があり、根岸の闇を理解しても尚、彼を尊敬してやまない。
むしろ、その過去に同情しており、何かあれば根岸の力になりたいとすら思っている。
そろそろドブ街の長屋が見えてきた。
改めて根岸の横顔に原川は強く思う。
(先生……! あの日憧れた勇ましき背中には未だに追いつけておりませぬ……!)




