十七 仇の名は
細い月が照らす薄雲の夜空を見上げ、白石は一つ伸びをした。
夜の間は滅多に近づく者はいない黒閻洞の周囲だが、今宵は「客」が来ることは、無縁墓地の赤い花により知らされている。
黒閻洞までの道は恐ろしがられているが、渡し人たちは何気にこの辺りの山賊たちを討伐しているので、一応安全は保障された道であるとも言える。
渡し人たちが密かに見張りに立っている今夜は特に……
お駒は白石の顔を見遣り、ふと声をかける。
「どうしたの? 兄さん。浮かない顔だね」
飄々とした白石の心根は実は表に出にくい、と実妹であるお駒は知っている。
今宵の兄はどこか憂いを帯びている、とお駒は感じた。
お駒で無ければ、白石の奥に隠している感情を読み取れなかったであろう。
白石は胸の内で妹に少し驚きながら、細月を覆う雲を見遣る。
「ああ…… 雨が降りそうだな」
「そうね」
もちろんそれは、芯を得た答えではない。
誤魔化したつもりだろうか、と訝りながらお駒は兄を気遣う。
「体調でも悪いの? 今日は乗らないのなら、受けなくてもいいんじゃない?」
「いや、そういう訳じゃないんだけどよ…… 来ちまったな」
そうして、白石は黒閻洞に近づく客達を認め、腰をあげる。
「じゃあ、行こっか」
忍びの兄妹は連れ立って、黒閻洞の側面をすいすいと登り、やがて頂きの隙間から中へと入る。
◇
汗を拭きながら、修二郎と吉之丞は漸く、黒閻洞の近くまで辿り着いた。
修二郎は元きた道を振り返り、忌々しげに伸び放題の草原と遠くに聳える首無し地蔵を睨む。
「……ふう まるで獣道だな。これでガセだったら笑い話にもならん」
「大丈夫ですか? 叔父上。しかし、ここが……」
「鬼の棲む祠、か……」
吉之丞と修二郎は現れた洞窟を見上げ、息を呑む。
いく人もの恨みを晴らし、悪人たちの血を啜ってきた鬼達が棲むと言われる黒閻洞。
その異様な圧に呑まれそうになり、修二郎は気持ちを奮い立たせる。
「ゆくぞ、吉之丞。泥を啜ってでも復讐は遂げねばならん……!」
「畏まりました」
提灯の灯りだけを頼りに、二人は洞窟の道を歩く。
常人であれば、心をやられそうなほど恐ろしく暗く不気味な穴であるが、名門武士の意地にかけて、修二郎と吉之丞は息を切らせながらも懸命に辺りを探りながら行く。
「なんとも不吉な所よ…… 蝙蝠に噛まれぬだろうな」
「足元にお気をつけください、叔父上」
やがて四半刻も歩くと、自ずと二人の足を止めるものが見えてくる。
そこには鬼の形相で立つ神仏を象った大きな像が聳え立つ。
修二郎と吉之丞は唖然として、神像を見上げた。
「なんともこれは……」
「叔父上…… いったいこれは」
「わからぬ…… しかし、こんなものは初めて見る」
その時、二人の会話を遮るように見知らぬ声が聞こえてきた。
「そこなる者たちよ。ここに来たからには、果たせぬ願いと覚悟を持って踏み入れたのであろう。早速其方らの願いを申せ」
二人は思わず目を伏せ、じっとその場から動けずにいた。
穏やかながら、鋭さもあるその声はどこか威圧がありながらも、何処から響いてくるのか分からない。
驚きすぎて、しばらく声も出なかったが、やがて、修二郎は姿勢を正し、神像に向き合いながら漸く声を絞り出した。
「……我らは坂山藩の名門小泉家、小泉修二郎、そちらは甥の小泉吉之丞と申す。一族の無念を晴らすためにここまでやって来た」
そうして、修二郎は屹と神像の辺りを睨みつけた。
「話をする前に言っておきたい事がある。顔を見せられぬのは良い。仕事が仕事であるからな。だが、渡し人共よ。我らは貴様らを信じてよいのか? 何人おるか分からぬ、素性も知れぬ者に金を払い、仇討ちを依頼しても良いものかとワシは思案しておる」
「……叔父上」
吉之丞は戸惑いながら叔父を見つめるが、引く気はないようだ。
思わぬ状況に心臓を早鐘が打つが、成り行きに任せるしかなく、吉之丞は俯く。
「当然の疑問であろう。どうだ? 渡し人よ。ワシが納得出来なければ今宵は引き上げる。一族の無念がかかっておる事案なのだ」
しん、と洞が一瞬静まり返った後、すぐに男の声が返答した。
「成る程。其方の言う事には一理ある」
少し可笑しそうに声は更に続ける。
「大した肝だな、御仁。支払いは暗殺成功の後でよい。それで納得するかね?」
修二郎は納得したのか、頷き了承する。
「承知した。必ず我らが仇を討ってくれ」
「申せ」
そうして、膝をつきながら、咳払いすると、修二郎は込み上げる念を押さえながら神像の足元辺りを睨む。
「我らの仇は強い…… だからこそ、こんなところまでやってきたのだ。我らが怨敵は我が兄小泉掃部を討ち、そればかりかその息子善助を返り討ちにした悪鬼のような男だ。首を斬り、我が藩に持ち帰りたい」
「仇の名は」
一刻も忘れた事のない怨敵の姿と名を思い浮かべ、修二郎は怨念を込めながら、叫ぶように吐き出した。
「坂山藩元藩士であり、堀円古流の当主であった根岸新之介という男だ」




