十五 掏摸の男
ドブ街と呼ばれる貧民街を抜けると、闇市ばかりでなく、少しはマシなものが売っている商店街がチラホラと見え始める。
寺子屋から街中にやってきたところで、子どもの一人が嬉しそうに駆けていくのを、根岸が慌てて声を掛け咎める。
「これこれ、余り慌てなくてもよい」
今日は根岸は寺子屋の子どもたちと連れ立って、おやつの買い出しに来ていた。
親たちから集めたお金で、子どもたちに飴を買う予定であった。
もちろん、子どもたちは誰もが買い物にいきたがったが、とりあえず成績上位三名である亀治郎、弥太郎、お清が生徒代表として、根岸と共に街にやって来ていた。
駆け出したのはお調子者の亀治郎だ。
振り返り、頬を紅潮させながら後に続く者たちを急かせる。
「先生! だってみんな待ってるよ!」
弥太郎は注意散漫となっている亀治郎に思わず叫ぶ。
「亀治郎くん! 危ないよ!」
「平気! 平気! 俺、飴舐めるの待ちきれないよ!」
そんな風にヘラヘラ笑いながら、前を余り見ずに走り出す亀治郎だが、不意に何者かにぶつかり、地面へと転がる。
「……わっ!!!」
転んだ亀治郎に野太い怒声が容赦なく浴びせられた。
「おい! 気をつけろ! クソガキ!!」
「ごめんなさい……!」
流石の亀治郎もしゅんとなって、ぶつかった男を見上げ謝った。
亀治郎を睨みつける男は、服をはたきながら、機嫌悪そうに鼻を鳴らす。
「フン! ちょろちょろ歩くな!
迷惑なんだよ!」
そう言って、男はさっさと歩き出した。
根岸は亀治郎を抱えて起こすと、男を呼び止めた。
「待たれよ、御仁」
男は怒った表情のまま、根岸を振り返る。
「何だよ……! オッサン! 急いでいるんだが?」
根岸は男にずいと近づき、しっかとその目を見つめる。
「子どもの不注意は拙者の責任だ。ぶつかったことは申し訳ない。……しかし、少し大人気ないのでは御座らんか?」
「ああ?! 文句あんのかよ?」
男は懐に手を突っ込んだまま、顔をずいと近づけ腕を組み根岸を睨みつける。
男は明らかに堅気の者ではない。
亀治郎はじめ、子どもたちはそんな様子をハラハラしながら見守るが、凄む男を相手にしても、根岸は些かも動揺を見せず、更には男の方へ近づいていく。
「あるからこうして呼び止めて、話をしておる。拙者の目にはお主から亀治郎にぶつかったように見えたがな。それから……」
そして、不意に男の腕を掴むとぐいと引っ張り上げる。
男は根岸の思わぬその行動に驚くが、懐に掴んでいた物が明らかになった。
「これはどうした事かな? 御仁?」
男の手には財布が握られていた。
男は決まり悪そうに慌てたような声を上げる。
「……あっ! てめえ……!」
男は初めて動揺を見せるが、根岸の手を振り払い、再び財布を己の懐にしまう。
その財布の巾着には寺子屋の名前が刺繍されており、模様からして、亀治郎がみんなの金を集めて懐にしまっていた物で間違いなかった。
「ああ!? 僕が持ってたお財布だ!」
子どもたちは全員息を呑み、男を非難の目で見つめる。
しかし、男は顔を紅潮させながら、さらに怒り始めた。
「言いがかりだ!!! なんだぁ!? この俺がスリだってのか?! 勝手に俺のもんをてめえらのもんだって言いがかりつけてるだけだ!!!」
子どもたちは、惚ける卑劣なその男に、更に非難の声を上げる。
「嘘だ!!! それはみんなのお金を集めたお財布だ! 返せよ!!」
「そうだ! そうだ! 寺子屋の名前が書いてあったじゃないか! 僕たちの財布だよ!」
「クソガキィィィィ……!」
唸りながら子どもを睨む男を、嗜めるように根岸は落ち着いた声で諭すように述べる。
「御仁よ。今それを返せば、大事にはせぬ。白を切るのを辞め、子どもたちに謝って財布を返してくれぬか?」
普通であれば、この寛大さに己の罪を反省するところであろう。
しかし、残念ながらこの男は性根が腐っていたようだ。
あろうことか、肩を震わせながらますます激昂を募らせると、懐から短刀を取り出し、刃を剥き出しにした。
「……なめんなぁ!!!」
子どもたちから悲鳴が上がる。
「うわぁ!?」
根岸はその背に子どもたちを庇いながら、男を睨みつける。
「下がっておれ」
男は目を血走らせ、短刀を振り回しながら、根岸たちに刃を向ける。
そして目を釣り上げ、激昂した声をあげて脅しにかかった。
「黙って聞いてりゃつけ上がりやがってよお! おい! そこどきな! 邪魔したらタダじゃすまさねえぜえ!!!」
根岸はそれでも、慌てることなく静かな声で男を嗜める。
「御仁よ。我々の財布を摺った理由は何だ? 食うに困っておるのか? それならば相談に乗る。罪には問わぬ。今から腹一杯食わせてやる事を約束する。ドブ街にも親切な方は居られるのでな」
その言葉に男はますます顔を赤らめながら、怒号を上げた。
「……ふ ふざけんなァァァァ!!!」
そろそろ、遠巻きにその様子を見守る人々も増えてきた。
しかし、我を失ったように男は刃を振り回して怒号を上げ続ける。
「この吉三郎を舐めるんじゃねえや!!! 食い詰めているのか? だとお!!? ふざけんな!!! 金がねえと高荷屋に通えねえじゃねえか……! いい女には金がかかるんだよお!!!」
根岸は男を見つめながら、呆れたようにため息をついた。
どうやら男は(女を売る方の)茶屋に通いたいが為に、子どもの財布を盗んだらしい。
「つまり、御仁は茶屋に通いたいが為に、この子達の金を摺ったと申されるか?」
吉三郎と名乗った男は顔を紅潮させながら怒鳴り続ける。
「そう言ってんだろが!!! 分かったら通せ!! クソどもが!!!」
根岸は呆れたように首を振る。
「……やれやれ 子どもたちに聞かせておれんな。もう少し下がっておれ、亀治郎、弥太郎、お清」
そう言うと、根岸は刃を持つ吉三郎に無造作に近づいていく。
余りに自然なその動きに子どもたちは、呆気に取られた後に根岸を呼び止めようとした。
「……先生?」
「先生! 危ないよ!」
しかし、根岸は歩みを止めることなく、怒りで我を失った男に近づいていく。
なんと、根岸は腰に差した刀を抜く様子すら見せない。
吉三郎はますます激昂しながら短刀を構える。
「おい……! オッサン! 俺は本気だぜ? ぶっ刺されてえのか⁉︎ おい!!!」
根岸は冷たい目で男を見つめたまま、ゆっくりと歩みを進める。
「情け無い男だ。子どもの金を盗んで女を買うなど呆れ果てた根性だよ」
「……うるっせえええええええ!!!」
男は遂に怒りを爆発させるように、短刀を構え、根岸へと突っ込んでいく。
刃は明らかに根岸の首筋へと向かって伸びていった。
遠巻きに見ていた観衆の一部や、子どもたちは思わず小さな悲鳴を上げる。
しかし、そんな観衆たちの心配など杞憂であった。
根岸は伸びてくる男の手首と腕を掴むと、一瞬で腰を入れ、投げを放つ。
「……ぐはぁっ⁉︎」
吉三郎の身体が宙に舞い、一回転すると腰から地面に打ち付けられる。
根岸はすぐさま、無様な声を上げる吉三郎をひっくり返し、その背に跨り、腕を掴み関節を固めると観衆の方を見ながら用件を述べる。
「しばらく獄に繋がれて反省するがいい。おい、そこなる方、お役人を……」
吉三郎は声を上げながら必死でもがくが、ピクリとも動くことが出来ず遂には諦めた。
子どもたちは驚きながら、心配そうに根岸の周りにやってくる。
鮮やかなその手際に、子どもたちは驚きながらも喜びを露わにした。
「すげーや! 先生!」
「先生! 大丈夫なの⁉︎」
「ああ、お前たちは大丈夫か?」
こうして、掏摸の一件は片付いたが、根岸新之介という男はつくづく運命というものから見放されている。
……二十数万を超える人口を抱える江戸で、己を追う仇に出くわす確率など如何ほどであろうか
民衆の一人に編み笠を被った男が、一部始終を見て、息を呑み目を見開いていた。
「……根岸? ……新之介だと⁉︎」
その身のこなしと、役人に名乗る男の名と声を聞いて確信する。
……それは男にとって一族の怨敵と言える名であった
編み笠の下から、子どもと話しながら歩き出す根岸の顔を睨みながら思わず肩を震わせるその男は、小泉吉之丞だった。
「こんなところにおったのか……! 我が怨敵!」
怨敵を見つけ、吉之丞は憤怒を隠しながらその後をつける。




