十四 根岸の回想「黄粱の如し」
おさとを喪ってからというもの、根岸はすっかり気力を失い、師とおさとの治療の際に借りた金を返すことも出来ず、担保となった道場も手離すこととなった。
剣術の師範まで辞める必要はなかったが、もはや根岸の覇気は失われ、弟子の中から一番優秀な者を選び、堀円古流の当主を急遽譲ることとした。
そうした話し合いの際、高弟たちのある者は怒りながら席を立ち、ある者は憮然としたまま根岸を睨む。
誰もが意気地がない、と彼を責めた。
「先生! 草葉の蔭で堀先生が泣いておられますぞ!」
もちろん、恩師には彼岸に行ってももはや顔向けすら出来ないと思った。
しかし、どれだけ頭で気持ちを振るい立たせようとしても、もう以前のような気力は湧かないのである。
しかし、道場を畳む件、そして根岸が一線から退く件に納得している弟子は誰一人として居なかった。
「先生…… 情けのうござります!」
根岸の指名により、次代の堀円古流当主となった弟子などは涙ながらに背を向け、彼の元を去っていったものだった。
そうして、剣から距離を置くこととなった根岸は、先代の道場と伝統を潰した男として、評判を地へと落とし、毎日つまらない業務ばかり与えられる閑職へと追いやられる。
どれだけ嘲られようとも、どんな仕事を与えられようと、彼は特に憤りや悲しみなどは感じない。
皆の言う通り、自分は最低の人間だとつくづく思う。
しかし、それをどうにかしようとすら思わない。
おさとを喪ってから、どこかが抜け落ちた感覚があり、気力が湧かないのである。
城の別館で、書き物や書類整理ばかりをする日々が続く。
若い者が廊下でヒソヒソと雑談をしているのが聞こえる。
どうやら自分のことを笑っているようだが、根岸は微かな怒りすら覚えない。
そんな時だった。
不意に雷鳴のような叱責が根岸の耳を穿った。
「おい! 根岸! 何をダラダラと仕事をしておる!」
扉の方を振り返ると、怒った表情の小泉が根岸を睨みつけていた。
「小泉……」
若い者たちがそそくさ、とその場から逃げていくのが見える。
構わず、眦を上げたまま小泉はツカツカと根岸に歩み寄ると、見下ろすように叱責の言葉を続ける。
「敬語をつけんか! もはや俺とお前はガキではないのだ。ここは殿のお膝下であり、職場ぞ。立場を弁えよ。わかるな?」
当然、公務の場では小泉の方が立場が遥かに上である。
根岸はしばらく表情も動かさず、じっと小泉の怒った顔を見つめた。
かつての友にここまで言われても、微かな怒りすら湧いてこない。
根岸はその場に手をついて平伏した。
「分かり申した。小泉さま」
小泉は地に堕ちた旧友のその姿に、ますます怒りで顔を曇らせる。
その時から小泉は事あるごとに、見ようによっては根岸をいびり始め、少年期の頃とは違う歪な二人の関係が始まった。
◇
「先生……? 先生?! どうされたのです?」
子どもの高い声が聞こえ、根岸は浅き夢のような瞑想から目覚める。
昔のことを思い返しながら短い夢を見ていたようだ。
根岸は苦笑いしながら、怪訝な顔をする生徒たちを見回す。
「ああ…… 済まなかったな。少しばかり、昔のことを思い出していたよ」
暫しの夢で過去を思い返し、根岸は改めて自分というものを見つめ返す。
つくづく自分は自ら全てを失い、底の底の人間だと思う。
しかし、死ぬ勇気すらない為、友ばかりかその子さえ返り討ちにしてしまった。
己の手を見つめながら、改めて思う。
根岸新之介という男は、紛れもない罪人である。
眩しいばかりの生徒たちの目を見回しながら、根岸は思わず目を細める。
そして、ただ願うことしかできない。
彼らがせめて、自分と同じ轍を踏まないことを。
「お前たちは…… 友人を大切にするのだぞ」
いつもとどこか違う根岸の様子に、生徒たちは怪訝な顔をするばかりであった。




