十三 根岸の回想「妻との別れ」
根岸新之介が師の娘おさとを娶ってから、二十年が経った。
二人は仲睦まじく穏やかな生活を送り、概ね幸せであったといえる。
心残りといえば、二人の間に子が出来なかったことであるが、こればかりは仕方ないと二人はいつか養子を取る方向で諦めていた。
そんな折り、二人の生活を暗転させる出来事が起こる。
坂山藩で死の疫病が猛威を振るい始めたのだ。
瞬く間に伝染した病は多くの人の命を奪い、根岸の師堀秀国の命さえ奪った後、妻おさとを病床へと追いやった。
痩せ衰え、青白い肌となった冷たいおさとの手を握りながら、根岸は必死で励ます。
「おさと! しっかりせよ! 今、医者を呼んでくるからな」
そんな根岸におさとは微笑みを浮かべながら首を横に振った。
「あなた…… もうよいのです。無理にお医者にみせなくても。私は運命を受け入れることとしました」
「何を言う! おさと! 死なせんぞ!」
涙ぐむ根岸にそれでもおさとは、穏やかな表情で微笑みかける。
「ねえ、あなた。まだ、身体が動くうちにあなたとの思い出をつくりたいの」
「おさと……」
よくよく話をしてみるが、おさとは医者の元へ行くより、残された時間を新之介と過ごしたいと言う。
自分がもはや治る見込みのない病人であることを、見越しての判断であった。
そうして、訥々と話していると遠慮がちに襖の向こうから声を掛ける弟子の声が聞こえる。
根岸が中座して、襖を開けると弟子が何かを言いにくそうに用件を切り出す。
「お取り込み中、本当に申し訳ありません。先生…… 客を待たせております」
「誰だ?」
弟子は眉を顰めると躊躇いがちに口を開く。
「小泉掃部さまです」
久しぶりにその名を聞いた根岸は微かに眉を顰める。
剣友であった小泉勝之丞は、今は小泉掃部と名乗り彼とは袂を分かっていた。
あの運命の試合の日以来、小泉掃部は剣を捨て、堀道場に立ち寄ることすら無くなった。
新之介と顔を合わせても、ほぼ話をする事もなくなった。
そんな彼が来訪しているという。
根岸は訝りながらも、廊下を急ぐ。
客用の応接の間に着くと、小泉が無表情で根岸を待っていた。
気まずく思いながらも、感情を隠しながら根岸は旧友に挨拶をする。
「小泉、久しぶりだな」
久しぶりに邂逅する旧友はむっつりと口の端を結び、不機嫌そうにこちらを見遣る。
「根岸…… 相変わらずむさ苦しい男だな」
相変わらずの狷介な表情にうんざりしながら、根岸は小泉の正面に腰を下ろした。
「何の用だ、小泉。あの日以来、お前は俺を避けていた。何もないということはあるまい」
「おさとさんが、流行り病に倒れたらしいな。医者代に窮し、道場も担保に入れたと聞いた。情けない話だ」
棘のあるその言葉に、根岸は小泉の顔をギロリと睨む。
「そんな嫌味を言いに来たのか? もう、円古流を辞めたお前に何の関係もない話だ」
嫌味たらしい薄笑みを浮かべながら、小泉は根岸をせせら笑うような目で見遣る。
「ふん、よくもそんな口を聞けたものだな。おさとさんを治せず、先生から受け継いだ道場も守れない男が一端の口を聞くな」
「黙れ、小泉」
その物言いに思わず根岸も声を荒げる。
両者の冷たい視線がかち合い、剣呑な空気が部屋に流れる。
刺すような沈黙を破るように小泉はふん、と鼻を鳴らすと気分を変えるように軽く首を振った。
「話というのはおさとさんのことだ。良い医者を知っている。紹介しよう。治療代も私が出そう。駕籠を用意しているから、今すぐおさとさんを連れてくるのだ」
一瞬、根岸は我が耳を疑った。
そして、理解する。
まだこの旧友はおさとへの思いを断ち切れていないのだ、と。
「小泉…… お前、まだ妻のことを」
睨め付けてみるが、小泉の表情は真剣そのものだった。
確か、彼にも妻子がいたはずである。
思わず、根岸の頭にもかっと血が上りそうになる。
小泉ははっ、と薄く笑いながら根岸へ冷たい目線を向けてくる。
「勘違いするな。世話になった堀先生への恩返しだ。貴様の辛気臭い顔など見たくもなかったわ」
根岸は旧友の顔をしばらく見つめ、考える。
しかし、首を振りながら目を閉じた。
「……申し出は有難いが」
「おい! 何を言うか!」
予想外の返答だったのだろう。
膝を叩いて小泉は怒るが、根岸は頑とした表情で首を振るばかりだった。
「おさとはお前の世話になどならん。俺が最期まで寄り添い面倒をみることにした」
肩を震わせながら小泉は、拳を握りしめるが、根岸の表情は一向に変わらず、意思を変える気は無いことは明らかだった。
「貴様……! 良い医者に見せれば少しでも長く生きられるのだぞ! それほど俺に恩を着せられたくないというのか! ……この件に関して俺は貴様に貸しを作る気はない! おさとさんを治療せよ!」
根岸は諭すように、じっと小泉の目を見つめる。
「違うのだ、小泉。おさとが治るならいくらでも、どんな相手にでも頭を下げよう。だが、彼女の意思は治療に時間を取られることではないのだ。わかってくれ、小泉。これは意地ではない。おさとを思ってのことなのだ」
「根岸! わからんな! 見下げ果てた奴だ! 亡くなった師匠も、おさとさんも、お前なぞを見込んで本当に気の毒なことだ!」
小泉は膝を叩いて立ち上がると、敢えて湯呑みをひっくり返して部屋を後にする。
憤慨する旧友の後ろ姿を見つめながら、根岸は小声で礼を述べた。
「小泉、わざわざありがとうな」
それから一週間後、おさとは病により帰らぬ人となった。
穏やかな死に顔であったという。




