六 隠している過去
根岸が教師の職についてから数日後の、ある日の朝、水汲みをしているところへ勢二郎が訪れた。
「根岸先生よお、毎日ご苦労様だな」
「おお、雨野殿。お陰様でよい職にありつけ申した」
「俺は何もしてねえよ。それよりよお、先生。親御さんたちが聞いてきたんだが、アンタ、子どもたちに剣は教えられねえのか? 立派な刀をお持ちじゃねえか」
そう言って勢二郎は根岸が腰に差した刀を見つめる。
柄は薄汚れ、やや年季が入っているが、それでも手入れは欠かしていないようだ。
しかし、根岸は首を横に振り、申し訳なさそうに頭を下げる。
「……拙者、剣には通じておりませんでな これは護身用にござる。私などが下手に子どもたちに剣を教えては怪我の元にござる」
勢二郎は剣の達人である。
並の人間ならば、根岸のぼうとした容貌からは、相当の修練を積んだことは窺い知れないが、その所作から、剣の技量をある程度伺い知ることが出来る。
(相当、剣を教えるのは嫌なのだろう)
それが嘘であることを一瞬にして見抜いた。
根岸の態度に謙遜以上の何かを感じ、勢二郎はそれ以上追及しない。
「そうか? なら仕方ない。アンタがそう言うならそうなんだろう」
「お役に立てず、申し訳ない」
そう言って深々と頭を下げる根岸に、勢二郎はひらひらと手のひらを振った。
「いや、ガキのお守りや勉強を教えてくれるのは立派だよ」
根岸に会った帰り道、勢二郎は物陰から声を掛けられる。
「失礼、根岸殿のお知り合いとお見受けしましたが」
勢二郎が振り返ると、編み笠姿の男が物陰から出てきて、傘を外しその素顔を晒す。
「ああ、知り合いと言えばその通りだが、アンタは?」
見ると額と頬に刀傷のあるその男の精悍な顔は武芸者らしかった。
礼儀正しくその男は、一礼すると挨拶を始める。
「おお、私は原川太一郎と申す者。前山藩のしがない一藩士にして、原川古武流の当主に御座ります」
原川古武流という流派は知らないが、地方の一流派なのであろう。
原川の慇懃な様子を見て、勢二郎は話を聞いてやることにした。
「そうか、俺は雨野勢二郎。何の用で俺に声を掛けたんだ?」
「少しお時間頂けますか? 根岸殿の事でございます」
そうして、二人は少し歩いた茶屋の軒先に腰を下ろした。
原川の奢りで茶と団子が運ばれてくる。
勢二郎は団子を齧ると原川を見遣る。
「……話ってなんだ?」
話を聞いていただけますか、と前置きして原川は生来の生真面目さを感じさせる口調で話し始めた。
「根岸殿は…… 私の命の恩人でございます。私は一年前、剣の道を極めん、と他流の道場へと押しかけ、稽古を乞うていました。しかし、そのようなつもりはなくても、私のやり方は道場破りと捉えられ、恨みを買うこともあります。ある日、隣の藩の道場を破った帰り、思わぬ待ち伏せに遭い申した…… 卑劣にも私の訪問を恨みに思った十名以上の武器を持った者たちが私を討とうと待ち伏せを仕掛けてきたのです」
ようやく話が見えてきた勢二郎は頷き、合いの手を入れる。
「で、そこを救ったのがあの根岸のおっさんと」
「その通りです。通りかかった根岸殿が、十名以上から成る武術家たちを倒し、私を助けてくださいました。こう言ってはなんですが…… あの風体からは伺い知れぬ程の剣の腕前で、ばっさばっさと敵を薙ぎ倒していったのです」
驚くこともなく勢二郎は頷く。
「そうか、やっぱり剣の腕を隠してやがるんだな、あいつ」
「それから、二月ほど私の道場で生活され、たまにですが私に稽古もつけてくださいました。それが、ある日、ふらりと出ていかれて
…… 根岸殿は、江戸でどうされておられるのですか? しばらく寺子屋の様子を伺ってはおりましたが、是非直接あなたの口からお聞きしたい」
心底心配している様子の原川に、勢二郎はドブ街での根岸の生活を掻い摘んで話してやる。
紆余曲折を経て、ようやく教師の職を得たということに原川は納得したようだった。
「……そうですか 先生がお世話になっておりますな。では、改めてお頼み申し上げる。根岸先生には、前山藩に来ていただき、私の道場の師範になっていただきたいのです。あなたからも説得して頂けませんか? 根岸殿は、かような街で不安定な生活を送るのは勿体なきお方なのです」
真剣な表情で原川は頭を下げてくる。
この武士は相当、根岸に入れ込んでいるらしかった。
勢二郎は苦笑する。
「ほう、そりゃあドブ街のせせこましい生活をバカにしてるのかい?」
慌てたように原川は失礼に気づいたようだった。
「いえ! けしてそのようなわけでは……」
勢二郎は慌てた様子の原川を見て笑った。
「ふん、怒ってねえよ。ちいとからかっただけさ。でもな、アンタが根岸に恩義を感じていて、ご執心なのはよくわかったが、今の話、直接本人には伝えたのかい?」
「ええ、もちろん先日話を致しましたが、とりつく島もなく…… それで、お世話になっている貴方の話なら聞くだろうと」
「なら、この話は仕舞いだ。アイツが断ったなら俺の出る幕じゃないだろう」
「しかし……」
勢二郎は団子を頬張り、ずずと茶を飲む。
「なあ、あんたが奴を買ってるのはわかるが、考えてみろ。あいつにしたら、余計なお世話だと思うぜ。今の仕事と生活に満足してるのさ。それにな」
茶碗を椅子に置くと、勢二郎はどこかを見る遠い目になる。
「剣術は突き詰めれば、人殺しの技でしかねえ。その事をアイツはようく分かってるんだろう。剣のことを聞いた時、そんな目をしてたぜ。なあ、あんた、根岸の過去でまだ話してないこと、あるだろう?」
答えづらいのか原川は顔を顰めると、その質問に口を噤む。
「……それは 私の口からは申し上げられません」
「そういうこった。じゃあ、この話は終わりだな」
勢二郎は団子を食べ終え、茶を飲み干すと席を立つ。
原川は慌ててその背に声をかける。
「分かりました…… 根岸先生のこと、よろしくお頼み申し上げます!」
「嫌だよ」
振り返らないままの背に、原川は一つお辞儀をした。




