四 根岸に合った仕事
ドブ街にも寺子屋がある。
親が仕事に出ている間に子どもを預け、勉強の面倒も見てもらえる場であるが、教師の担い手が長らく不在で、ドブ街の子どもたちの教育は問題となっていた。
高台の端に建てられた小さな寺院の広間には机が並べられ、多くの子どもたちが居並び、教壇に立つ根岸の朗々とした声が響く。
「子曰く、学びて思わざれば則ち罔し。思ひて學ばざれば則ち殆し」
論語を記された書物を手に、根岸は子どもたちの顔を一人一人見回しながら、読み上げる。
根岸の朗読の後に子どもたちの声が続いた。
そして、根岸の解説が続く。
「つまり、孔子先生はこう仰った。師に教わってばかりで、自分なりに教わった物事の意味を考えずにいると学んだことも己の力にならない。また、自分で学んで、考えただけで物事を身につけたつもりになっちゃいかん、と。友達や同輩の考えを聞いて学ばなければ、考えが凝り固まってしまう、ともいえる。相反する二つの教えはつまり、学問の心得と難しさを表しておるのだ」
そんな根岸と子どもたちの様子を遠目に見ながら、勢二郎たちは満足そうに頷いた。
「根岸のおっさん、上手くやってるじゃねえか」
壬午郎は無表情のまま、それでも一瞬だけどこか柔らかな表情を見せた気がした。
「うむ、やはり武士としての教育を受けた御仁のようだな。性格も穏やかだし、子どもに勉強を教えるのは向いているようだ」
武士とは貴族階級であり、家を守るために幼い頃から武術だけではなく、勉学もその身に叩き込まれた者たちである。
江戸期の武士たちが臨時雇いとして、寺子屋で子どもたちに勉強を教える、ということはよく見られる光景だった。
今回根岸に紹介したのは、ドブ街の子どもたちの教師であるが、上手いことハマったようだ。
ドブ街において、こういった人材は貴重である。
感心しながら白石は壬午郎を振り返る。
「よく、適正が分かったな、壬さん」
「なんとなく、な」
根岸は新たに何かを覚えることは不得手だが、その真面目さでこれまで身につけた何かを人に教えることなら出来るだろう、と判断してこの教職を紹介したのだった。
それに話を聞いてみると、故郷ではたまに子どもたちに勉強を教えるようなこともしていたらしい。
「良かった、良かった。面倒を見た甲斐があったぜ。まったく…… 」
面々は根岸が子どもたちの質問に鷹揚に応える様を見て、これならやれそうだ、と胸を撫で下ろす。
子どもたちが早くも根岸のぼうとした風体に親しみ、手を上げ次々と質問を繰り出す。
「先生ー! これはどういう意味ですかー?」
「それはの……」
午前の授業がひと段落つくと、休憩の間に白石は根岸に尋ねる。
「なあ、根岸先生。親御さんから算盤も教えてやって欲しいって要望があるんだが、出来るか?」
根岸は胸を叩いて、鷹揚に頷く。
「ああ、引き受けた! 拙者、客に急かされないなら算盤だって出来るでござるよ」
「そうか、頼んだぜ。この仕事は、子どもの親たちや街の方から御礼として給料は出るからな」
根岸は嬉しそうに顔を顰めながら、改めて長屋の面々を見渡し礼を述べた。
「……それはありがたいでござる! 何から何までやって頂いてどうお礼をしていいのか……!」
「いやいや、まずは長屋の皆さんに借りた金は返さねえとな」
根岸はぽりぽりと頭をかいた。
「おおう、失念しておったでござる!」
「忘れんなよ……」
そうして、もう大丈夫そうとみた白石たちは寺子屋を後にしようとする。
今日は授業は夕刻まであり、根岸に全てを任せても良いと思った。
「じゃあ、俺たちは帰るからな。流石に1人で帰れるだろ?」
「ああ、心配いらないでござる」
白石たちが帰り、また昼食を終えた子どもたちが寺子屋に戻ってくる。
しかし、そこへ見知らぬ影が……
林の影から寺子屋の様子を見守る編み笠の男がいた。
「根岸先生……? こんなところで何を……」




