序 雨夜の惨劇
しとしと、と雨がそぼ降る晩。
ある地方の坂山藩の藩邸では、晩餐会が開かれていた。
集まった藩士たちがわいわいと騒ぐ中で、窓際で一人で酒を呑んでいる武士がいる。
無精髭の伸びたその男は、チビチビと酒を呑みながら、見るともなく、雨の降る宵闇をぼうと見つめていた。
そんな辛気臭い武士に、歩み寄り話しかける者がいた。
「根岸、今日も不味そうに酒を呑んでおるのう」
根岸と呼ばれたその武士は、男の傲岸な物言いに、面倒そうに振り返る。
「……小泉殿」
小泉と呼ばれた武士は、良い裃をパリッと着こなし、赤ら顔で見下すように根岸を見つめた。
「もっと謙るがいい。来月から俺は貴様の直接の上役になるのだぞ」
根岸は食事の手を止め、その場で深々とお辞儀した。
「……よろしくお願い申し上げます」
しかし、小泉は何故かその態度に、ますます憤ったように根岸を見下ろす。
「おい、根岸。まだ二年も前に亡くなった妻のことを引きずっておるらしいな。誰も彼もが貴様と居ると息苦しいと言うておる。さっさと切り替えて後家をもらわんか!」
根岸は黙って頭を下げたまま、一言も反論することなく、傲岸なその物言いを聞いたままである。
根岸新之介と小泉掃部は若い頃は、同じ道場に通う言わば剣友であった。
それが、家格の差があるとは言え、藩内での地位や禄の差が開き、ついには先日、小泉が根岸の直属の上司となることに決まった。
付き合いが長い故に、本人たちにしか分からない訳があって、数年前から小泉から根岸への当たりは厳しい。
小泉掃部はますます冷たい目で、平伏する根岸新之介を見下す。
「まったく、お前は昔から甲斐性のない男だったよ。おさと殿も貴様のところに嫁いで後悔しておったことだろう! なあ! 新之介! 貴様の甲斐性の無さが、おさと殿を死なせたのだ!」
その瞬間、仲の悪い二人の成り行きをハラハラと見守っていた他の武士たちの間に冷たい空気が走った。
そして、根岸が徐に立ち上がり、無表情で小泉の顔を覗き込んだ。
「……表に出よ」
「は?」
呆気に取られる小泉に、根岸は己の腰に差した刀を叩く。
「表に出よと言うとる……! それとも俺が怖いか! 小泉掃部!」
怒りと共にせせら笑いながら、小泉も腰の刀に手をかけた。
「はっ! 面白い! もはや貴様の辛気臭い顔には飽き飽きしとったんじゃ!」
そして、二人は同時に広間から庭へと飛び出す。
雨が降る、しとしとと降る夜に、二人の同門の武士の殺気が劈くようにぶつかり合う。
慌てたのは、見ていた周りの武士たちである。
「うわあっ!」
「おやめくだされ! 小泉殿! 根岸殿!」
「だれかっ! 二人を止めよ!」
しかし、止める間もなく、二人の斬り合いは始まろうとしていた。
根岸は殺気と共に腰の刀を抜き放つ。
「抜けっ! 小泉! 貴様の陰険にはもう我慢ならんっ!」
合わせて、小泉は口の端を歪めながら抜刀した。
「はっ! 真っ当な立ち会いだ! 斬られても化けて出るなよ! 根岸!」
二人が庭の芝を駆け抜けると共に、白刃が雨夜に飛び交い、金属のかち合う音がうち響く。
「「ふんっ‼︎」」
「根岸! 俺は前からお前を! 斬ってやりたかった!」
「やれるものならやってみよ!」
数合打ち合う度に金属の音が雨の夜に響き、両者は一進一退を繰り返す。
同門なので、手の内はある程度、互いに見えている。
……しかし、均衡は不意に破れる
「甘いな、小泉!」
根岸の刀が小泉の大振りの斬撃をかちあげると、その脇をくぐるように白刃が弧を描いた。
「……うあっ⁉︎」
肉の削れる音と共に、鮮血が雨夜に舞う。
やがて、小泉は首元を押さえてどう、と地へと倒れ伏した。
遠目に見ていた武士たちは、驚きながらなんとか状況を整理しようと努める。
「うわぁぁぁぁぁ⁉︎ おいっ! どちらかが斬られたぞ!」
「小泉さまだ! 小泉さまが斬られた‼︎」
やがて肩で息をする返り血を浴びた武士は、斬った友を見つめていたかと思うと、屋敷から表へと猛然と飛び出した。
「根岸! 待て!」
「根岸が逃げたぞお!」
雨夜が根岸の捜索を難航させ、坂山藩は遂に根岸を捉えることは出来なかった。




