至福の往生
濛々と立ち込める湯煙に男の人影が揺らめく。
ぽちゃり、と湯の音が岩でできた床や壁に跳ね返り温かそうな湯気が更に噴きたった。
湯に浮かせた盆に乗せた猪口に酒を注ぐと顔を赤らめた老人は旨そうにぐびぐびと飲み干す。
「爺さん、ご機嫌だなあ。何かいい事あったのかい?」
近くで湯船に浸かっていた男がその老人の余りにも満足そうな様子に思わず声をかけた。
白い湯煙に巻かれながら老人はにっと笑い返す。
「ああ…… いいこと、か。たくさんあったぜ。俺の息子たちがなあ、こんな馬鹿野郎の爺のためにようく孝行してくれたんだよ」
老人はひと月前の愛弟子の優勝の日のことを噛み締めるように思い出しながら、満足そうに笑う。
羽鳥は友人である亀川に弟子たちを任せると、羽鳥部屋を閉じて湯治の旅へと出た。
自分の身体のことは自分がよく分かっている。
そろそろ迎えが来る頃だろう……
余りにも相撲に打ち込み過ぎて所帯を持つことはなかったが、後悔はない。
羽鳥にはもはややり残したことは何もなかった。
男もまた、盆に乗せた猪口を乾かし、羽鳥に笑いかける。
「そりゃあうらやましいこったな。俺んちのガキどもは言うこと聞かねえ奴らばっかりでうんざりだぜ」
「ふふ…… いいではないか。子とはやんちゃなほどかわいいものだ。……実子がいないワシが偉そうに言えた口ではないがな」
「そうか、爺さん。いい子たちをもったんだなあ」
羽鳥は暖かな湯に浸かりながら、徳利の酒を一気に飲み干した。
天井を見上げながら羽鳥は顔をますます赤らめる。
「……ああ 相撲にばかりかまけた馬鹿な年寄りには勿体ない子たちだったよ……」
羽鳥の意識は徐々に遠くなっていく。
湯船にもたれかけたまま羽鳥は目を閉じた。
「おーーい、爺さん? どうした? おい……?」
返答が急に途絶え、不審に思った男は羽鳥に声を掛ける。
肩を揺すった時にはその老人は眠るように息を引き取っていた。
それは満足そうな笑みを浮かべ亡くなっていたという。
夕暮れのドブ街の長屋の一角で、弥太郎は無口な男にその手形を見せびらかす。
「おじさん! みてよ! 伏虎関にもらった手形だよ‼︎」
壬午郎は頷きながら箸を動かし魚をほぐす。
「そうか、よかったなあ弥太郎」
その時、足音と共に戸を叩く音がした。
返事を返すと共にがらりと扉が開く。
「よお、少し邪魔するぜ壬さん、弥太郎」
「なんだ白石」
白石が壬午郎の長屋を訪れたのだ。
「こんばんは! 白石さん!」
「おう、弥太郎。ちょっとだけ壬さん借りるぜ」
そうして、白石は壬午郎を長屋の外へと連れ出す。
「……そうか 往生したか」
無表情のまま、壬午郎は白石の口から羽鳥親方の訃報を聞く。
「草津の温泉で湯に浸かりながら逝ったらしい。羨ましい最期だな……」
薄く帳の降り始めた夜空を見上げながら壬午郎は呟くように答えた。
「ああ、俺たちは枕の上じゃ死ねねえだろうからな」
白石はそのいつもの調子に苦笑いしながら嘆息する。
「そう暗いこと言うなよ。多分、爺さんもあんたに感謝してると思うぜ」
薄闇に瞬き始めた星を見上げながら、二人は老人の冥福を祈った。
後一話です。
今夜十一時頃更新します。
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