伏虎 対 張天山 開戦す
ガヤガヤ、と不穏な空気と共に騒めいていた観客たちは花道から現れたその大きな影を見て一瞬静まり返る。
そしてひそひそと罵倒や悪口が観客の間で飛び交った。
「おい! やっと出てきやがったぞ! 横綱だ!」
「全く、この大一番に水を差しやがってよお」
張天山が眉間に皺を寄せ、重い足取りで何故か後方を監視するようについてくる侍らしき男たちを気にしながら青ざめた顔で花道を行く。
観客たちはいつもとは違うその悪たれの様子に馬鹿にしたように罵声を浴びせた。
「びびってやがんのかあ⁉︎ 張天山よお‼︎」
「八百長野郎‼︎ しっかりしやがれ‼︎」
張天山はぎろり、と野次を飛ばす観客たちを睨みつけながら歯噛みする。
しかし、もはやまな板の上の鯉である張天山にはどうすることもできず、重い足を前に進めるのみであった。
(ちくしょう‼︎ ……愚民どもめ‼︎ 勝手な事ばかり抜かしよって‼︎)
観客席の一角では腕組みをした勢二郎がため息を吐きながら、花道を見つめる。
「おーおー。やっと来やがったか、クソ横綱」
と、同時に現れた白石にお駒は軽く手を振る。
「あ、兄さんおかえり」
「よお。まったくつまらねえ仕事だったぜ。あんな情けねえ野郎は見た事ねえよ!」
駄々をこねるように支度部屋に閉じこもる張天山の監視に飽いた白石は、呆れたような表情を浮かべて席の一つにどっかと腰を下ろした。
壬午郎は弥太郎の世話を焼きながら、漸く土俵へと上る張天山と、威風堂々とそれを待ち構える伏虎を交互に見つめた。
「よく見とけよ、弥太郎。きっと面白い取り組みが見られる」
「うん!」
弥太郎は待ちかねたとばかりに笑みを浮かべながら、本日雌雄を決する両者が上った土俵へと熱い視線を送った。
横綱が漸く現れ、取り組みが始まる。
兎丸は水を飲み干した伏虎から柄杓を受け取りながら、不安の混じった表情で兄貴分の顔を覗き込んだ。
「……アニキ どうか落ち着いて、それでいて勝って下さい‼︎」
笑い飛ばすように伏虎は今一度、四股を踏み、黒い廻しの調子を確認する。
「はっ! 分かってるよ。そんな顔すんな兎丸」
そして、ふと何かに気づいたように観客席に目をやった。
「……律子 見に来てくれたようだな」
伏虎の視線を追い、兎丸も気づく。
律子が観客席にいたのだ。
「姐さん、あんなにためらってたのに……」
そして、伏虎は兎丸の頭に出来た傷や顔の痣を見る。
昨日のことで見直した。
こいつももう一端の力士だ。
「兎丸、お前も昨日はそんな怪我しながらよく頑張ったな。律子が無事なのはお前の勇気のおかげだ」
「アニキ……!」
涙ぐみながら見上げる兎丸に背中を見せると、伏虎はいよいよ対岸の憎き仇を静かに睨みつけた。
「みとけ。本日、お天道様が見守る前であのクソ野郎に引導を渡してやる」
時間いっぱいになり、行司が開始線に立つ両者を見合わせ大きな声で名乗りを挙げる。
「東ぃぃぃぃぃーーー‼︎ 羽鳥部屋‼︎ 伏虎ぉぉぉぉぉぉ‼︎」
期待の混じった歓声が渦巻くように青天を突く。
この場にいる殆どが伏虎の味方であった。
「西ぃぃぃぃぃぃーーー‼︎ 三角山部屋‼︎ 張天山んんんんんん‼︎」
怒号と罵声が地鳴りのようにうち響く。
この場の誰もが、張天山の敗北を願っていた。
千秋楽の決戦の場はまるで煮えたぎった鍋の底のようであった。
通常の空気ではない。
練磨の初老の行司でさえも冷や汗をかき、緊張した面持ちで軍配を構える。
「……両者、見合って! 見合って……!」
張天山は太い眉を引き上げながら、怒りで顔面を紅潮させ伏虎を睨みつける。
(伏虎ぉ……! 忌々しい野郎め……‼︎)
一瞬の静寂ののちに、行司の軍配が遂に振り下ろされた。
「……はっけよーーい‼︎ のこった‼︎」
張天山は加速をつけて、伏虎の懐へと飛び込んでいく。
「その目が気に入らねえぜ‼︎ 伏虎ぉぉぉぉぉ‼︎」
……策があった
密かに隠し持った鉄針の塊が張天山の掌で鈍く光った。




