月下の鍛錬・最後の日
光る月が二人の男を見守るように照らす。
それは連日誰も見ていない境内で繰り広げられている驚くべき光景だった。
角界でも強者として知られる伏虎が名も知らぬ仮面の男にちっとも歯が立たないのだ。
投げ飛ばされた伏虎はすぐさま起き上がると、狐面の男とがぷり四つに組み合う。
全力を出しても微塵も動かない狐面に伏虎は顔を真っ赤にして更に力を込める。
「グググググ……! くっ! 一度くらい投げてやるぜおっさん‼︎」
狐面は伏虎の力にもびくともしない。
「日増しに良くはなってるが、まだまだだな。俺を投げるには至らねえ。今だってほれ、脇が甘いぜ」
「グッ!」
組み合っていた肩が離れたかと思うと伏虎の身体が宙を舞い、一回転すると尻から地に落ちる。
滴る汗を拭いながら荒ぶる息を整えつつ伏虎はまた立ち上がった。
「くそっ! もう一番だ‼︎」
狐面はふと月を見上げて首を横に振った。
鍛錬を始めてもうそろそろ半刻になる。
「……いや、もうやめだ。お前の目的はなんだ? 江戸場所でお前の兄貴の仇をとる事だろ? 俺を投げ飛ばすことじゃねえ。明日はゆっくり休むこったな」
確かに江戸場所までは今日を入れて二日しかない。
連日、この男とは激しい取り組みを繰り広げた。
一方的に投げられた伏虎に溜まった疲れは中々のものがある。
伏虎は不満そうに唇を噛み締めるが、やがて後ろ向きに倒れるように地面に寝転ぶ。
今晩は伏虎が男と出会ってから三日目。
男の言によるとこの奇妙な鍛錬の最後の日だった。
ついぞ伏虎は狐面を一度たりとも投げ飛ばすことは叶わなかった。
心地よい悔しさを噛み締めながら伏虎は倒れたまま息を整える。
「……チッ! あーあ! てめえの仮面くらいは外してやりたかったぜ‼︎ なあ、いったいアンタは何者だったんだ……?」
相変わらず感情の読めない口調で男は応える。
「俺が何者かなどどうでもいいことだ。なあ、伏虎。力士にとって強いことは何より大事なことかもしれねえ。仇が憎いのも分かる。だが、思いの強さのあまり、憎むべき相手のようにはなるな。お前の兄貴のような男になれ」
伏虎は地に寝転がったまま頷く。
癪だがこの妙な男に出会わなければ伏虎は道を間違えていたかもしれない。
「ああ、わかってるよ」
そして狐面の男はバツが悪そうに頬を掻き、言いにくそうに切り出す。
「あとは…… なんだ、お前の親方と兄貴分の悪口を言ってすまなかったな。あれは俺の本心ではない。だが、本当にすまなかった」
思いがけないその言葉に一瞬呆気に取られた伏虎はたまらず吹き出す。
この三日間、鬼のように容赦なく自分を罵倒し、投げ飛ばしたあの男が殊勝にも謝っているのだ。
身を起こし顔を上げると伏虎は狐面を見つめた。
「……それもわかってるよ。それにな、アンタの言ったことは一部間違ってない。アニキは死ぬべきじゃなかった。兄貴は最高の人だったがそれだけは間違ってたんだ」
狐面は一つ頷くと、そのまま背を向ける。
「そうか、それならいい。じゃあな、伏虎。頑張れよ」
「……ありがとうな、おっさん」
そのゆっくりと遠ざかる背は確かに自分より遥かに小さな男のものではあるが、月夜にとてつもなく大きく影が掛かるように照らされ、やがて何処かへと消えていった。




