一年振りの乃木屋
兎丸が人の気配でふと目が覚め、練習場に向かうと伏虎が掃き掃除をしている。
慌てて兄貴分に駆け寄り、箒を取り上げようとした。
「アニキ! 掃除なんて俺がやりますから休んでてくださいよ!」
しかし、伏虎は箒を手放さず何気ない様子で掃き掃除を続ける。
「いいからたまには雑用もやらせろよ。少し初心を思い出したくてな」
「アニキ……」
まだ朝焼けの空が赤い朝に羽鳥部屋の力士たちも起き出してきた。
起きてきた先輩力士たちは掃除をしている、というよりここ最近見せなかった伏虎の穏やかな様子に驚きながら俺も、俺も、と掃除を手伝い始めた。
その掃除の最中、伏虎は先輩達にボソリと呟くように言った。
「兄さん方も…… 今まで素気無くして悪かったな」
「伏虎……」
「おい、大丈夫か? 何か悪いものでも食ったんじゃねえのか?」
伏虎の殊勝な様子に驚く同輩たちに舌打ちしながら掃除を終えた伏虎は気まずそうに頬をかく。
「チッ! なんだよ、人がせっかく素直になってるってのによお……朝飯食ったら出かけて来るぜ」
江戸でも人気の甘味処乃木屋は今日も賑わう。
一年前までは美人姉妹の給仕で有名だったこの店も今はもう妹の律子しかいない……
「お待たせ致しました、抹茶とあんみつです。ごゆっくりどうぞ」
客はキビキビと働く律子の笑顔を目当てに来る者が殆どだ。
厨房の奥から店主である父親が声をかける。
「律子、もう少ししたら休憩行ってこい」
「わかった、おとっつぁん」
いそいそと盆を掲げ、食器の後片付けをしていると暖簾をくぐり一際大きな客がふらりと現れた。
「いらっしゃいませ! ……虎?」
気まずそうに眉を顰める伏虎がそこには立っていた。
伏虎としては一年振りの来店である。
「……よお、律子。 おやっさんも」
律子は戸惑うが、店主は笑みを浮かべて歓迎する。
「ああ、伏虎さんじゃねえか。よく来てくれた。ほら律子、案内しねえか」
律子の案内で伏虎は店の席の一つに腰を下ろす。
「……珍しいじゃない アンタがこの店に来るなんて。思ってみれば去年以来ね」
「そうだな。ああ、兄貴が好きだったもの頼むよ」
「はいはい」
しばらくすると盆に載せた熱い茶とあんみつを持った律子が伏虎の席に置いてさっさと去ろうとする。
「はい、あんみつ。ごゆっくりどうぞ」
「横へ座れよ、律子。少し話がある」
内心で驚きながら律子は伏虎の横に腰を下ろす。
ふと伏虎の横顔を伺う。
今日の伏虎からはいつもの棘のような雰囲気が消えているようだった。
「……どうしたのよ、虎。大丈夫? 私があんたたちの部屋に行っても頑なに私と目も合わせようともしなかったのに」
茶を啜りながら伏虎は律子を見つめる。
「そうだな、俺の頑なな、かちかちだった頭はどっかの変なオッサンにかち割られちまったよ」
「なによそれ」
本当に頭でも打ったんじゃないのか、と律子は苦笑しながら思わず吹き出す。
しかし、あんみつをゆっくりと頬張り伏虎は更に律子が驚くような事を言う。
「なあ、律子。去年は…… 俺を止めてくれてありがとうな。もしお前が居なければ大変なことになっていた。こうしてここで笑っていることすら出来なかっただろう。今まで素気無くして悪かったな。俺は兄貴を失った悲しみに向き合えてなかったんだ。お前もおまさ姐さんを失って辛かったろうにな…… 済まなかった」
そう言って頭を下げる伏虎に律子は戸惑う。
「な、何よ…… 本当に頭打ったんじゃないの? ねえ、大丈夫?」
目を見ると伏虎は本気で謝っているようだった。
その表情に一年前のあの悲劇の日以来張り付いていたいつもの怨嗟や怒りはない。
「言ったろ、どっかのおっさんにかち割られたって。なあ、律子。俺の取り組み見に来てくれよ。お前が見なくちゃ意味がねえ」
しかし、律子は顔を顰める。
……相撲観戦
律子にとってそれだけは出来ることではなかった。
律子は首を横に振った。
「……嫌よ」
「何故だ?」
目を伏せて律子は訥々と話し始める。
「あれ以来、相撲を無理に見に行った事もあるけど……相撲を見ると震えが止まらないの…… 姉さんを失った悔しさと悲しみを思い出してその場に立って居られなくて……」
目元を拭う律子を見て、伏虎は気づく。
あのクソ親父が言っていたことは本当だった。
苦しかったのは自分だけじゃない。
律子が泣き止むのを待ち、伏虎は立ち上がる。
「そうか、無理にとは言わねえ。でもこれだけは言っとく」
そして、律子の肩を優しく叩くとお代を置いて店を立ち去る際に言った。
「江戸場所で俺は張天山を完膚なきまでに叩きのめす。おまささんと兄貴の仇をとってやるから千秋楽は出来ればお前も見にこい」
店を去っていくその大きな背中を見つめながら律子は呆気に取られる。
あれがあの復讐心に囚われていた伏虎だろうか。
「……虎? まるで人が変わったみたい……」




