冷やす(仮題)
羽鳥部屋の借屋敷に着き、井戸から汲んだ冷たい水を浴びながら、伏虎は恨めしげに呟く。
「……ちくしょう あの野郎、思いっきり投げ飛ばしやがって……」
自分より年嵩であろう小男に完膚なきまでに叩きのめされ、伏虎は意気消沈していた。
全身打ち身とアザだらけである。
ここまで打ちのめされたのは久しぶりだ。
更には自分のことだけならまだしも、死んだ兄貴分のことを随分と罵ってくれたものだ。
……しかし
伏虎は考える。
思い返せば、相当口は悪かったがあの男に悪意や負の感情は感じられなかった。
また、伏虎を壊そうと思えばいつでも壊せたはずなのに、身体の傷はこの程度で済んでいる。
明日もまた来い、とか言っていた。
いったいあの男は何がしたかったのだろうか。
嵐が過ぎ去ってみると狐につままれたような気分になる。
しかし、自分の身体に残る青痣が紛れもなく現実であることを証明している。
身体を冷やし終わり、伏虎はぼうっと月を見つめる。
「あ、兄貴⁈ いったいどうしたんで⁈」
しばらくすると屋敷から出てきた兎丸が驚いて駆け寄ってくる。
舌打ちしながら伏虎はしっしっと手を振った。
「……何でもねえや 部屋に戻って寝てろよ兎丸」
「そんなあ……! 寝所を覗いたら兄貴が居ないからびっくりして探しに出るとこだったんですよ⁉︎ いったいこんな夜更けに何をしてたんです? ……ああ! こんなアザだらけになって‼︎ たいへんだ‼︎ 誰にやられたんです⁉︎」
兎丸は心配そうに伏虎の手を取り、全身を隈なく見ると慌てたように捲し立てる。
伏虎はため息を吐きながら、兎丸の手を振り払った。
「ええい! いいったら! 河原で滑って転んだだけだ! 親方に言うんじゃねえぞ」
「そんなあ…… 兄貴ぃ……」
いつものように素気無く、兎丸を袖にしようとした伏虎はふと思い立ち、振り返る。
『お前はこの一年間周りを顧みたことはあるのか?』
業腹だが男の言葉の一つが伏虎の胸に突き刺さったからだ。
思えば、この兎丸が田舎村の興行で無理矢理着いてきて以来、邪険にしてばかりであった。
……まあ、少々鬱陶しいのは否めないのだが
「……なあ、兎丸。いつも心配かけて悪いな」
いつにない殊勝なその物言いに兎丸の方が驚く。
「あ、兄貴⁈」
フン、と鼻を鳴らしながら伏虎はバツが悪そうにその場を後にした。
扉の影からじっと二人の様子を見守る初老の男が月明かりに照らされる。
「……伏虎 頑張れ」
病に冒された肺腑の空咳を堪えながら、羽鳥は忸怩たる思いで、愛弟子の背中を見守っていた。
もはや力無き自分には若人に道を示すことが出来ない。
……見守ることしか出来ないのだ




