焼き入れ
細い月明かりに二人の男の影が浮かぶ。
生温い不穏な空気がまるで辺りの空気を歪めているようだ。
夜の風が二人の立つ伸び放題の草原を揺らし、夜鳥の声が不気味に空に響いた。
狐面をつけた小柄な男は手招きするように、伏虎を挑発する。
「さあ、こい伏虎よ。先手はくれてやる」
その様子に苛立ちながら伏虎は小男との距離を縮める。
「酔いが覚めたら真っ直ぐ家に帰んな。仮面のおっさんよ」
力士に喧嘩を売る小男をただの酔っ払いと見做していた伏虎は、軽く投げ飛ばしたらすぐにこの場を後にするつもりだった。
男はぴくりとも動かず、仮面の下からただ無造作に伏虎を見つめているようである。
距離が縮まり、伏虎の腕が男の襟元へと伸びたその瞬間だった。
「……ぐっ⁉︎」
一瞬で辺りの景色が反転したかと思うと、伏虎の背中に鈍い痛みが走る。
投げ飛ばされた、と気づいた時には近づく狐面が伏虎を見下ろしていた。
「どうした、伏虎。そんなものか? さあもう一番だ」
咳き込みながら伏虎は痛みを押して立ち上がる。
これほど見事に投げ飛ばされたのは久々だ。
「……やるな、おっさん! だがもう俺に油断はないぜ‼︎」
息を整えると伏虎は、姿勢を低くして小男へと突進していく。
当初は手加減するつもりであったが、どうやら何らかの武術を遣う男のようだ。
伏虎の突進を男は回避しようともせず、またも無造作に立っているだけだ。
やがて伏虎の肩が勢いに乗ってぶつかろうとしたその時だった。
「……うぐっ⁉︎」
またも伏虎の景色が反転して、背と大腿に打ち付けられたような衝撃が走る。
痛みよりも先に驚愕が脳裏を占める伏虎を見透かすように狐面の男は、また見下ろしてくる。
「そんなバカな、という顔だな。増長していた証拠だ。倒れ方もなっちゃいない。お前はどこの誰かも分からん親父に投げ飛ばされるほど弱いんだ、伏虎よ。そんなザマで兄貴分の仇打ちが出来るのか? 笑いそうになるぜ」
「……うるせえ!」
怒りで痛みを頭から追いやり、伏虎は立ち上がる。
一息つく暇もなく、再び突進を繰り出すが、宙を返るようにまたまたひっくり返された。
「ほれ、挑発されるとすぐに熱くなる。お前の一番悪い癖だ」
「こ、このっ……‼︎」
表情は読めないが、明らかに余裕な様子のその男にもはや加減せず突進していく。
……しかし
今度は伏虎の突進を男は肩と腕で易々と受け止める。
小男は本職の力士である伏虎の怪力にびくともせず、押しても引いてもびくともしない。
「どうした? 俺はまだまだ本気を出しちゃいねえぞ。技の数が少ない。だから打てる手も少ないんだよ、お前は」
「この野郎‼︎」
伏虎は力を入れて投げようとするが、また判でついたように羽でも舞うように宙を返される。
倒れた先から男の小言が聞こえて来る。
「受け身はしっかりとれ。身体の芯の筋肉がまだまだ甘い。弱い。弱すぎるぞ伏虎。お前は所詮井の中の蛙だ」
「このおおおおっ‼︎」
すっかり頭にきた伏虎はがむしゃらになって突進を繰り返すが何度もいなされ、投げ飛ばされる。
そんなやり取りが十度ほど続き、伏虎が息を切らして地面に手をついた頃、男の仮面の下の表情が変わったような気がした。
「何より不甲斐ないのはお前の兄貴分、竜ヶ峰だ。ありゃあ、とんでもない弱虫だったな」
その言葉に萎えかけようとしていた伏虎の表情に朱が差し、みるみるうちに鬼のような怒りの形相へと変貌する。
その話は伏虎にとって、まさに虎の尾であった。
「……なんっ! だと……⁈ アンタ、いまなんつった⁉︎ もういっぺんいってみやがれ‼︎」
伏虎の怒りを嘲笑うかのように小男は腕を組んで淡々と続ける。
「そうか、聞こえなかったか? 何度でも言ってやる。竜ヶ峰は弱虫でヘタレだ。だから張天山に敗れて自害した。馬鹿な野郎だぜ」
「ガァァァァァァァァァァァァァ‼︎」
伏虎は鬼のような咆哮とともに、今までで最速の突進で小男へぶつかる。
しかし、小男は伏虎の突進をまたも胸で受け止め、まるで根を張った大樹のようにびくともしない。
「兄貴分を馬鹿にされて悔しいか? 伏虎よ。だがお前に仇を討つだけの力はない。無様だな」
「……だまれっ‼︎ だまれ! 黙りやがれ‼︎ このクソ野郎が‼︎」
今度は伏虎は小男を持ち上げようと肩を掴む。
しかし、丸太のような腕をするりと抜けると男は伏虎の腰を掴み、また地へと転がす。
「黙らせたいなら一度くらい俺を投げてみやがれ。兄貴分が弱いからお前も弱いんだ」
「……ぐぅっ‼︎ クソッ‼︎ クソッ‼︎」
怒りに任せて伏虎は立ち上がり、小男へとつかみかかる。
……しかし、また投げ飛ばされる
信じられない光景であった。
角界でも屈指の実力者が、無名の小男に子ども扱いされているのだ。
何度も投げ飛ばされた先から刺すような言葉が伏虎の胸へと突き刺さる。
「伏虎よ、いつまで悲しみに囚われている? 悲しいのはお前だけじゃない。苦しいのもお前だけじゃない。お前はこの一年間周りを顧みたことはあるのか?」
「だまれえええええええ‼︎」
形振り構わず、あまりの悔しさに涙を流しながら伏虎は男へと向かっていく。
それはまるで子どもが大人に向かって駄々を捏ねているようであった。
小男は伏虎の突進を胸で受け止め静かに呟く。
「そうか、自分が何者か思い出すまで付き合ってやろう」
境内の林の奥から二人の様子を見守る三つの影があった。
「うおお。えげつないシゴキだな。ガキの頃を思い出して胃液がせりあがりそうだぜ……」
勢二郎は木の幹に腰掛けながら、ふう、と息をついた。
「大丈夫かな、伏虎さん。ケガしないといいけど」
お駒は木の枝に座りながらじっと二人の様子を見守る。
「壬さんを信じろ。まあ、多分大丈夫だろ」
白石は太い木の枝に寝転びながら、欠伸を一つし、月を見上げた。
白石を見上げ、呆れたように勢二郎は舌打ちする。
「……いい加減だな、白石」
二人の喧嘩は半刻(約一時間)ほど続いただろうか。
一方の大男は息を切らしながら仰向けに地に転がり、完全に息切れしていた。
もはや、起き上がれないほど消耗しているようだ。
「……ちくしょお ……ちくしょお!」
涙を拭いながら、伏虎は月へと吠える。
悔しさに慟哭すらする。
無理もない。
己の一年間がこの半刻で全て否定されたのだ……
やがて狐面がそんな伏虎の様子を覗き込んでくる。
「頑張ったじゃねえか、伏虎。全然駄目だったがその根性だけは認めてやる。兄貴分の尊厳を取り戻したいなら明日また同じ時刻にこい。相手してやる」
それだけ言い残すと狐面の男は、肩で風を切るように境内の階段を降りていく。
伏虎は恨めしげにその背中を見つめるが、改めて見ると小男の背中はとてつもなく大きかった。
か細い声で伏虎はその背に向けて恨み事を呟く。
「……くそっ! どこから来た鬼だ、てめえ……」




