月夜の鍛錬
伏虎は口を真一文字に結び、細い月明かりの街を歩く。
江戸入りしてから親方の小言はますますうるさく、また律子は頼んでもいないのに伏虎の顔を連日伺いに来るのだ。
同門の弟子たちは苛立つ伏虎を遠巻きに見つめるだけで腫れ物に触るように自分を扱っているようだ。
兎丸のオロオロする様子には苛立つばかりである。
今日も親方の小言から逃げ出した伏虎は、夜道を急ぎながら、去年、竜ヶ峰の葬儀が済んだ後のことを思い出した。
『虎! この刃物は何なの⁈ まさか…… まさか張天山のところへ殴り込みに行くつもりじゃないでしょうね⁉︎』
『……うるせえ! このブス‼︎ 俺が何をしようとお前に関係ないだろうが‼︎』
誰にも相談せず三角山部屋に殴り込もうとする伏虎の様子をいち早く察知したのは律子だった。
律子の涙ながらの抗議により漸くその矛を収めた、という経緯がある。
律子が無理矢理その刃物を取り上げなければ、今頃伏虎は牢に繋がれていたか、離島で生活していた事だろう。
……それにしてもどうして律子は自分の挙動を察知できたのだろう?
取り止めもないことを考えながら伏虎は目的の場所に到着する。
もう日付も変わる頃だろうか。
欠けた月を見つめながら、伏虎は境内を上る。
江戸の貧民街であるドブ街に程近い、廃寺の境内は誰も近寄らず稽古には絶好の場所だ。
四股を踏み、腕と膝の柔軟運動を終えると伏虎は境内の奥に聳えるとりわけ大きな樹木に向けて張り手をかます。
伏虎の張り手が幹にぶつかるとゴウン、と鈍い音と夜鳥が飛び交う音が闇に響いた。
やがて数十発、張り手を終えると伏虎は目を閉じ、憎き相手の姿を思い浮かべる。
あの太々しい表情に毛むくじゃらの胸毛……
伏虎は一瞬で怒りを爆発させると樹木へと駆け寄り、両腕を回して掴む。
「……ぐぅ! ……ふぐぐぐぐ‼︎ ころしてやる……! 殺してやるぜ……! 張天山……!」
伏虎は顔を紅潮させながら仁王のような表情で、木を引き抜くつもりで思い切り力を込めて引っ張った。
やがて数分ほどそうしていると、伏虎は肩で息をしながらその場に座り込み休息をとった。
……張天山を土俵の上で殺す
それが今の伏虎の奮起を促している要因であった。
もちろん、その本心は羽鳥や律子にも話したことはない。
……伏虎の不穏な様子に羽鳥が心配するのも無理はなかった。
昏い炎を胸に灯し、月を見上げると伏虎は恐ろしい形相で笑みを浮かべる。
張天山を殺す、という想像をしない日はない。
それにしても、もし張天山を殺せば親方や同門には迷惑をかけるな、と伏虎はふと思う。
しかし、そんな申し訳なさは一瞬で雲散霧消する。
……知ったことか
一年前の悲劇を思い返す。
伏虎にとっては張天山への復讐が全てであった。
後のことなど知ったことではない。
夜風が伏虎の身体を冷やした頃、再び鍛錬を始めようとした彼の耳に微かな声が聞こえてきた。
「……まるでなっちゃいないな」
驚いた伏虎は顔を上げ、辺りを見回す。
やや離れた林道の辺りにこちらを見つめる小男らしい影を見つけた。
「誰だ? この辺に住む者か? うるさかったなら申し訳ないが、すぐに終わるから寝るなら他所で寝てくれねえか」
小男はゆっくりと近づいてくると、腕を組んで伏虎を見上げた。
伏虎は男の様子を見て少し驚く。
その男は服装は普通であるが、顔に白狐の仮面を被り、容貌を隠しているようであった。
腕組みをしたまま男は伏虎を見上げる。
「そうではない。勝利にかけるお前の執念は見事だ。だが、お前の型はまるでなっちゃいない、と言っているのだ。伏虎関よ」
明らかに不審な男の、その不遜な言葉に伏虎は苛立つが素人の戯言と受け取りこの場を後にすることにした。
「なんだと? ……ありがてえ忠告どうも。邪魔したな」
伏虎は鼻を鳴らし、背を向ける。
しかしその背にかけられた低い声は彼にとって聞き捨てならないものであった。
「江戸場所で勝ちたいのだろう? 稽古をつけてやるから一番とっていかんか? 伏虎よ。それとも自信がないか? こんなところで一人で稽古をつけているとは、羽鳥親方の鍛錬はよほどぬるい、と見える」
帰ろうとした足をピタリ、と止め伏虎は小男を振り返る。
あの日以来、良好とは言い難い羽鳥との仲ではあるがその言い草は心の中にさざめくものがあった。
「……あまり舐めるんじゃねえぜ、どこの誰か知らん素人さんよお」




