鬼の棲む洞
その日の仕事が終わり、壬午郎は帰宅すべく夕暮れに染まる街を歩いていた。
いつものように、お鶴から晩飯を受け取り弥太郎と夕飯を食えばあとは眠るだけだ。
しかし、壬午郎はいつもと違うその光景に足を止める。
帰り道の途上にちょっとした人垣が見え、どうやらその中心から怒号が響き渡っているようであった。
「おい! くだらねえことばかり聞いてんじゃねえぞ! 腐れブンヤがよお!」
壬午郎が人垣の中に目をやると、大きな力士がブンヤらしき男の襟首を掴んで凄んでいるようである。
ブンヤの男は力士を見上げるような形で、戸惑いながら反論している。
「な、なんなんだ! 俺も仕事で聞いただけじゃねえか! 竜ヶ峰の仇討ちをするつもりでアンタは強くなったんですか、ってな!」
よっぽどその質問が気に入らなかったのか、その大きな力士、伏虎はますます顔を赤らめながらブンヤの襟元を締め上げる。
「面白半分で聞いてることに変わりねえだろ⁈ 汗の一つも流さねえで楽な仕事だよなあ、お前らブンヤってやつは! 俺はな、張天山も憎いが、同じくらいお前みたいなブンヤってやつも許せねえんだよ‼︎」
伏虎のブンヤ嫌いは有名である。
取材にも滅多に応じず、碌に愛想もしない。
ブンヤは青ざめながらも己の仕事に矜持があるのか必死で反論を始める。
「……くっ! このっ! てめえも傍若無人な張天山と変わらねえ! 殴るなら殴りやがれ! 記事にしてやるからな!」
オロオロと戸惑いながら、付き人である兎丸は伏虎の袖を掴むが勢いが止まる様子はないようだ。
「アニキィ……! もうやめましょうよ……」
「上等だ! 俺は前からブンヤを殴ってやりたかったんだ!」
見かねた壬午郎はため息を一つつくと、ツカツカと騒ぎの中心へと歩み寄る。
「おい、やめねえか。あんた、力士だろう? カタギに手をあげるなんざみっともねえ」
きっ、と振り向く伏虎の強い眼差しもものともせず、壬午郎は無表情で見つめ返す。
ますます戸惑う兎丸を他所に、暫くそうしていると伏虎はブンヤの襟元を離し、興味を失ったようにその場を後にする。
「……ふん! 命拾いしたな、ブンヤ……! せいぜいくだらねえ記事でも書いてろ」
解放されたブンヤは服を払いながらぶつくさと文句を垂れていた。
「チッ! なんなんだよ、あの野郎‼︎」
騒ぎを収め、また家路を急ぐ壬午郎の前に頭巾を被った涼やかな色の小袖を纏う女性がすれ違った。
「壬さん」
女は地獄への案内人、明雲。
迷った者たちを黒閻洞へと導く地獄道の門番である。
密やかに夕暮れの風に靡くように、小さくも溌剌とした声が壬午郎の耳へと届く。
「墓地に赤い花。今宵子の刻(午前零時)黒閻洞へ」
汗を拭いながら羽鳥は獣道のような山道を行く。
細い月明かりに照らされた山道を一人で歩く白髪の老人のその背中はなんとも侘しい。
「……ふう もう一踏ん張りだな…… この身体に応えるぜこりゃ……」
月を見上げ、病身を押しながら羽鳥は必死に山道を歩く。
もはや残り少ない己の生命など省みることはない。
やがて案内人に言われた通りの道順を行くと、異様な雰囲気の洞穴が羽鳥の目に入った。
なんとも言えないその洞穴の威圧に思わず羽鳥は息を呑み、見上げる。
これが憎き相手を骨ごと喰らってくれるという鬼の棲家という。
「ここが、黒閻洞……!」
提灯の心許ない灯りだけを頼りに羽鳥は洞穴に入り、半刻ほども歩く。
やがて薄い灯りに照らされ、なんとも恐ろしい形相の大きな御神像が現れ、覚悟の決まっているはずの羽鳥の肝さえ冷やした。
呆気に取られた羽鳥はかぶりを振り、気を取り直すと、案内人の女に言われた通り、燭台に灯りを灯し始める。
「……さあ頼むぜ ここまで来てガセってことはないだろうな」
めぼしい燭台に灯を灯し終わると、羽鳥はそこに座って佇んでいた。
洞穴のどこかから、ヒュウ、と風の流れる音ばかりが羽鳥の耳朶を打つ。
「そのままでよい。そこなる者よ、並々ならぬ願いをもってここまで来たのであろう。さっそく言うてみるがいい」
どこからか響いてくるその声に、羽鳥は心臓を跳ね上げながら、居住まいを正し、じっとその場に佇んだ。




