復讐の幕は上がる
夜空にかかる欠けた月を見上げながら竜ヶ峰は縁側に腰を下ろし微かに頬を緩める。
「……いい いい月だ……」
寺の警備は全く無く簡単に侵入できた。
寺側に悪いとは思ったが彼にとってはもはや些事である。
そして懐から封をした手紙を取り出し座敷の端に置いた。
その手紙には羽鳥親方を初め世話になった皆への感謝の言葉が延々と綴られている。
朝になれば誰かが見つけてくれるだろう。
竜ヶ峰は一つ、深呼吸をすると目を閉じ皆のことを思う。
「親方…… みんな…… 虎……
……迷惑をかけるな 済まない……
だがこれで最後だ……」
竜ヶ峰は退院してから二、三日、江戸の街を時折歩いてみたが場所中とは打って変わって民衆が彼を見る視線はねとりとした好奇に溢れ、また冷たく乾いたものへと変貌していた。
自分だけならまだいい。
だが、何より自分に期待をかけこんなに良くしてくれた親方や仲間たちにまであのような冷たい視線が注がれるのが竜ヶ峰には耐えがたく、辛いことであった。
……横綱による卑劣な仕打ち
……身体の不調
……突然取り上げられた生命を賭けてきた相撲
……民衆の掌返し
……大切な恩師や仲間たちへの負い目
数え切れない重圧により竜ヶ峰は今、気鬱の病にあった。
……寝所を抜け出した竜ヶ峰は今宵自らの命を絶とうとしていた
竜ヶ峰はおまさとかつて歩いた寺社を己の最期の場所と定め、人の居ない庭を眺めていた。
この寺は夜間は誰もいないようだ。
手紙の文面を思い出しながら自嘲の笑みを浮かべる。
「詩歌の嗜みがあればもっと洒落たことも書けたのだろうが、私にはこれで精一杯だ。
……みんな、来年の江戸場所は頑張ってくれ」
どっかと庭の一角に腰をおろし懐の小刀を確かめながらしばらく月を眺めていると、遠くから細く聞こえる声に振り返る。
やがて近づいてくる声は走ってきたためか弾んでおりその愛しい声に竜ヶ峰は腰を上げ近づいていった。
「竜ヶ峰さん……! 探しましたよ! いったいこんなところで何をしてるんです……⁈」
「……おまささん」
月光に照らされたおまさは髪も乱れ涙に濡れた目で竜ヶ峰の胸へともたれかかった。
羽鳥部屋の皆が自分のことを探しており、乃木屋にも来たという。
おまさは泣き濡れた目で竜ヶ峰を見上げ懇願する様に言った。
「皆さんあなたのことを探されてますよ…… さあ一緒に帰りましょう?」
おまさは竜ヶ峰の目から生気が消えていることに気付き青褪める。
反応もどことなく鈍く感じる。
……この人は今宵命を絶つつもりであったのだ
竜ヶ峰は眉根を上げまるで申し訳なさそうに首を横に振った。
「……私にはもう帰るところはありません 実家もそれほど裕福ではないのです。故郷に帰って働いたとしても農作を覚える数年は相当迷惑をかけることになります。……もしその間に飢饉でも起これば私は私自身を許せない」
やはり、ここまで駆けてきてよかったとおまさは思った。
出来るだけ穏やかな口調でおまさは諭すように竜ヶ峰を見上げた。
「……ねえ そんなこと言わないで一緒に帰りましょう? 何なら私もあなたの故郷に連れていってください……」
しんみりとした声で竜ヶ峰は庭の一角を眺め呟くように口を開いた。
「角界は今揉めているそうです。
幕閣や大名が見守る千秋楽で私が無様な負け方をしたことについて……
その直前の私が十四戦目まで苦戦なく連勝を続けていた事で優勝決定戦の八百長疑惑まで出ているようです。
羽鳥部屋の来年以降の江戸場所招待を見送るという声まで出ています。
……私が今この場で喉元をかっ切れば全て丸く収まるのです」
おまさは腹の中に炎が湧き上がるのを感じる。
彼女にとって生まれてこの方感じたことのない憤怒であった。
気づくとますます涙は止まらず感情的な言葉も湧いて出て止まらない。
「そんな……! そんなの間違ってます‼︎ あなたは私を助けるために張天山の暴行を受けてひどい怪我を負ったんじゃないですか‼︎ 何であなたが責めをおわなくてはならないんですか⁈ 相撲を辞めなくてはならないんですか⁈ みんな江戸場所が終わってから羽鳥部屋とあなたの悪口ばかり‼︎ こんなのおかしいですよ‼︎」
「……おまささん 落ち着いて」
竜ヶ峰はこの後に及んで優しい口調でおまさの肩を抱く。
しかし、おまさの怒りはますます膨れ上がるばかりであった。
そして何よりも憎いのは……
「……落ち着いていられませんよ!
全て…… 全て私のせいじゃないですか……! 私が張天山に捕まったせいであなたはこんなに苦しんでる……‼︎
羽鳥部屋への中傷を見かねた父も三角山の凶行を奉行所に届け出ましたが証拠がないと聞く耳を持ってくれません……!」
憎き張天山の歪んだ笑みを思い出しおまさは嘔吐感さえ覚える。
女の身ではどうすることも出来ない悔しさにおまさは打ち震えた。
そしてわあわあ、と泣き崩れたおまさを竜ヶ峰は受け止め、抱きしめる。
「おまささん、泣かないでください」
「……どうしてあなたは他人事のようにそんな穏やかでいられるのですか」
暫く抱きしめられていたおまさは泣き止み月を見上げる。
……なるほど今宵はいい月だ
平均年齢が現代より遥かに低い江戸期では心中は美しい死とされ、我々現代人が考えるよりもその敷居は低い……
おまさは懇願するようにじっと竜ヶ峰の顔を見つめる。
「竜ヶ峰さん…… お願いです…… 私もこの不浄の世からあちらへ連れていってください
来世ではあなたの永遠の伴侶となりたいのです……」
「……おまささん」
困ったように小さく微笑むと竜ヶ峰は暫く考え込むように目を閉じ、おまさの肩を引き寄せた。
「……正直に言うとあなたを連れていくべきか迷っています ……ですが愛するあなたを冥土の伴としたい心に抗えそうにない
……本当に申し訳ない」
おまさはその言葉に心底から打ち震え涙を流す。
二人の表情にはもはや曇りも迷いの一片も無い。
「……ああ 嬉しいです竜ヶ峰さん……
私を伴侶に選んでくださるのですね……
土俵ではあんなに強いのに驕らず、優しくて礼儀正しいあなたを私は心より愛していました……」
「来世では一緒になりましょう、おまささん…… いや、おまさ」
二人はひし、と抱き合いながら静かな声でこの世最期の愛を囁きあった……
明け方、着物を着た力士がまだ少ない通行人の一人の肩を掴まえ尋ねる。
その若者は必死の形相であった。
「おい! そこのアンタ! 竜ヶ峰の兄貴を見なかったか⁈」
連れの初老の男は若者の慌てぶりを嗜め、訝しむ通行人に謝罪する。
「落ち着け、虎…… 済まないなアンタ。ちいと混み入った事情があってな……」
羽鳥と虎丸は寝所に竜ヶ峰がいないことを認めると弟子たちを手分けして竜ヶ峰を探し始めた。もう数時間は探しているだろうか。
今日はそろそろ竜ヶ峰を故郷へと帰そうかという日であった。
汗を拭いながら江戸の街を駆け、虎丸は横を走る親方に不安を訴える。
「ですが親方…… ここ数日の兄貴はずっと塞ぎ込んでいて…… 俺がずっと話しかけてもただ優しく黙って微笑んでるばかりで……
なあ、親方……! 俺は悪い予感しかしねえんだよ……!」
頭に鈍い痛みが走るような嫌な予感が虎丸を襲っていた。
羽鳥は青褪め恐慌に陥ったような虎丸を落ち着かせるが内心はやはり穏やかではない。
「落ち着けって、虎よ。よし更に二手に別れてタツを探そう。俺はこの寺社の東側を探す。お前は西側へ回れ」
「……わかった 親方」
虎丸の提案により、二人は竜ヶ峰とおまさの縁の場所である寺社へたどり着いていた。
虎丸は石段を走りながら必死で目を凝らす。
時刻はまだ七ツ半(午前四時頃)であり境内に人はいない。
(兄貴……! 兄貴……‼︎ いったいどこへいっちまったんだ……!)
やがて境内を抜けて社の一つに何かの影を感じ戸を開けると部屋の端の方にうずくまるような人影を認め、虎丸はゆっくりと近寄る。
薄暗くてよく見えないが人影の端は竜ヶ峰の着物の柄に間違いないようで虎丸は胸を撫で下ろし更に歩みを進める。
「兄貴……! こんなところに…… 探しましたよ、さあ帰りやしょう……!
ん? おまささんも一緒ですか⁈ まったくアニキも……」
どうやらおまさも一緒のようである。
逢引きでもしていたのかな、と呑気なことを考えた虎丸の顔が一瞬で引き攣り、やがて目を見開く。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ‼︎」
つんざくような虎丸の悲鳴が辺りの樹々を揺らせた。
正に恐慌を起こしながら虎丸は床へと佇んだ竜ヶ峰の元へと駆け寄り揺り起こそうとする……
その首元からは乾きかけた鮮血の赤が溢れ、周りの床も血で塗れており、側のおまさの状態も同様であった。
よく見ると床には血塗れの小刀が転がっている……
「嘘だ‼︎ 嘘だ‼︎ 嘘だッ‼︎ 目を覚ましてくれアニキィィィィィィィィ‼︎」
目を固く閉じたまま冷たく青ざめた竜ヶ峰の顔は穏やかでもはや息をしていなかった。
「虎‼︎ どうした⁉︎」
息を切らせた羽鳥が虎丸の悲鳴に慌ててやってきたようだ。
親方は部屋の状況を察知すると目を見開き慌てて二人の亡骸へと駆け寄る。
間に合わなかった……
羽鳥は冷たくなった竜ヶ峰とおまさを見遣るとぎゅっと目を固く閉じ唇を震わせた。
「……ああ、タツ なんてこった…… 早まりやがって馬鹿野郎が……」
虎丸の慟哭と羽鳥の無念の呟きがただただ早朝の静けさを穿った……
竜ヶ峰三郎享年二十六。
その日以来羽鳥部屋への中傷はピタリと止むこととなる。
信濃の小さな村で生まれた純朴な青年は人の悪意によって殺されることとなった。
それは清い魂に対しあまりにも惨い最期であり、惜しすぎる死であった……
そしてこの日二人の鬼が生まれ復讐の幕が上がることとなる――




