掌返し
竜ヶ峰が診療所に入院してから約七日。
主に親方と虎丸が入院の間の竜ヶ峰の面倒を見た。
彼がこうなった間接の原因があると言えるおまさは泣きながら毎日のように竜ヶ峰の元に通い、父親である乃木屋の主人は何度も頭を下げにきた。
漸く入院の目処がつき、杖をつく竜ヶ峰の横を虎丸が注意深く歩く。
「……兄貴 ゆっくり歩いて下さい」
「ああ、すまないな虎丸」
いつもの穏やかな表情で竜ヶ峰は歩く。
力士たちの巨体は目立ち、すれ違う度に民衆は竜ヶ峰たちの方を振り返るのだが江戸場所中のように称賛の声をかけられることはなく、何やらこちらを見るとヒソヒソと噂話をはじめているようであった。
……きっと無様な相撲を取った事でつまらない流言が飛び交っているのだろう
竜ヶ峰はそう思いながら眉を顰め先を急ぐ。
江戸場所が終わり羽鳥部屋の殆どの者は北関東の本拠地に帰ったが、親方と虎丸他数名を残して大怪我を負った竜ヶ峰を出迎えるため、また故郷へと帰す算段をつけるため暫く江戸へ残っているという。
「親方や他のみんなにも申し訳ない…… 迷惑をかけるな」
「そんなこと言わないでくれ、兄貴。今まで兄貴にはみんな勇気付けられてきた。俺たちがもらってきた分を返したいだけさ」
竜ヶ峰は心の底から親方と仲間に感謝しながら暫く目を閉じて相撲に賭けてきた日々を振り返る。
羽鳥部屋に入門して本当に良かったと思ったと同時にこんな幕切れになってしまったことを残念に思う。
「…….それでも心苦しいものがあるな
田舎に帰っても畑仕事だって務まるだろうか」
「兄貴ならきっと大丈夫だよ。……相撲を辞めちまうのは残念だけどきっと俺たちの故郷のみんなは温かく迎えてくれるに決まってるさ。
みんな遠くにあって兄貴の活躍を楽しみにしていたんだよ」
虎丸は隣を歩く竜ヶ峰を励ますように無理に笑顔を作っているようだった。
「そうだといいのだがな…… これから農作業を覚えて一端になるまで迷惑をかけることになる……」
何より竜ヶ峰の引退を悲しんでいるのは虎丸であろう。
何しろ虎丸は竜ヶ峰に憧れて同じ故郷から出てきて以来、彼の付き人として献身を尽くしてきた。
気丈に振る舞っているが落胆の念は想像に難くない。
「全く、兄貴は気にしすぎなんだよ。でんと構えていて下さいよ。かつて綱取りまであと一歩だった伝説の大関として故郷でたまに相撲を教えてやってください
……そして俺の活躍、見ていてください」
「ああ、わかったよ、虎
お前のおかげで少し元気が出てきた
……済まねえな 本当はお前に元気をもらってるのは俺だ
お前がいなきゃ俺は大関にまで昇り詰められなかった」
涙を密かに堪えながら虎丸は竜ヶ峰の足元を見遣った。
もはや相撲を取ることなど叶わないだろう。
「……俺はそこまでのことはしてねえ もったいねえですよ」
「ああ、借宿が見えてきたな。親方だ。 ……何やってるんだ?」
街外れにあった羽鳥部屋の借宿が見えてきた。
しかし、竜ヶ峰は遠目から微かな異変を感じ取り景色ばんだ。
何やら親方と江戸に残った弟子たちとで壁の拭き掃除をしているようなのだが……
慌てて虎丸は竜ヶ峰の歩みを止めさせわざと作った笑顔で言った。
「少し待っててください、兄貴。ちいとばかり部屋も汚れてるんで親方も慌てて片付けてるみてえなんですよ」
「なら私も」
「いいからここで待っててくださいよ、兄貴。ね?」
冷や汗を拭いながら竜ヶ峰を置いて虎丸は掃除をしていた親方たちの元へと駆ける。
「……羽鳥親方」
ふう、と息を吐きながら雑巾を手にした羽鳥は振り返る。
顔についた汚れを拭い羽鳥は虎丸を労った。
「虎か…… 竜の送迎ご苦労様だったな。……でもちいとばかり間が悪かった
少し理由をつけてその辺を連れて歩いててくれるか?」
「ああ、こんなもん兄貴に見せるわけにはいかねえ……
急いで戻ります」
そして待っているはずの竜ヶ峰の元へ戻ろうと振り向いた時だった。
「……これは 落書きか……」
悲痛な面持ちの竜ヶ峰が壁一面の落書きを見回す。
しまった、と顔を顰める虎丸を他所に羽鳥親方は誤魔化すように笑顔で竜ヶ峰に声をかけた。
「おお、タツ! とりあえず歩けるようになったようで良かったぜ。ちいと部屋も汚れてるんでな。その辺で茶でも飲んできてくれるか」
竜ヶ峰はじっと親方や弟弟子、そして壁の落書きを見比べながら重々しく口を開く。
「……いえ、それよりこれは 私のせいですか親方」
羽鳥は必死でその悲痛に満ちた竜ヶ峰の言葉を否定した。
虎丸も当然のようにその言葉に追随する。
「そんなことはねえ! 絶対にお前のせいなんぞではないぞ! タツよ! こんなことお前は気にしなくていいんだ!」
「そうですよ、兄貴。こんなもんただの性根のねじ曲がった悪戯さ。さあ、茶でもしばきにいきましょう兄貴」
竜ヶ峰を思い必死で二人は取り繕うが、呆然としながら見つめる竜ヶ峰の視線の先の壁には人間の悪意の塊が書き連ねられていた。
『期待外れのダメ大関』
『田舎に帰れ弱小部屋の貧乏力士ども』
『横綱に逆らった愚かな世間知らず』
『無様、無様 我々の期待を裏切った哀れな落竜』
その夜、こっそり寝所を抜け出した竜ヶ峰はとある屋台の暖簾を潜る。
「らっしゃい! ……竜ヶ峰関 怪我はもういいんで?」
捻り鉢巻を巻いた顔馴染みの親父が心配そうに竜ヶ峰を見上げると、早速ガンモと牛すじを皿へと並べ竜ヶ峰に席を勧める。
「ああ、大丈夫だ。ありがとう。ところで私のことなどいいんだ。今日は聞きたい事があってここへ来た」
「…….はあ ただの屋台引きのあっしなんかで良ければ」
燗酒を作りながら親父は怪訝そうな顔をした。
「私は力士を廃業することになったよ。知っての通りの大怪我でね。故郷に帰って野良仕事でもしながら生計を立てるつもりさ」
「……そりゃあ残念です まあ次の仕事も頑張ってくだせえ」
ガンモを一口頬張ると竜ヶ峰は悲痛な面持ちで重い口を開いた。
「ありがとう…… そう言う訳でだな、うちの部屋の者は私に気を遣って余計な事を教えてくれないんだよ。
……教えてくれ
私が羽鳥部屋の借屋敷に帰ったときその壁にはひどい落書きがびっしりと書き連ねられていた。
瓦版なんぞも久々に読んでみたが、私と羽鳥部屋への中傷などが面白おかしくかき立てられていた。
もしかして我々羽鳥部屋は私が無様な負け方をしたから虚仮にされているのか?」
腕組みをしながら暫く考え込むと親父は熱燗を竜ヶ峰に差し出して答える。
「……そうですね 確かにここ数日の瓦版のアンタたちへの中傷は暫く常軌を逸していました。
怒らないで聞いてくだせえ。これから言う事はあっしの考えじゃねえ、馬鹿で暇な大衆の総意と思って下さい。
人気絶頂の竜ヶ峰があっという間に転落し、角界を去る。
これほど面白い見せ物はねえ。
不思議に思うでしょう?
何しろ数日前にはみんなアンタのことを汚い横綱を退治してくれる英雄だとちやほやしていたんだ。
その期待に反した腹いせに民衆の思いは反転した、そんなとこじゃあないですかね。
ただみんながみんな書いてあることをそのまま信じてるわけじゃない。一種の娯楽のようなもんですな。まあこれが江戸だと思って一笑に付してくださいや。気にする事じゃねえ」
黙って聞いていた竜ヶ峰は熱燗を一杯口に含むと江戸の夜空を見上げる。
何とも苦い酒の味であった。
「……そうか よくわかった。ありがとう」




