卑劣・張天山
竜ヶ峰はドブ街にほど近い外れの森の奥へと進みながら、脅迫の手紙に指定された乃木屋で待つとおまさ・律子姉妹の父である店主が青ざめながら竜ヶ峰に頭を下げていたことを思い出す。
「うちのおまさのために本当に申し訳ない……! 大関!」
乃木屋や道中ですれ違う怪しい男たちの指示により、大関が心配で密かにつけてきていた羽鳥部屋の弟弟子たちの尾行を振り払いながら夜半遅く竜ヶ峰は暗い森の奥の開けた場所へとたどり着いた。
十数名からなる複数の男たちが行燈や松明の灯りに照らされやってきた竜ヶ峰を冷たい目で睨め据える。
その中でもとりわけ大きな大将格らしき男がずい、と前へ歩み出て竜ヶ峰を馬鹿にしたような笑みで嘲った。
「おお…… 竜ヶ峰ぇぇ……! ようやく話を聞いてくれる気になったんだなあ……! 俺ぁ嬉しいぜぇ!」
背後に十数名の弟弟子を従えた張天山は歪な笑みを浮かべながら勝ち誇った笑みで竜ヶ峰を冷たく見つめる。
竜ヶ峰は無表情のまま、落ち着き払った様子で張天山を見つめ返した。
「……横綱 おまささんは無事ですか?」
張天山がふん、と鼻を鳴らし顎をしゃくると弟弟子の一人が縄で縛られた女性を奥から引っ張ってくる。
「んーー! ……んーーー‼︎」
「おまささん……!」
猿轡を噛まされ、全身を縄で縛られたおまさは涙を流しながら竜ヶ峰を見遣る。
竜ヶ峰は唖然とした後に男たちを睨め据えた。
張天山はそんな竜ヶ峰の様子を面白そうに嘲り笑いながら見つめる。
「喜べ、まだ何もしてないぜぇ⁈ 人質としての価値が無くなっちゃあ困るからなぁ」
たまらず竜ヶ峰は張天山に向かって叫んだ。
「……横綱 もうこんなことはやめてください! 私たちは同じ土俵に生命を賭けた者同士ではないですか! こんなことは相撲の神への冒涜だ! 貴方は角界の王者でしょう? 力士としての矜持を思い出して下さい‼︎」
きっと同じ力士ならば心に響くだろう、分かり合えるだろう、というのは竜ヶ峰の甘い見通しである。
……真心の通じない外道というのは確かにこの世に存在する
張天山はその言葉に青筋を立て激昂した。
「しゃらくせええええええ‼︎ テメエのその善人ぶった態度が何よりムカつくんだよぉ‼︎ 黙って俺の言うことを聞けぇぇぇ‼︎」
「……横綱 いや、張天山……! そこまで堕ちてしまったか……!」
醜く歪む張天山の赤ら顔を見遣りながら竜ヶ峰は幻滅とともに歯噛みした。
おまさは横綱の手元で震えている。
何より大切なのはおまさを助けることだ。
「……おまささん」
ふん、と鼻を鳴らしながらおまさの縄を引っ張り張天山は続ける。
「後で彼女に聞いてみるがいい。何もしちゃいねえよ。最もここからはお前さん次第だがな」
竜ヶ峰は静かな怒りに身を震わせながら目の前の外道たちを睨みつけた。
「張天山……‼︎ あんたはこんな卑劣な手を使うほど堕ちてしまったのか!」
尚も嘲笑うような張天山の笑い声は黒い闇に響く。
「幻滅したか? すまないねえ。だがこれもお前がちっとも話を聞いてくれねえからいけねえんだ。こっちはなあ、お前んとこの小さな部屋と違って帯崎藩家老お抱えの由緒ある名門なんだ。幕閣の御前試合でこの横綱が負けたとあっちゃ家老は引退間違いなしだし、もちろんこの俺もそうなる。
な? わかってくれ?」
心の中で崩れ落ちるものを感じながら、こんな外道に対しても竜ヶ峰は怒りと共に哀れを感じた。
「……ちっともわかりませんね」
「は?」
竜ヶ峰は透き通るような目で闇に染まる張天山を見つめた。
「本当に見下げ果てた男ですねあなたは。どんな事情があろうと女を盾に八百長を迫るなど相撲の神にもとる行為です。
全くもって情けない。
負けることがそんなに怖いですか?
土俵の上は神聖な力の世界です。勝てない者はただ去るのみ。
負ければ潔く散ればいいだけの話じゃないですか」
力を極め頂点に立つことはもちろん誰しもが描く夢だ。
しかし、年をとり衰え次の世代へと王座を譲り渡すのも先達の役割だと竜ヶ峰は考える。
……だが当たり前の道理も目の前の外道には通用しない
「うるせえ‼︎ 黙れ! 何も背負ってない小僧が! おい! お前ら! やっちまえ!」
ますます顔を赤らめ激昂した張天山の怒号に従って、数名の力士たちが竜ヶ峰へと迫る。
中には角棒を担いだ者までいた。
「へへ…… 悪いなあ大関。俺らも負けられないんでなあ」
「悪く思うなよ、大関。女一人のためにノコノコやってきた間抜けなお前も悪いんだぜぇ?」
そうしてじっと無表情で男たちを見つめる竜ヶ峰に対して男たちは襲いかかった。
「おら! 死ねえ‼︎」
しかし、次の瞬間男たちは持っていた武器を取り落とし宙を舞う。
「ふぎゃっ⁉︎」
「グェッ‼︎」
一瞬で複数の男たちを投げ飛ばし竜ヶ峰は無表情で張天山を睨む。
もはや現役最強力士である竜ヶ峰にこれしきの男たちでは何人束になろうが太刀打ち出来ない。
静かな目で威嚇しながら竜ヶ峰はますます激昂する張天山と震える弟弟子たちを見つめる。
「……やめろ これ以上相撲を穢すな」
張天山は肩をわなわな震わせながら手元のおまさを引き寄せ懐から取り出した小刀をその首筋へと突きつけた。
「んーーー‼︎」
「チッ……! おい! 竜ヶ峰ぇ! それ以上動くんじゃねえ! この女がどうなってもいいのか⁈」
竜ヶ峰は唖然とした後に怒りでその身を震わせる。
温厚な彼が久々に激昂した瞬間であった。
「……張天山んんんん‼︎」
「ははは‼︎ 女一人に骨抜きにされやがってよお‼︎ おい、動くなよ竜ヶ峰。この娘の綺麗な顔に傷がつくぜ」
そうして歪な笑みを浮かべ張天山はおまさの頬に一筋の傷をつけた。
「ん〜‼︎ ん〜‼︎」
竜ヶ峰は焦り、ますます怒りも感じるがどうすることも出来ない。
「おまささん! くそっ! なんて卑劣な!」
「ふん! お前が人質のことを忘れて青臭いことをぐちぐちしゃべるからだ! いいか? 黙って俺の言うことに従え!」
「……どうしろというんだ? 明日負けろというなら負けてやる。だからおまささんを……」
張天山はそんな竜ヶ峰を嘲笑うように続ける。
「ふふん。もう口約束だけじゃ信じられないなあ。お前は散々俺との交渉を蹴っ飛ばしてきた。八百長がよっぽど嫌いと見える。ここまでしていざとなって約束を反故にされちゃかなわねえ」
「……」
そして残酷な笑みを浮かべ後ろの弟弟子たちに顎をしゃくり指示を出す。
「お前は黙って立っているだけでいい」
そして大人しくなったとみるや、三角山の弟弟子たちが竜ヶ峰を取り囲みまずは腹へと蹴りを入れた。
「ふぐぅ‼︎」
汚い笑みを浮かべ弟弟子の一人は耐える竜ヶ峰を嘲る。
「へへっ。よくもやってくれたなあ。あの竜ヶ峰を思う存分痛ぶれるのかあ。こいつ俺より年下なのに大関なんだよ」
そうして何発も竜ヶ峰の顔を殴りつけた。
「おらっ! 耐えろよ大関っと!」
「ぐうっ‼︎」
代わる代わる男たちは竜ヶ峰を殴り、蹴りつけ木刀で叩きつける。
頭から血を流しながら竜ヶ峰は地面へと倒れ込んだ。
しかし男たちはまだまだ暴行をやめようとはしない。
「まだまだいくぜ! ほらよっと‼︎」
「があァァァァ‼︎」
ボキリ、と何かが砕けるような嫌な音が闇夜に響いた。
男たちに踏みつけられた竜ヶ峰の右肘が折られたのだ。
おまさは涙を流しながら張天山の手元でもがくがびくともしない。
「んーー‼︎ んーー‼︎」
「へへっ、大人しくしてろよ嬢ちゃん。せっかく大関が助けに来てくれたのにお前が暴れちゃ身も蓋もねえぜ」
ますます暴行を続ける弟弟子たちを楽しそうに見つめながら張天山は悪鬼が如く高々と笑った。
数分後ボロ雑巾のように倒れ伏す竜ヶ峰をみて張天山は旨そうに酒瓶を飲み干す。
顔中血まみれで右肘を折られ、青あざを全身に作った竜ヶ峰はもはや明日の取り組みどころではないだろう。
満足そうに笑いながら張天山はおまさを弟弟子の一人に手渡すと竜ヶ峰の側へと寄る。
「よーし、よくやったお前ら。よく耐えたな竜ヶ峰ぇ。では最後に俺からも一撃をくれてやろう」
そうして脚を思い切り振り上げて竜ヶ峰の左膝目掛けて振り下ろした。
「ふぅん‼︎」
「グァァァァァァ‼︎」
ごきり、と竜ヶ峰の左膝の砕ける音が闇夜に響く。
「んーーーー‼︎」
おまさの悲痛な絶叫と三角山部屋の男たちの笑い声が闇夜へと打ち響いた。
竜ヶ峰は痛みで気を失う。
完全にダメ押ししたと見て張天山率いる三角山部屋の連中は森の中をとって返していく。
目的は達成したのだ。
「ひゃははははは‼︎ ざまあねえなあ! 竜ヶ峰‼︎」
「何が新たな横綱だ! 半年後には番付表にいねえかもしれねえなあ〜」
「じゃあな、竜ヶ峰。千秋楽は休んだ方がいいんじゃねえか?」
男のうち一人に縄を解かれたおまさは気絶する血まみれの竜ヶ峰に縋るように覆い被さる。
「竜ヶ峰さん! 竜ヶ峰さん‼︎ 目を覚まして‼︎
ごめんなさい! 私のせいで……」
悲しげなおまさの声は細い月明かりへとただ虚しく吸い込まれていった。




