十九
チントン、チントン、と鳴り響く小鼓の音に微睡みながら、稲富弥平治は昔のことを思い出す。
『弥平治さん、俺たちはどんなに富んでも貧しかったころのことを忘れちゃいけねえよ』
昔の友人であり、共同経営者でもあった関本典和と彼はドブ街出身の商人であり若い頃はよく夢を語り合ったものだった。
元々は貧困から抜け出すために、そして富裕層を見返すために立ち上げた稲富商会。
がむしゃらに働き、数々の困難を乗り越え今の成功があるのだが、いつしか二人は道を違えた。
成功を手にして道を踏み外した弥平治は事あるごとに正論でお小言を繰り返すあの友人が段々と疎ましくなってしまったのだ。
……そして遂にはこの手にかける事態にまでなってしまった
「……ふん、何が悪いものか」
弥平治は夢の中で昔の幻影を振り払いながら一人言る。
ドブ街から這い上がってきた苦労は弥平治の心を鍛えるのではなく、積み上がっていく金子や富が彼を悪の道へと迷わせた。
今まで散々苦労したんだ。
貧乏人どもからさらに巻き上げて何が悪い。
結局この世は富と知恵のある者の勝ちなのだ。
弥平治は夢の中で悪態を吐きながらやがて揺り起こされる。
「……元締め 元締め! たのんます! 起きて下さい! 女どもが逃げました!」
「……なんだと?」
弥平治は目を覚まし不審げに辺りを見回す。
いくつかの行燈のみが灯る部屋の中で部下たちが戸惑いながら開かない扉や障子を前に狼狽えている様子が見てとれた。
側にいた部下の一人が怯えた声で縋るように叫ぶ。
「それだけじゃない、なんか変だ……! あっちもこっちも扉と障子が開かねえ……‼︎ この部屋から出られねえんだ‼︎」
「……おいおいどうなってやがる」
困惑しながら弥平治はこの部屋に起こっている異変を酔った頭で徐々に認識し始めた。
これは一体誰の悪ふざけだろうか。
稲富会の者たちは扉を叩きながら階下にも届く勢いで呼びかけ続ける。
「おい‼︎ 誰か! 居るだろ! 店のモン誰か出てこい! 部屋から出られねえ‼︎ 女どもはどこだ⁉︎」
「くそっ‼︎ 何だってんだ⁉︎ 気持ちよく呑んでたってのによお‼︎」
しばらく、戸惑いと焦りの入り混じった喧騒が続くとやがて扉の一つがゴトゴト、と音を立てゆっくりと開き始めた。
その扉に縋りついていた男たちは驚いて後退りする。
やがてゆっくりと開いたその扉から薄灯りに照らされた男が一人顔を出した。
「いい夜だな、悪徳商人ども。女たちなら家に帰ったぜ。お前たちがくせえとよ」
呆然としてその闖入者を見つめる男たちを他所にその影は闇に薄く光る鋭い眼光で一人一人を睨みつけ始めた。
「なんだぁ‼︎ お前⁉︎」
「おい! 誰だ⁉︎ 女は帰っただと⁈ 悪ふざけが過ぎるだろ‼︎」
フン、とせせら笑うような声で腕組みしながらその男は応える。
「冗談じゃなく俺の仲間が帰したよ。便所に一人づつ立ったところを捕まえてな。店の者は眠ってるぜ。
ああ、ここから出られない仕掛けは俺が仕込んでやった。
こういうのは本職でな」
馬鹿にしたようなその男の様子に稲富会の面々は激昂する。
「……お前! この稲富商会を舐めてんのか⁈ あぁ⁉︎ 俺らの後ろにはヤクザ者もついてんだぜ‼︎ ぶち殺されてえか、おっさん‼︎」
男が行燈の近くまで歩みを進めてくると薄明かりに徐々にその刺客の姿が明らかになる。
背はやや低い目だが、細い身体に筋肉が凝縮されたような職人風の中年の頃らしきその男は稲富会の面々を冷たい目で見つめながらふう、とため息を一つ吐く。
「……やれやれ、下衆ども
もはや商人なのかヤクザ者なのかわからねえな」
稲富会の男たちは戸惑い、そしてやがて沸々と怒りの表情を浮かべる。
呑み会を邪魔され、女どもも帰されたという。
これは何の悪戯だろうか。
訳が分からないが馬鹿にされている事だけは伝わる。
稲富会の男の一人が刺客壬午郎に殴りかかる。
「このっ‼︎ どきやがれオッサン‼︎」
男の拳がその中年の男の顔面へと伸びる。
しかし、壬午郎は身体を微かに捩っただけで拳を躱すとその肘の関節と襟元をひょいと掴み目にも止まらぬ早技で畳へと叩きつけた。
「ぶげぇぇぇぇぇ‼︎」
壬午郎の投げは柔の道と言える生易しいものではなく、頭から地へと叩きつける正に殺人を目的とした技である。
投げられた男は頭から血を流しながら白目を剥いて気を失った。
「お、おい、太吉ぃぃぃぃ⁉︎」
ざわざわ、と戸惑う面々に壬午郎はゆっくりと歩みを進める。
「さて、最期の晩餐は充分楽しんだだろ? そろそろあの世への船便が出るぜ……」
……こいつは何者だ
方々で恨みを買っている事を思い出し、それでも男たちは怒りながら迫りくる壬午郎へと立ち向かう。
こいつは確かに強そうだが、こちらは商人とはいえ十余名程がいる。
「ふざけんな! てめえ‼︎」
「いくら俺らが喧嘩の素人だろうとお前一人に負けるはずが……」
壬午郎に同時に掴みかかろうとした二人の男たちの手が伸び切る前に一方の男の鼻がひしゃげ、一方の男の股間からどぐしゃ、と嫌な音が漏れ赤い血が噴き出ると共に倒れ込む。
「がべぇぇぇぇぇ⁉︎」
「う、うぐぁぁぁぁぁぁぁぁ‼︎」
壬午郎の鋭い突きが男の一人の鼻を砕き、強烈な蹴りの一撃が股間を砕いたのだった。
「なんか言ったか? 青ビョウタンどもが……」
一瞬で複数の男たちに重傷を負わせたその刺客に、稲富会の男たちは恐怖を覚え全員が後退りする。
「ひぃ……! ひぇっ‼︎」
「これから俺はお前らを殺すが、よもや卑怯とは言うまいな? 俺も素手でお前らも丸腰、もしくは護身用の武器を持っている者もいるだろう。それにお前らは奸計をもって人を陥れるのが生業なのだろう? 江戸に巣喰い弱き者を食い物にする現世の鬼どもよ……とっとと地獄に落としてやるよ」
「くそっ‼︎ なめるな‼︎ グァァァァァァ⁉︎」
激昂した稲富会の男の一人が壬午郎に向けて懐から取り出した小刀を振りかざすが、片手で軽く受け止められると共に男の身体が宙を一回転し、畳へと頭を思い切り打ちつけられた。
「ヒィィィィィィ‼︎」
驚愕する稲富会の男たちの悲鳴に構わず、更に鬼は頭から血を流しながら白目を剥き昏倒する男の頸に向けて踵を振り下ろし、ごきりと骨の折れる嫌な音が室内に響いた。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ‼︎」
「ひ、人殺しぃぃぃぃぃ⁉︎」
稲富会は遂には恐慌を来たし、次々と室内を逃げ惑い始めた。
壬午郎は男を一人捕まえると腕を捻り上げながら冷たい声でいい放つ。
「お前らなんぞには言われたくねえなあ……逃さねえぞ、お前ら。いいか、俺はお前らのことをちっともかわいそうだとも思わねえ」
「ぎゃひぃぃぃぃぃぃぃ⁉︎」
ごきり、と嫌な音を立てて男の腕の関節があらぬ方向へとねじ曲がる。
そして容赦なくその喉元へと肘打ちが放たれると、ぐきり、と音を立てながら壁へと吹き飛んだ。
そして次なる獲物に狙いを定めながら壬午郎は稲富会の男たちを次々に骸に変えていく。
「散々、自分より弱い者を嬲ってきたんだろ? 今度はお前らの番が来たんだよ」
素手で人の骨を砕く恐ろしい鬼にますます恐慌を来たし男たちは逃げ惑う。
「な、なんなんだこいつ⁈ に、にげろぉぉぉぉぉぉ‼︎」
「お、鬼だ‼︎ 頼む、た、助けてくれぇぇぇぇ!」
「ガフゥゥゥゥゥ⁉︎」
壬午郎は逃げ惑う稲富の輩どもの首や手足を捕まえると投げを放ち、次々とその頭を畳へと沈め凄まじい威力の蹴りでその頸を砕いていく。
また尚も悪あがきで懐の小刀を構え立ち向かってくる者もいたが、錬磨の壬午郎の前では素人の抵抗などさざ波のようなものに過ぎず、その斬撃は或いは躱されると同時に腕を折られ、或いは叩き落とされると同時に喉元へと拳がめり込み、あっという間に稲富会の面々はこの鬼の前にその意地汚い生命を散らしていった。
やがて薄明かりに燻る悲鳴も舞う血飛沫も収まり、辺りには微かな呻き声のみが闇にうち響く。
畳には先ほどまで享楽を貪っていた鬼どもが哀れな骸を晒し、或いは瀕死の状態で痙攣しながら血を吐く。
壬午郎は息のある者たちの喉元へと次々と必殺の踵落としを決めていき、一人残った奥の座敷で無関心そうに酒を呑むその男を振り返った。
「……おい、稲富弥平治。随分と余裕だな」
やがて近づいてくる壬午郎に対して、弥平治は猪口を片手に興味なさ気に顔を上げる。
「なんともな。まあ、いつか天罰が降るんだろうよ。私たちみたいな者にゃあ。だがこんなに早く迎えがくるたぁね。そして信じられないほど強いねえ、アンタ。こんなの初めて見たぜ。
……なるほど、アンタが噂の渡し人か
できりゃあ、こんなことになる前にアンタを用心棒として雇いたかったぜ」
弥平治は切れ者であり、腹も据わっている。
だからこそ、闇の道を突き進んでまで今の地位に上り詰めたのだ。
何の表情も浮かべず壬午郎は弥平治を見つめる。
「……今までお前が苦しめてきた者たちに何か言い残すことはあるか?」
薄笑みを浮かべながら弥平治は猪口の酒を飲み干した。
「無いねえ。そして喧嘩ですら素人の私じゃあアンタにゃ敵わん。抵抗する気もないよ。
さあ、ひと思いにやってくんな」
「そうか」
壬午郎は一言そう発すると弥平治の腕をとりその肘の関節を外した。
弥平治の腕がぷらり、と垂れ下がると共に激痛がその身に奔る。
「……ぐぅっ‼︎ おい! おい、アンタ‼︎ まさか私を痛ぶる気か⁉︎ 殺し屋にも仁義があんだろ⁉︎ この外道‼︎」
「黙れ」
刺客は静かな声で一括すると、弥平治の先程とは違う側の肩を掴み、ごきり、と音を立ててその関節を外した。
激痛に打ち震え上がる悲鳴を他所に壬午郎は弥平治の襟首を掴み、語り始める。
「外道で結構。お前らみたいな外道を狩れるのは俺みたいな外道だけだ。喜んで鬼になってやるよ。
俺が気に入らねえのはな……」
「が、ガァァァァァァァァァ‼︎」
弥平治の片手の指がつまみ上げられたかと思うとあらぬ方へとねじ曲がり、全ての指が折られる。
壬午郎は汚物を見る目で悶える弥平治を揺り起こし、首を締め上げながら続ける。
「……今さら達観したような風情であの世に逝こうとしてることだ
潔くしてれば一瞬で殺してもらえると思ったか?
女子どもでさえ痛ぶるお前のような屑がかっこつけたままあの世に逝けると思うなよ?
思い出せ。お前が今まで成したことを。
今までその金と力で踏みつけてきた者たちの顔を。
お前が最期に思い出すのはそいつらの顔でなきゃなんねえんだよ……‼︎」
「……あ、ぐ! うう……‼︎」
恐怖で小便を垂らしながら弥平治は今まで虐げてきた者、排除してきた者たちの顔を思い出す。
全員が怒りの表情で弥平治を見つめ、そして闇の中から襲いかかってくるようであった。
激痛と恐怖で泣き叫びながら弥平治は床を這いながら無様な悲鳴を上げる。
「ぐぎゃぁぁぁぁぁぁ‼︎ わ、わるかっだぁぁぁぁ‼︎ お、おれがわるかった‼︎ ゆるじてくれえぇぇぇぇぇ‼︎」
壬午郎は震える弥平治の頸を掴み上げ、引き戻すと畳へと叩きつける。
「そうだ…… お前が穏やかな顔で逝けるわけねえだろう? やんなきゃ良かったと思ったな? いいだろう。その顔で逝け」
そして床へと倒れ込んだ弥平治の顔面へとその脚を振り上げた。
「う……! うぐあぁぁぁぁぁ⁉︎
……ぶげぇ‼︎」
踵が弥平治の顔面の中央へと直撃し、ばりり、と骨が砕ける音が部屋に鳴り響いた。
暫く痙攣を続けていた弥平治はやがて動かなくなり、辺りには静寂が訪れる。
壬午郎は死屍累々の部屋を見回し、目を閉じ片手を差し伸ばし一瞬だけ祈りの姿勢をとった。
「俺は仮にだが仏門に入ったことがある……
お前らの穢れた魂が地獄で浄化されるように祈るだけはしてやるよ」




