一
江戸、と一概に言っても広い。
栄えている街区もあれば、さほどでも無い街、武士だけの住宅地や工業が盛んな区域もある。
この話はそんな江戸の中でも端っこに当たる、はっきり言って治安のよろしくない街の片隅から始まる。
薄紺色の木綿地の着物の男が渋い顔で腕を組みながら人の行き交うドヤ街を歩いていた。
男は乱れた髪をかきあげ、欠伸をして怠そうに肩をさする。
腰には黒鞘の刀を下げているが男は誰かに仕えているわけではない。所謂浪人者だ。
眉根を寄せるその容貌から推察するに歳の頃は20中盤くらいだろうか。
口を真一文字に結びむむ、と天を仰ぐと軽くため息を吐いた。
「ちくしょう…… あの野郎、絶対イカサマだぜ……」
趣味である賭博で負けに負け、素寒貧にされた帰りのことである。
男は今夜の夕飯をどうしようと思案にくれていた。
「しゃあねえ、釣りでもするか……」
気落ちしながら角を曲がったところであった。
考え事をしていたために不注意でもあった。
目の端に影を捉えた男はぶつかりかける寸前に身をかわした。
「わわっ!」
ぶつかりかけた女が倒れかける前に男はその肩を掴み体勢を立て直させる。
「危ねえよ。ちゃんと前見て歩きな」
町人風の身なりのその女は息を切らせ、髪を乱しながら男に頭を下げた。
「……はい、申し訳ありません。急いでいたもので」
「おい、ここらは昼間でも女が一人で歩くところじゃねえぞ」
息を切らせる女の様子を見ながら男は辺りを彷徨くぼろを纏った通行人たちをちらと見やった。
ここは江戸の中でも治安が下から数えた方がいい貧民街。
……別に知らない女のことなどどうでもいいが死なれちゃ目覚めが悪い
男は暫く考えた後に女に背を向けぶっきらぼうに言った。
「どこまでだ? 送ってやる」
「へえ…… いいんですか? ありがとうございます」
女は息を整え、男に行き先を告げ先導をお願いした。
「どんな用か知らんが、こんな貧民街に女一人で来ちゃダメだろ。次からは親父や兄貴について来てもらうべきだぜ」
「ご親切にありがとうございます。ですがその父や兄がたまたまこの街のさる館に居るはずでして……」
「そうかい」
数分ほど歩くと目的の場所に辿り着いた。
貧民街にしては大きな館と門がそこには聳え立っていた。
「ここか? 大層な館だな。稲富商会……か。おい、大丈夫かい? 本当に親父と兄貴がここにいるのか」
「へえ、多分大丈夫です……」
稲富商会と言えば、知る人ぞ知る悪名高い株仲間(※1)で黒い噂が絶えない。
男は少し心配になったが、女の頑固そうな顔を見ると踵を返した。
「そうかい、じゃあな」
去っていく男に女は慌てて尋ね返す。
「お侍さん、ご親切にありがとうございました!……あの、お名前は」
「ふん」
男は何も答えず、その背は遠ざかっていった。
◇
関本典和は株仲間稲富商会の一員である。
悪徳の商人組織にあって彼は良心的な商人として知られていた。
関本は今、嫡男と共に稲富会に呼び出され本部である屋敷の奥で数人の男たちと対峙していた。
複数名の稲富会の幹部たちが居並ぶ中で頭目と思しき恰幅のいい男が煙管を吸いながら、真っ直ぐな目を向けてくる典和を嘲るような目で見つめる。
「おいおい、関本さん、せっかくいい酒を用意したんだ。一杯くらいやってきなよ」
ドスの効いたその声に臆することなく小柄なその商人の男は首を横に振り撥ね付ける。
「いいえ、結構です。私は下戸でしてね。それに日照りのせいで今年は不作なのは知っているでしょう」
頭目は面白くなさそうに鼻を鳴らすと手元の猪口をグイと飲み干した。
「なんだなんだ? そりゃあ俺たちへの当て付けかい? こんな所で呑んでる場合じゃないだろ、って言いたいのかい?」
「有り体に言ってそうですね」
直裁なその物言いに俄かに場が騒めき、飛びかかろうとする取り巻きの数名を頭目は手で押しとどめた。
「はははっ! 本当おもしれーや! 関本さんは! 肝が大層据わってなさる」
そして典和の横でますます小さくなる嫡男を見遣ると面白そうに水を向けた。
「流石一代で豪商関本屋を築いただけあるぜ。なあ若旦那?」
典和の嫡男菅四郎は顔を青くしてその質問には答えられなかった。
典和は苛立たしげに嫡男の肩を小さく叩いた。
「菅四郎臆するんじゃない」
そんな親子の様子を見守りながら頭目の男はますます眼光を鋭くし、彼らに本題を突きつけた。
「なあ、関本さんよお、商会を抜けることは考え直してくれねえかな? もう二十年にもなろう付き合いを急に切るだなんて切ねえじゃねえか。妥協点はあるはずだ」
「ならば私から申し上げられることは一つ……」
典和は居住まいを正し、頭目である稲富弥平治の目を真っ直ぐと見つめ返した。
「こんな日照りで農村は参っている。蔵を解放して食料を貧農に分け与えることと、金貸しの利率を下げることだ。あんたらのやり方はあこぎすぎる」
今年は日照り続きで近隣の農村、特に稲富商会の縄張りの町村は困窮していた。
そんな中にあって稲富商会は食料支援も行わず、金利も下げようとはしない。
そんな悪徳商会の中にあって関本典和だけは困っている農村から金利を取らず、金や糧食を無償で支援しまた貸し与えた。
しかし、他の商人はもちろんそんな関本が面白くない。
その関本の言い様に一斉に激昂し始めた。
「下手に出れば……」
「偉そうに! 善人ぶりやがって! お前も我らが商会の一員だろうが‼︎」
そんな荒々しい彼らの物言いにも典和は落ち着き払って答える。
「ええ、ですから抜けると言っている。今までのやり方が間違っていました」
稲富商会の元締めである稲富弥平治は煙管を深く吸い込むと眉根を寄せながら諭すような口調でもう一度問いかけた。
「なあ関本さんよ、困るんだよ。義賊気取りで金利無しで金貸しなんてされちゃ」
「私は金を貸しているのではありません。これは投資です。飢饉が収まればいずれ返ってくる金です」
弥平治は激昂する若衆を手で押しとどめ、呆れたような顔で白い煙を吐き出した。
「やれやれ、話にならんな。ところで店の様子が気にならんかね? 関本さん?」
急な話の転換に典和は訝しげに顔をあげる。
「……どういう意味です?」
その時、外から物々しい音と聞き知った声が耳に入り、関本親子は背後を振り返る。
襖がガラリと開くとそこには髪を振り乱して駆け込んでくる女が居た。
「おとっつぁん‼︎」
「おふみ‼︎ 来るなと言っただろう⁉︎」
素寒貧侍に送られてきたこの娘は関本の一人娘であり、店番を任されていたのだが……
息を切らせながら身を乗り出し父親である典和の袖を引っ張る。
「それどころじゃないよ‼︎ 先ほどヤクザものたちがいちゃもんをつけてうちの店の番頭と丁稚達を散々殴りつけていったの‼︎ 目を覚さない人もいるのよ!」
「なんだって……!」
流石の典和も顔を強張らせその場から立ち上がった。
血相を変えた典和を面白そうに眺めながら弥平治はせせら笑う。
「あらあら大変なことになったねえ、関本さん。お帰りで?」
そそくさとその場を後にしようとする関本親子の背に弥平治取り巻きの幹部も嘲るような口調で言い放った。
「偶然だとは思うが、我々のいうことを聞けば今後こういう事も無くなるんじゃないかな?」
その言葉に典和は振り返り強い視線で睨み返す。
「私を舐めるなよ、稲富さん。私は闇の道を行くあんたと違ってお上とは縁も深いんだ。必ずこのままにはしておかんからな」
ふう、と白い煙を吐きながら弥平治は煙管の灰をこつりと灰受けに落とした。
「そうかい。そりゃ残念だ」
そして立ち去る関本親子に幹部たちは不敵に笑いながら別れの挨拶を告げた。
「じゃあな、関本さん。気をつけてな」
※1 株仲間とは中世、近中世日本の商人ギルドのようなものらしいです。
織田家が覇権を取っていれば恐らく存在しておらず、社会システムも違っていたかも知れません。