十六
月の無い夜を出歩く者は少なく、特にその晩は静かだった。
街を賑やかす者などおらず、陸路や水路を時おり運搬作業する者だけが黙々と行き交う。
子の刻(午前零時)を回ろうかという夜半、江戸の街の一角の料亭だけが火が灯り活気があるようだった。
店の二階では赤ら顔の男たちが芸者らしき女たちを引き寄せ、下卑た笑い声をあげていた。
話している内容はというと、それはとても薄汚く訳がわからなくても聞いている者を不快にさせるようなものだった。
「今日は実にいい気分だぜ。関本の野郎がくたばってから数日。息子は虫の息で店を焼かれた娘も気鬱の病で臥せってると聞いたぜ」
戯けたようなその口調に一同から笑いの響めきが起こる。
稲富商会の幹部十余名が今宵は店を借り切って酒宴を開いていたのだ。
彼らは己らの非道を肴に旨そうに酒を飲む実に下卑た連中であった。
また一人の男が歪んだ笑顔でさも可笑しそうに口を開く。
「俺は気が狂ってドブ街を彷徨いてると聞いたぜ。身売りでもするしかねえんだろうなあ」
「あの娘、顔に酷い火傷が出来たっていうぜ? 傷持ち女なんて誰が買うってんだ!」
そうしてまた一同から響めきが起こる。
……あろうことか自分たちが傷つけた者たちを出汁に嗤う
そんな下卑た話題に眉を顰めながら酌をしている芸者風の女たちは債務者から攫ってきた子女たちであった。
借金のカタに連れてきた女たちを酒の肴とするのは下衆な彼らの常套である。
「どっちにしろあの五月蝿え関本が居なくなってせいせいしたぜ。俺たちに従わねえからこうなるんだ」
「そうそう、ざまあみろだ」
そして赤ら顔の特に下品そうな男が酒臭い息を吹きかけながら傍らの女を引き寄せた。
女は悍ましさに思わず小さな悲鳴を上げる。
「ひっ……!」
男は構わず舐めるように芸者風の扇情的な服を着たその女の身体を上から下まで見回す。
「元々は村娘らしいが、馬子にも衣装とはよく言ったもんだ。俺と遊ぶかい? 姉ちゃん」
「お、おやめください……」
肩を引き寄せられ、頬まで撫でてくるその男に悍ましさを覚えながら女は必死で抵抗するが、男の顔色と口調が変わり、引き寄せる力が強くなる。
「黙って言うことを聞いといたほうがいいぜ? 俺たちに出来ないことなんてないんだからよぉ。何しろ俺たちゃ……」
関本を姦計をもって殺害したことは仲間内の公然の秘密である。
調子に乗り酔いに任せて大きな口を叩くその男を制止するかのような鋭い声音が部屋に響き渡った。
「おい」
一瞬でシン、と静まり返る会場の全員の視線の先には奥の座敷に陣取り煙管をふかしながら冷たい視線でその男を睨みつける恰幅の良い男がいた。
一同の頭目稲富弥平治である。
稲富は不快そうに眉を顰め、灰受けに煙管をコツリと叩きつける。
「ちょっと悪酔い過ぎだろ? おめえも関本と同じところに行くかい?」
決して絡まれていた女を慮っての言葉ではない。
連れてきた女は商品であるし、今晩は事件の後片付けや揉み消しに尽力してくれた高木に優先権があるので稲富としては男の今の態度は頂けないのである。
叱られた男は表情をみるみるうちに青ざめさせながら平伏すように縮こまって詫びを入れる。
「……すまねえ、元締め
調子乗りすぎたんだ、許してくれ」
弥平治は暫く冷たい目で詫びを入れる男を見つめるとやがて頬を緩ませ一同を見渡す。
「今日は高木さまも来られるんだ。あまり呑み過ぎるなよ、お前ら」
同じ頃、ドブ街の荒れ地の端に佇む寺院跡を利用した屋敷が闇夜に灯った松明の灯りに不気味に照らされる。
ドブ街の荒くれ者でさえ、立ち入らないここは最近闇の世界で力を伸ばしているヤクザ轟々組の根城であった。
門の前で松明に照らされた二人の男たちは如何にもつまらなそうにヒソヒソと不満を述べていた。
折からこの闇夜に小雨がしとしとと降ってきたようだ。
「はあ…… 雨が降ってきやがったぜ。中の奴らはお楽しみだってのについてねえや」
「交代の時間まで我慢しようや」
晴れの宴の今宵に門番に立たされた二人はため息を吐きながら辺りを見回す。
ドブ街の闇夜の樹々に野犬の遠吠えが木霊する。
「こういう時に代わりの奴なかなか来ねえんだよなあ……」
「まったくだぜ……
新月の晩は出るって言うしな。
早いとこ代わってほしいもんだぜ。
……ん? 何だあれ」
門番の一人は闇夜の道を近づいてくる人影に気づきじっと見つめる。
小雨に溶けるような静かな足音と共にゆっくりとこちらに歩いてくる影は男のものだろう。
やがて近づく人影が松明の灯りに照らされその影形がぼんやりと見えて来る。
容貌などはよく分からないが、腰に刀を差したその浪人風の男は迷う素振りも無くこの轟々会の門前へと歩みを進めてきた。
ドブ街でも恐れられる轟々組のこの屋敷に近づいてくる者など珍しい。
唖然としながらも門番の男は浪人に声を掛け制止する。
「おい、止まりなそこの兄ちゃん。ここは雨宿りするにゃあ向いてねえとこだぜ」
このドブ街に碌な者など住んではいない。
大方、酔っ払いが雨宿りに来たんだろう。
もう一人の男は呆れながらドスの効いた声でその浪人を追い払うような仕草をする。
「どっか行きな。ドブ街に住んでながらここがどこかわかってねえバカなのか?
轟々組の縄張りだ。帰れマヌケ野郎が」
ここらで轟々組の名を知らぬ者などいない。
この浪人者も踵を返して逃げ帰るだろう、と踏んでいた門番たちの予想を裏切るかのようにその男は薄い笑いを浮かべながら落ち着いた口調で言った。
「いや、そんな事は承知でこうしている」
嘲笑うようなその声に門番たちの顔つきが険しいものとなり、傍に置いていた長物や槍をその手に構え浪人の方へと突きつける。
闇夜で男の表情は読めない。
……身の程知らずの馬鹿だろう
門番たちは武闘派ヤクザである自分たちを揶揄って何が起こるのか想像も出来ないのだろう愚か者であるその浪人者を馬鹿にするように、ほくそ笑む。
不思議なことに浪人者から何の気負いも感じられないことに門番たちは奢りからか不信を抱かない。
──彼らが少しでも武術をかじっていたならば男の所作からその異常なまでの練度に気づけたかもしれない
門番たちは長物を浪人に突きつけたまま、嘲るように笑う。
「ほう、いい度胸だな小僧。俺たちを轟々組だと分かった上でやってきたカチコミというわけか? おもしれえ」
「どこの組の者だ? それとも腕試しのつもりか? 一人だと? バカじゃねえのかお前。暇つぶしに痛めつけてやるぜ」
軽く捻ってやろう。
門番たちは長物を浪人者に向けて振り下ろした。
ばちん、と松明が音を立てて火の粉を散らし小雨が舞う間に門番たちのその斬撃は虚空を切る。
そしていつの間にか煙のように男たちの間をすり抜けたその浪人者の手元が素早く動き、闇夜に鈍色の一閃を描いたかと思うと二人の首がごとり、と薄く濡れそぼる地へと跳ね落ちた。
パチリ、とその刀を納める金属音だけが小雨の闇夜に小さく響き、主を失った胴がどさり、と頽れ赤い血を噴き出す。
その浪人改め、刺客勢二郎は、やがて首の一つを手に取りもう一つを何処かへと蹴り飛ばしヤクザ者たちが騒いでいる屋敷の方を闇の底からの冷たい視線で睨め据えた。
「ガタガタ煩えぞ、雑魚共が。こんな肥溜めでイキってんじゃねえよ」




