九
浅い眠りの中でおふみは遠くない昔の夢をみていた。
『ほら、おふみ。今日はお前の好きなさわらを焼いたからね』
……おかあさん
気づくと数年前に流行り病で亡くなった母がいつもと変わらぬ笑顔で夕飯の準備をしていた。
『おふみ。遊ぶのはやめて卓に着きなさい』
生前の姿のままの父、典和も卓に着きおふみを手招きする。
……ああ、おとうさん
おふみは泣きそうになりながら手に持っていた鞠を投げ出すと食卓に着き、母親が運んできた夕飯に箸を付ける。
「……美味しい」
これは夢か幻か。
懐かしい味におふみは堪えきれず涙を零した。
父と母に挟まれながらおふみは久しぶりの家族団欒を楽しむ。
こんなのはいつ以来だろうか。
……もういっそ現世の事など忘れてこのままここにいたい
おふみにとってここ数日で起こった現実は過酷過ぎた。
「ねえ、お父さん、お母さん」
ここにずっと居させてくれと頼むと、父と母は優しい笑顔を引っ込め首を横に振った。
『駄目だ。おふみ。お前は生きてお帰り』
『じゃあね、おふみ。短い間でも会えて嬉しかった。強く生きるんだよ。お兄ちゃんと仲良くね』
……そんな
唖然とするおふみを尻目に父と母は席を立つと振り返らずに、何処か地平の彼方へと背を向け歩いていく。
おふみは父母を追おうとするが身体が一寸たりとも動かず、声すら出ない。
遠ざかる二人の背中を見つめ、あまりの悲しさにおふみは泣き崩れる。
……いやだ‼︎ 私も連れて行って! もうあんな辛い現世なんかには戻りたくない‼︎
「お父ちゃん! お母ちゃん!」
おふみは絶叫と共に跳ね起きた。
身体の節々が痛むが今はそんなことは気にならない。
「びっくりした……」
「ああ、良かった。おふみさんが目を覚ましたわ」
声のする方に顔を向けると近くにいた医療者らしき着物を着た女性と、薄黄色の着物の女性がおふみを見つめていた。
辺りを見渡すとどうやらここは見知らぬ診療所のようだ。
医療者らしき女性が柔らかな笑みを浮かべ、おふみの側へやってきてその手を取った。
「おふみさん、気分はどう? あなた丸一日気を失っていたのよ。怪我は大した事ないからね。命に別状ないわ」
「……あなたが看病してくれたの?」
おふみが尋ねると女性はにこりと笑いながらそっとおふみの額を手にした布で拭う。
「看病したのは私だけど、あなたの傷の具合を見たのはここのお医者の秀庵先生よ。
私は看護助手で医者見習いの朋恵。
よろしくね。
いつまでもここに居ていいからね」
朋恵と名乗るその女性はおふみの脈などを測りながら答える。
街外れに小さくても腕の良い医者のいる診療所があると聞いたことがある。
ここがそうなのだろうか。
おふみは自分の左頬の痛みに気づき、手を当てながら朋恵の顔を見つめた。
頬には何やら布が貼り付けられているようだった。
「あの、私は……
どうしてここに居るんでしょうか?」
朋恵はしばらく間を置いた後で、やや躊躇いながら口を開いた。
「昨日、あなたのお家が火事に遭ってね。
あなた、二階の窓から飛び降りて火消しの兄さん方に助けられたのよ。
ウチまで運んでくれたのもその兄さん方。
頬に火傷と全身打ち身で痛いでしょう。
でも、まだ運が良かったわね」
「……全然良くなんかありません」
……私の部屋が煙に巻かれて
……そして炎に包まれて
おふみは記憶をたぐり寄せ、唇を噛み締めると思わず冷たい声音で返答する。
朋恵はそんなおふみの掌を強く握ると優しく微笑みかけた。
「そう、ごめんね。先生呼んでくるからお駒さんと勢さんちょっと頼むわね」
そう言うと後ろの二人に何事か告げてどこかへ去っていった。
しばらく呆然としていたおふみの側にやってきた、その小さな娘は朗らかな笑みと声でおふみに湯呑みを手渡した。
「私はお駒。たまーにここのお手伝いやってるの。まずは水でも飲みなよおふみさん」
その湯呑みを受け取りおふみは怪訝そうに尋ねる。
「ありがとう……
でもどうして私の名を?」
そう尋ねると、お駒は背後の座敷の端の柱にもたれかかり胡座をかいて微睡んでいる紺色の着物の侍をちらと振り返った。
「えーーと、私あっちの貧乏侍と知り合いでして。あの人と先日会ったことは覚えてないかしら?
名乗ってたのを聞いていたので」
「……あっ」
その男は数日前にドブ街を彷徨っていたおふみを案内してくれた侍だった。
侍は目を覚ますと不満そうにお駒の方を睨みつける。
「おい、誰が貧乏侍だ」
おふみは侍の方にお辞儀をしながら再び礼を述べた。
「あの時のお侍さんですか…… お世話になりました」
その侍は相変わらずぶっきらぼうに応える。
「何もしてねえし礼なんぞいらねえよ、何度も。それより、あんたの身体の心配でもしてな」
お駒は呆れたように侍の方を向き眉を顰めた。
「……もう〜勢さん、無愛想すぎんでしょ!
ごめんねおふみさん」
「いえ…… あの、あなたのお名前は」
「……雨野勢二郎」
「雨野さま、ですか。恩人のお名前は覚えておきます」
雨野と名乗るその侍はおふみのその言葉に薄い苦笑を浮かべる。
「いいって。律儀な女だな、あんた」
やがて廊下から足音が近づいてくると部屋の扉が開かれ、小柄な老人と朋恵が戻って来た。
「おお、お待たせしたのう。おふみさん、目を覚まされましたか。どうかの、気分は。痛いところは?」
白髪の小柄なその老人は秀庵と名乗るとおふみの脈を取り始めた。
「……お医者さま、お世話になりました。身体を打ったようで少しあちこちが痛みますがそれほどでは」
「ふむ、あとは頬の火傷じゃなあ。痕が残るかもしれん。
まあ、元気だすんじゃよ。命あっての物種じゃ」
秀庵は穏やかな声音で元気付けてくれるが、おふみにはまだ一つ気がかりがあった。
妹である自分が担ぎ込まれたこの場に兄がいない事だ。
「……兄が、兄が帰らないんです。私のせいでここ数日かなり負担をかけてしまった……
探さないと」
もしや、何処かで行き倒れているのではないか。
おふみは痛む身体を押して病床からふらふらと立ち上がる。
秀庵と朋恵は慌てておふみの身体を抑えて留める。
「おいおい、無理したらいかん
……お兄さん、か
菅四郎さんのことじゃよな」
「兄を知っておいでで?」
おふみは秀庵のその言葉に目を見開き、食い入るように見つめた。
うーーん、と唸りながら秀庵は言い淀む。
「あんたのお兄さんは生きとる。でもな、今は会わん方が……」
「……ここに居るんですか?
兄に! 兄に会わせてください! たった一人残った肉親なんです‼︎」
秀庵の言葉や態度からここに兄が居ると直感したおふみは二人の手を振り払い、廊下の方へと駆け出す。
……焦燥感と喪失感に駆られ、おふみは今普通の精神状態ではなかった
「あっ! 待ちなさい‼︎ ちょっと!」
「……おふみさん」
怪我人とは思えない速さで駆けていくおふみを秀庵と朋恵は追う。
「勢さん‼︎」
お駒は相変わらず柱の影で佇んでいる勢二郎を促すが、その侍は一息つくだけで立ち上がる気配すら無いようだ。
「隠したってしょうがねえだろ。後になるか先になるだけの話だ。いいじゃねえか別に」
「この薄情へっぽこ侍‼︎」
お駒はそんな捨て台詞を吐くと、おふみの行った方へと走り去る。
一人残された勢二郎は怠そうにぐるりと腕を伸ばした。
「……うっせえよ、ちび女」
おふみは廊下を奥の方へと必死の形相で駆ける。
「兄さん! 菅四郎兄さん! どこなの⁈」
…….幸か不幸か
死に際した者に働いた直感か、それとも肉親の絆が引き寄せたのか、おふみのたどり着いたその扉の先は兄の眠る病床であった。
おふみは布団をかけられ眠るその男の側に行くと顔を確かめる。
「兄さん……! に、いさん……?」
……おふみにしか分からないが確かにこの患者は菅四郎で間違いない
しかしこれは……
男の全身は白い包帯で覆われてその息の根はまるで虫のようだった。
とても生きている人間のようには思われない。
唖然とするおふみに追いついたのか、秀庵と朋恵は息を切らせながら彼女の肩を優しく掴む。
「……おふみさんや
だから言ったじゃろう。今は会わない方が良いと。
意地悪で言ってるんじゃないんじゃよ」
おふみは秀庵たちの方を振り返り、震える声で口を開いた。
「先生…… 兄はいったい……」
秀庵は朋恵と目を合わせ頷くと躊躇いがちに訥々と語り始める。
「お前さんがここに運び込まれたその晩に担ぎ込まれてきたんじゃよ。
道端に血だるまになって倒れておったそうな。
ワシの見立てでは……
鈍器のようなもので何度も頭部を殴られとる。
担ぎ込まれてから一度も目を覚まさんよ。
……ここ二、三日が山じゃな
目を覚ましても元のように動けるかどうか……」
秀庵のその絶望的な言葉を聞き終えるか聞き終えないかの間におふみは顔の色を失い、床へとへたり込む。
「そんな…… 嘘よ……! 嫌よ‼︎」
そしてわなわなと肩を震わせると床へと突っ伏して絶叫した。
「菅四郎にいさぁぁぁぁん‼︎」




