後編
話はとんとん拍子に進んで、翌週の日曜には見合いと決まった。
相手は、与党幹事長の二世議員で、日向と言った。まだ、二期目だが、前回の選挙ではトップ当選を果たし、次の総理と目される三十歳である。
その日は、一緒に来るはずだった両親を説き伏せ、祖母が一人、美子に付き添った。子安があんな男だったとしても、一方だけ見るのは不公平だと言うのだった。
美子は、祖母の勧めで和服を着た。
「気合い入り過ぎだと思われないかしら」
「一生のことを決めるのに気合を入れなくてどうするんだい」
相手側の付き添いは、大臣経験者の叔父だった。
場所は、赤坂の料亭だった。美子が七分前に店に入ると、相手方はすでに待っていた。祖母を見ると、日向は居住まいを正した。
「久世さんには、父が大変お世話になったそうで」
「息子さんとも長い付き合いができたらと思っているんですよ。ですから、今日はどんな方かと、会いに来たんです」
「恐縮です」
日向はネクタイを直しながら頭を下げた。
「しかし、噂に違わぬ、美しいお嬢さんですな」
叔父が場を和ますように言ったが、祖母は聞いていなかった。
「この子の、美子の父親が、あなたの大ファンで、あれほど立派な人物はいないと常々言っているんですよ。日本一の男だと。だから、どうしても、この子の婿にしたいとね」
祖母の言うことの半分は本当だが、半分はでまかせだった。父は褒めてはいたが、祖母の言うような絶賛ではなかった。
「私はね、お父様のことはよく存じているけれども、あなたの事はよく知らないもんだから、それを聞いて、いつも本当かしらって、半信半疑でいたんですよ」
祖母の失礼な物言いに、美子はその袖をひいたが、払われてしまった。日向の叔父は乾いた笑いを浮かべていた。
「ご自身では、どう思われますか」
日向は面接を受ける就活生のような顔をした。
「正直、私はそこまでの人間ではありません」
「それはどうしてです」
「次の総理だなんて持ち上げられていますが、私はまだ二期目です。父の跡を継いでなんとかやっているだけです。勿論、これからやりたいと考えていることはたくさんありますが、今はまだ、なにも成し遂げられていない。私の友人には、大学のときに起業し、最近、上場を果たした男がいますが、彼と比べると、自分を情けなく思うことがあります。彼は、自分で目標を定め、自分で道を決め、自分自身の手で新しいものを生み出しているのに、私はなんだか、自分がレールに乗せられているような、ときどき、そんな気がしてしまうのですよ。将来はわかりません。胸を張って、私ほど立派な人間はいないと言えるときが来るのかもしれない。でも、残念ながら、今は無理です。少なくとも、その友人に勝てないのだから、日本一ではありません」
うん、と満足そうに、祖母はうなずいた。
「日向さん、私は、あなたが気に入りましたよ。お父さんに勝るとも劣らない立派な方です。八十の久世の婆が太鼓判を押します。ただね、日向さん、私は、孫を日本一の男のところに嫁にやりたいと考えているんです。あなた以上の人がいると聞いてしまったら、どうしても会ってみたくなった。一度、あなたとのお話、引き取らせてもらえませんか」
「おばあちゃん」
「久世さん、それはいくらなんでも」
美子は思いとどまらせようとしたし、日向の叔父は抗議したが、日向自身はうなずいていた。
「わかりました。ただ、誤解しないでください。私はとても良いお話だと思っているんです。お孫さんとお会いして、その思いは強くなりました。戻ってきてくださることを願っています」
「ありがとう。この恩は忘れませんよ」
祖母は車に戻ると、上機嫌で言った。
「あれは良い政治家になるね。私は、今の人でいいと思うけどね。でも、せっかくだから、日向さんが、自分よりも立派だという男に会ってみようじゃないか」
日向の友人だというIT企業のCEOのところを訪ねた。二十九歳の八雲という人物だった。六本木にビルを持っていた。日向から連絡を受けていた八雲は、忙しい合間を縫い、十二階にあるオフィスで待っていてくれた。かなり太めの男だった。
祖母は、美子に囁いた。
「イケメンではないね。でも、それだけで判断したらいけないよ。お爺ちゃんだって、イケメンじゃなかったろ。でも、世界一の男だったんだから」
祖母が詳しい事情を説明すると、八雲は笑った。
「それは嬉しいなあ。でも、僕なんかとてもとても。ただ、好きなことをやってきただけなんですからね。それがたまたま、世の中の動きと合ったんですよ。それほど努力したわけでもないしなあ。運がよかったんです。大変なことがないわけじゃないですが、冷暖房完備のオフィスにもいられますし。僕はこう見えて、すごい暑がりなんですよ」
八雲は、美子に笑いかける。つられて笑いたくなるような笑顔だった。
「私の友達の医師なんか、一年の三分の一を海外で、しかも、ときには水を得るのも苦労するようなところで過ごしていますが、恵まれない人を救うためですよ。ほとんど、ボランティアです。立派だと言うなら、彼のような人間だと思うなあ」
「あなたの思う日本一は、その人ですか」
祖母が尋ねた。
「日本一かどうかは知りませんが、僕より立派なことは確かですね」
八雲は声を立てて笑った。
八雲が紹介してくれた医師は、風祭という二十九歳の男だった。港区にある病院の勤務医で、午後の診察までの空き時間に、院内の一室で会った。美子が、はっとするほど美しい顔立ちの男だった。
「たしかに。僕のような立派な人間はいないでしょう。……というのはもちろん冗談でね、僕なんか、年に百人も救えたらいいほうだけど、私の知り合いで、最近、東栄大学の教授になった奴がいますが、二十七歳だから、たぶん、あの大学の教授の最年少記録じゃないかな。ある難病の原因遺伝子を特定しましてね、その功績が認められたようです。ニューイングランドジャーナルにも掲載されたから、いずれ、治療法がみつかるかもしれない。そうなったら、世界で年間に数万人が救われるでしょう。彼が小さな研究室で、一人黙々とやってきたことが、ついに報われるわけです。僕のしてることなんか、スパース、テリマカシ、シュクラン、コップクン、カムオン、そんな言葉で一日に何度も報われるが、彼の仕事はそうじゃない。ねえ、お祖母さん、日本一というなら彼ですよ。将来きっと、ノーベル賞をとりますよ」
祖母は病院の廊下を歩きながら満足そうだった。
「まだまだ、若い男たちも捨てたもんじゃないね。誰も彼もが、自分こそ、自分は絶対なんて世の中になったら、おしまいだもの」
美子はすこし不満だった。
「なんだか、私を押しつけあってるみたい」
「馬鹿を言うんじゃないよ。誰が、こんな美人を押しつけ合うもんかね」
祖母は優しく、美子の頬を撫でた。
東栄大学教授の真壁は、大学の門前で車が来るのを待ち構えていたが、車が停まるなり運転手よりも早く、祖母のために後部席のドアを開いた。
「お久しぶりです」
深々と頭を下げる。美子よりも、ずっと身長の低い男だった。
「あなたが、真壁さんですか」
「ええ」
「どこかでお会いしましたか」
「あれ、僕を覚えていて、会いに来てくださったんじゃないんですか」
真壁はショックを受けた様子で、車を降りた美子のほうを見た。
「美子さんも覚えていないんですか」
彼は肩を落とした。
「数日でしたけど、おばあさんの家で、一緒に遊んだんですよ」
美子は思いだした。そう言えば、美子よりも一つ年上だが、背の小さな少年がいた。
「敏夫くん?」
「そうですよ!」
「なんだい、あんた、敏夫かい」
「ひどいなあ。おばあさんも、美子さんも」
真壁敏夫は遠い親戚の子で、あの夏、やはり祖母の家に遊びに来ていたのだった。当時の姓は真壁ではなかったが、両親が離婚し、変わっていたのだった。
「それにしても、美子さんはお綺麗になりましたね。いや、当時から綺麗でしたけど」
真壁は校庭を楽しげに歩いていた。美子は着物で、学生の大勢いるところを歩くのが恥ずかしくて、小さくなっていた。
「僕は今でも、あなたの面影を忘れられずにいる男を知っていますよ」
大学の教授室に案内された。祖母は物珍しそうに室内を眺め渡していた。
「あんたも立派になったもんだね、教授だなんて」
「僕、断ったんです。何度も。だけど、学長が強く言うので、断りきれなくて」
「いいじゃないか。それだけのことをしたんだから」
「いいえ。僕はただ、なにかに打ち込みたかっただけなんです。両親の離婚で、友達と離れることになって、孤独な時期があったので。そのとき、おなじようにいつも一人ぼっちでいる難病の子と会ったんです。それで僕、ある人に習って、思い切って話しかけたんですよ。それがきっかけで」
「敏夫、私たちはね、この子の日本一の婿を探して、今日、幾人にも会ってきたんだよ」
「美子さん、結婚されるんですか」
真壁はずいぶんと驚いていた。
「驚くようなことじゃないよ。この子も二十五だもの」
「はあ」
「はじめに将来の総理候補だという政治家に会ったんだよ。そうしたら、若い実業家のほうが、自分よりもずっと立派だというから、その男に会いに行ったんだ。そうしたら、世界の貧しい人たちを助けている医師のほうが偉いというから、その男にも会いに行った。すると、その医者は、お前のほうが、すごいと言うんだ。だから、ここに来たんだよ。もしも、お前よりも偉い男がいないなら、私は、あんたに美子を頼まなきゃならない。勿論、この子の気持ちを聞いてみないとわからないけれど」
「いえ、あの、その、それはとても嬉しいお話ですけど、僕は、今話した難病を患っている女性と、結婚の約束をしていまして」
祖母は、頭を抱えた。
「まったく、私らはここまでなんのためにやってきたんだろうね」
「それに、僕よりも偉い人なんかいくらでもいますよ。とくに一人は、僕がどんなに頑張っても敵わない」
祖母は俯けていた顔を起こした。
「ほう。どこのなんという人だい」
「お二人とも知っていると思います。あの夏休み、一緒に遊んだ一人ですから。子安正彦という男です」
なぜか叫びが漏れそうになり、美子は手で口元を覆った。
「とんでもない。あんな、男。敏夫、お前は、ずいぶんと人を見る目がないね」
腰低くしていた真壁が、このときは強く首をふった。
「いいえ。これは間違いのないことです。彼は粗野だけれど、遅れた子がいれば迎えに行き、一人ぼっちの子がいれば話しかけてやる、人の心がわかる人間です。美子さんが川で溺れたときも、自分の危険を顧みずに飛びこんだんです」
「褒美でももらおうという魂胆があったんだろう」
「だったら、あんなにざっくりと切った手を隠そうとなんかしないはずです。誰にもわからないように止血し、ずっとポケットに手を入れていた。僕だけが見ていた。今でも大きな傷がはっきりと残っていますよ。美子さんが傷つかないようにそうしたんです」
祖母も、美子も、言葉を失くした。工場で美子と会ったとき、子安が手を後ろに隠した意味も、握手のときに軍手をはめた意味も理解したからだった。
「美子さん、日本一の婿だというなら、あの人ですよ。彼は、僕とおなじ大学でしたが、父親を失くして、やむなく退学し、今は父親の跡を継いで、都内で小さな修理工場をしていますから」
「でも、子安さんは、私のことは好きじゃないと思います」
「すると、会ったんですね?」
「え、どうしてですか」
「さん、と言われたから。子どものときに会ったままなら、君でしょう? あなたと会ったのに、あいつ、言わなかったんですね。言えなかったんでしょうけど。さっき話した、今でもあなたの面影に恋しているという男は、子安のことですよ。僕は直接、この耳で聞いたんですからね」
祖母は立ちあがった。
「美子、行こうか」
車に戻るまで、祖母は不機嫌そうに、ずっと独りごとを言っていた。片足を引きずりながら、足早に歩いていた。美子が追いつくのが大変なくらいだった。車のそばに、秘書の金子を見つけると言った。
「金子、さっきの手術の予約だけどね、明日にしてもらってくれないか」
「明日ですか。さすがに、それは」
「いいから、そう伝えなさい。どうしても無理だというなら、せめて二、三日中に。まったく、白内障になんてなるもんじゃない。人を見る目まで濁ってしまう。金子、さっきの修理工場にやっておくれ」
「おばあちゃん」
「美子、日本一の婿だよ。絶対に手に入れなきゃいけないよ」
「はい」
車が工場の近くで停車すると、美子一人が降りていった。道を早足で歩いた。慣れない草履で、何度かつまずきそうになった。なかにいた客が二人、驚いたように美子を見た。
段ボールに仰向けになって、車の下に頭を入れていた子安は、足音に気づいて、美子を見た。美子は、子安の傍らに立ちどまり、息を整えながら言った。
「私を、あなたのお嫁さんにしてください」
(了)