前編
全2回 短編
久世美子は車の運転席から、従業員一人きりの小さな修理工場の奥を、そっと窺った。
普通車が二台も並んだら一杯になりそうなコンクリートの床に、今は軽自動車が停まって、その下から作業服の足がでていた。
美子はもう十分もその足を見ている。ときどき、つま先がリズムをとるように動くのがおかしかった。
男が這い出してきて、袖で額を拭った。男は工場の外には目をやったが、ずっと遠いところに停車している美子には気づかなかったようだ。
男は子安正彦といって、美子の初恋の人だった。その初恋は、二十五歳になる今も続いていた。もう忘れかけていたのだ。彼が十二歳、美子が十一歳のときに会って以来、ずっと会っていなかったのだから。
それが一年前、偶然この道を通って、彼を見つけてしまったのだった。それから、当時の気持ちが蘇って、近くを通るたびに、ここに来るようになってしまった。
子安は、はじめて美子に告白した男で、命を救ってくれた男でもあった。
小学5年生のとき、夏休みを利用して、八王子に住んでいた祖母のところに、一ヶ月間泊まりこんだ。
子ども好きな祖母は、近所の子どもたちを集めては毎日のように、ゲーム大会や、バーベキューをやっていて、美子もそのなかに混じることになったのだった。
そこは美子の知らない世界だった。振る舞いも、言葉遣いも、遊び方も、すべてが新鮮だった。
子安は美子よりも一つ年上の、よく日に焼けた、いつも半ズボンの少年で、子どもたちのリーダー格だった。頼り甲斐はあったが、粗野な子安のことが、美子はあまり好きではなかった。
会ってから、三週間ほど経った頃、二人きりになった折、ふと子安が、「俺のお嫁さんにしてやろうか」と、美子に言ったのだった。
そのとき、美子は馬鹿にされたような気になった。
美子は、心のどこかで、祖母が遊ばせている近所の子どもたちと、自分とは違うと考えていたのだ。将来、王子様のような人と結婚するはずの自分を、こんな粗野な少年がと思ったのだった。
美子は差し出された手を払いながら、その思いを、そのまま口にだした。
「馬鹿にしないで」
子安は、それから美子と口をきかなくなった。
数日後、ある事故があって、美子は予定よりも早く家に帰ることになったが、そのときも、子安は両手をポケットに入れたまま、仏頂面をしていた。
翌年、美子は再び夏休みに祖母のところを訪れたが、ひとつ年上で、その年から中学生になっていた子安はもう来ていなかった。
美子は小さなため息をつくと、車をだした。
実はこの日は、美子の二十五歳の誕生日だった。今のところ、これまでで最低の誕生日だった。朝起きるとまもなく両親に呼ばれ、見合いを勧められたのだった。何度も断ったが、最後には押し切られてしまった。
「久世家の娘は、大学卒業と同時に皆、結婚してきた」
「二十五歳と言えば、昔ならとうが立つと言われる歳だ」
二人からそう責められて、ついに何も言えなくなったのだった。
これまで、久世の家に生まれ、同級生の子たちよりも、一段も二段も上の暮らしをさせてもらってきた。その分、我慢しなくてはならない事もあるのだと、自分に言い聞かせようとしたが、どうしても納得することが出来ず、車を走らせたのだった。
足が悪くなってからは都内のマンションで暮らしている祖母を訪ねるつもりでいた。
父も母も、祖母には逆らえなかった。斜陽と言われた久世の家を、一代で立て直した祖父の威光が、亡くなってから八年経つ今でも、祖母の上に生きていた。美子は、祖母に頼めばなんとかなるかもしれないと考えたのだ。
「私は、昔の人間だからね。お前の気持ちもわかるが、お父さんお母さんの気持ちもわかるんだよ。もう、二十五なんだからね」
祖母は紅茶を淹れると言って、キッチンに立っている。美子がやると言ってもきかないのだった。歩くとき、杖で踏んばるようにして、左足を引きずる姿が、痛々しかった。
「でも、おばあちゃん、私、好きでもない人と結婚なんて」
「昔は、ほとんどの人がそうだったよ。私だってそう。おじいちゃんのことも、だんだんと好きになっていったもんさ」
「好きになれなかったら」
「昔なら、あきらめた」
「今はどうしたらいいの」
「無理に好きになる必要もないが、どうしても嫌なら別れるんだね」
美子はまた、ため息をつく。久世の娘が、離婚など、そうそうできることではない。
祖母は、リビングのソファーに腰を下ろしながら言った。
「紅茶を運んでおくれ」
美子はキッチンから、紅茶の乗ったトレイを運んだ。カップのなかには、レモンが浮かんでいる。祖母の自慢のレモンティーだった。
「美味しい」
「あんたは昔から大好きだったね」
祖母はカップを口に運びながら、嬉しそうに言った。
「それで、あんたが好きだっていう男とは、私の家で会ったんだったね」
「ほら、日焼けしていて、いつも半ズボンの子」
「そんな子もいたかもしれないね。なにしろ、わらわらとたくさん来ていたからね。どうして、好きになったんだい」
「そんなのわからないわよ」
「なにかあるはずじゃないか」
「私、川に落ちたことがあったでしょう」
「そんなこともあったね」
「あのとき、助けてくれたの」
「皆でだろ? そう聞いた覚えがあるよ」
「そうだけど、最初に飛び込んでくれたのが、彼だったの」
川遊びをしていたとき、うっかり足を滑らせ、急な流れにつかまってしまったのだ。みるみる皆が遠ざかっていったときの恐怖は、今も覚えている。
そのとき、子安が岸を走り、先回りして川に飛びこんだのだ。
一緒に流されながら、川面に垂れていた木の枝を握った。皆が大人を呼んできてくれるまで、そうして耐えていた。その数分間の、子安の必死の横顔が、記憶に焼きついている。
助けられた美子が、詫びのつもりで差し出した手を、彼は不機嫌そうに、ポケットに手を突っ込んだまま拒否した。それが、こどものときに見た、最後の子安だった。
「吊り橋効果というのを知ってるかい」
美子はそれが、吊り橋を渡ったときのドキドキを恋愛感情と錯覚して、一緒に渡った異性を好きになってしまう説のことだと知っていた。
「違う。それだけじゃないの。いろんな積み重ねがあったのよ」
彼のリーダーシップや、さりげない優しさにも惹かれていたのだ。それなのに、当時の美子はそのことに気づけず、差し出された子安の手を払ってしまった。
「それで、その男は、あんたと結婚する気があるのかい」
「そ、そんなことわからないわよ」
再会してから一度も話していないのだと言うと、祖母は開いた口が塞がらないといった顔で、嘆息した。
「呆れた子だね。いくらあんたが美人でもね、相手が断ることだってあるんだよ」
「そんなことわかってます」
美子は恥ずかしくなって、自然と声が大きくなった。
どれ、と祖母は立ちあがった。
「私が鑑定してやろうじゃないか。そろそろ八十だけどね、まだ、目は確かだよ」
十五分後には、子安の修理工場に向かっていた。祖母の車に、美子も同乗した。後部席に並んで、運転は祖母の秘書兼運転手の金子がしていた。
「奥様、さきほど、斉木先生からお電話で、予約をいつにするかということでしたが」
「そうか。すっかり、忘れていたね。今月は忙しいから、来月にしてもらっておくれ」
「それでは、来月の上旬で調整いたします」
子安のところを訪れるという緊張から、ずっと黙っていた美子は、そのやりとりが終わったのを期に、口を開いた。
「おばあちゃん」
「なんだい」
「子安さんのことが気に入ったら、私の味方になってくれるわね」
「私の眼鏡にかなう男ならね。けど、ダメなら、あきらめるんだね。見合いの相手を断るかどうかは、あんたが決めることだけど、結婚はもう考えなきゃいけないよ。いつまでも若くはないんだ」
さっきまで美子が車を停めていたところに、祖母も車を停めさせた。慌ただしく立ち働く子安の姿がみえた。
「イケメンとは言えないね。頭もあまりよさそうじゃない」
美子は反論しようとしたが、次の言葉に遮られた。
「さあ、行っておいで」
美子にはその意味がわからなかった。
「いくら、私に見る目があると言ったって、こうしてるだけじゃね。あんたが話してごらん」
顔が、かっと熱くなるのを感じた。
「話すなんて無理よ」
「話もできないなら、あきらめるんだね。それじゃ結婚なんて無理な話だ。さあ」
祖母に尻を叩かれ、美子は車を降りた。少し歩いてからふり返ると、祖母は犬を追い払うように手を振った。
工場の入口まで来たとき、車のボンネットの裏から工具をとろうとした子安と目があった。子安はしばらく不思議そうにながめていたが、美子が入口に立ち止まったのを見て、汚れた軍手を脱ぎ捨てながら歩いてきた。
「なにか」
美子は高鳴る心臓を、やっとなだめながら言った。
「近くを通りがかったら、懐かしい顔が見えたものだから」
「会ったことが?」
「失礼じゃない。あなた、私に告白したのよ」
それでも、子安が気づかないので、美子は尖った声で言った。
「久世です」
「あ」
子安は気づいた途端、腰の後ろに手を組んで、横柄な態度を示した。
「久世のお嬢さんでしたか」
「お元気そうね」
「なんとかやってますよ」
「私、ちゃんとお礼を言えていなかったと思って。川に落ちたときに助けてもらったでしょう」
「とんでもない。お嬢さんが無事でよかったですよ」
子安の物言いには、いちいち棘がある気がした。あのとき、嫁にしてやると子安が差し出した手を、美子が払ったことをまだ怒っているのだと思った。
川に落ちて助けられたあと、美子が伸ばした手も、子安は拒絶したのだ。
美子は辛くなって、今にも泣きそうだった。涙を必死に堪えながら、勇気をふり絞り、手を差し出した。
「あのとき、出来なかった握手をしてくれる?」
子安は迷っているようだったが、ふと後ろを向くと、近くの箱に手を入れた。
ふり返った子安は、真新しい軍手をはめていた。手を伸ばしてきたが、美子の手に重ねようともしない。美子は肩を震わせながら、子安の軍手をした手を握った。
「ありがとう」
自分でも驚くほど、声が揺れていた。
子安はびっくりしたような顔で、美子を見ていた。まさか、美子が軍手をはめた手を握るとは思わなかったのかもしれない。
今にも涙が落ちそうになって、美子は踵を返した。
車に戻ると、ぽろぽろと涙を落とした。
「あの男は、私の孫をなんだと思っているんだ」
顔を赤くし、車を降りようとする祖母を、美子は必死に止めた。
「一言言ってやらなきゃ、私の気が済まないよ」
「私が悪いのよ。私が、あの人を傷つけたから」
「たとえ、なにがあったって、あんな馬鹿にした態度」
「お願いだから」
ようやく落ち着いた祖母に、美子は言った。
「私、お見合いをします」