人狼の父-5-
※残酷描写あります。
空気が裂ける。
大木が風に巻き起こり建築物が次々と倒壊した。
嵐の中央で衝突する意志は二つ。
咆哮を上げる爆裂の如き少女。
繰り出される鋭牙を寸でで躱す童女は人に非ず。
静観する少年の関心は、吸血鬼を殺さんと生者の身で立ち向かう無謀な少女に向けられていた。
「張り切ってるなー。ねぇ、タチバナさん?」
式に同意を求められるが、肝心の橘はそれどころではなかった。
見ている前で、娘だった少女が、吸血鬼を殺そうとしている。
「式くん、ちよちゃん……あの子に、一体なにがッ!?」
「ずっと不思議に思っていました。どうして、タチバナさんがあの夜、吸血鬼を助けられたのか」
ここで再び疑問に立ち返らなければならない。
なぜ、橘がモアを認識できたのか。
なぜ、人間が上位の存在たる吸血鬼の魅了にかからなかったのか。
なぜ、なぜ今、そんなことを……この場に居合わせた事情を知る者なら誰もが思った。
しかし……その解こそがこの状況を作り上げた彼の主題だった。
「タチバナさん、人狼が力に目覚める最後の原因。あなたなら、もう気付いてるんじゃありません?」
「……君は、どうして……?」
心を騙し、長く保留にしていた己の罪を、式はいとも容易く暴いてしまう。
「それとも……まだ自覚してませんか。あなたが彼女に、なにをしたのか」
侮蔑する様な式の眼に、橘はただ、たじろくしかない。
そう。少年は、男を激しく侮蔑したのだ。
「式の目を盗んで、モアを勝手に連れ出していた事はこの際です。式は咎めません。ですが、娘さんはどう感じたんでしょう。家族を裏切り怪物を救った父親が、化物と仲良く街を歩いているのを見て」
生まれ付き人狼は周囲に敏感である。野生の勘を引き継ぐ種は群れに対して公正さと潔癖を求める。
千代紙が風紀委員長としての務めを全うしようとしたのは、彼女の信念にほかならない。
父の側にいる者が人間ではない事も、きっとすぐ気付いたのだろう。
橘が犯したもうひとつの罪。
吸血鬼に身を捧げた……なんて、そこまで大それたものではなく、誰しもが一度はやってしまった経験のある些細な大罪。
「なにもしなかった。あの日、あなたは吸血鬼を助けるなんて偉大な事はせず、まっすぐ家に帰るべきだった」
あれを見よ、と式は橘に問いかける。
助けた怪物と、なにもしなかった娘が殺し合う様を見せ付ける。
「人狼が力に目覚める引き金。それは、ショックです。先輩にとって、あなたとの再会はよほど堪えたんでしょう。自分の正体を忘れてしまうほどだったんですから」
最初に変身したあの夜のことを憶えていれば、友達を喰い殺そうとした、なんて勘違いもしなかっただろうに。
「……ちよちゃんは、モアを、殺せるのか……?」
「人狼は、本来は吸血鬼とそこまで拮抗できません。せいぜい精神攻撃にかかりにくい程度。ですが、先輩は才能に恵まれています。もしかしたら、本当に『始祖』だって殺せるかも」
ただそれでも、千代紙の努力は無駄に終わる。
「どれだけ頑張ったって、死んでいるものは殺せやしないのに、それでも父親を救おうとしている。よっぽど育て方がよかったんでしょうね」
血は繋がっていないはず。なのに、どうしてこうも似るのか。
「……教えてくれ。ちよちゃんを止める方法を」
藁にも縋るとはよく言うが、今の彼女らに自分ができることは最早なにもなかった。
「知りません。ていうか、高校生相手に甘えるなんて、みっともないですよ。吸血鬼と違って、人狼はどこまでいっても『その人』なんです。あそこでタチバナさんを救おうと吸血鬼と戦っているのは誰ですか」
今回、式が橘にしてやれること。
それは彼に気付かせることだった。
「人を見た目で判断しないでください。姿が人でも、狼でも、タチバナさんのためにモアを殺そうとしているのは火原井千代紙なんです。だったら、女の子を信じてあげるのが父親でしょ。式に頼るなんで馬鹿なことしないで、さっさと叱りに行ってあげなさいよ」
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腹を裂いた。腕をもいだ。脚を捻じ切った。頭蓋を砕いた。顎を。舌を。歯を眼を鼻を。
なのに、死なない。どれだけ壊しても、殺しても。噴射した血に飛び出した臓物は逆再生のように体内へ巻き戻り血管と神経はたちまち繋ぎ合わさっていく。
橘一誠は、この不死身の生き物のなにを助けたのか。
思い出した。
路地裏で襲われている友達を助けた夜の出来事を。
憶えている。
目の前から歩いてきた彼は、自分に気付いてくれなかった。伴った吸血鬼となにか楽しそうに話し合い、笑っていた。
彼のとなりにいたのは、私ではなかった。
彼に裏切られたショックで、千代紙は友を救うことができた。
……私も、彼女と同じ化物だった。
なのに、彼に選んでもらえなかった。
「……君の」
展望台に追いつめたところで口を開いたのはモアだった。
「君の気持ちは察するが、タチバナはもうボクの所有物だ」
どこまでも冷たい身体で冷たい言葉を吐く吸血鬼。
こんな奴を助けるために私達を見捨てるなんて、あの人もおかしいよ。
自分を犠牲にするなんて間違ってるよ。
「ボクは怪物だ。タチバナや君とは違う。君の悲しみは理解できない。どういうつもりで君ではなくボクをタチバナは選んだのかその気持ちを理解できない。どうかしてるよ……だけど!」
人狼の唾液が混ざったせいでまだ十分に再生し切っていないモアは頬を噛み千切られた状態で身体を震わせた。
「そんな、どうかしてる男のおかげで、ボクはまだ、この世にいる。君のお父さんは……消えることだけを夢見て過ごしてきた童女の生きがいを否定し、全てを捨てて夢をくれた。彼が、ボクの新たな生きがいになってくれたんだ!」
死者は、生きている者には勝てない。
吸血鬼の言うことは、なにもかもが間違っている。
「君の怒りは正しい。ボクはもう死んでいるから、君の気が済むまで、付き合うよ」
ずるい。吸血鬼はずるい。
言いたいことはなんだって言える。
……あの人を、どうか解放してほしい。
その一言さえ、今の千代紙には、醜い咆哮に変換されるのに。
だが、それはお互い様だった。
……君とボクは違う……
それは、千代紙が化物ではなく人であるというモアの精いっぱいの気持ちだったのに。
怒りを受け止めるなら、死ぬまで、殺し続けよう。橘が元の世界に帰れるなら、千の夜だって吸血鬼を殺して、ころして、コロシ続けよう。
幸い、夜はまだ、はじまったばかりなのだから。
「ちよたん!!」
尖爪で顔を抉ろうと千代紙の繰り出した最後の一撃をモアに届く前に止めたのは、剣でも盾でもなく……ひとりの男の、娘に向き合おうとする勇気だった。
またしても、橘は、吸血鬼を庇う。
千代紙は唸った。橘に怒りを露わにした。
「……やっぱり、僕には無理だ。ちよたんを叱るなんて」
苦笑し、橘は弱音を吐くようにそんなことを言った。
彼の起こした行動に、千代紙だけでなく、モアも面食らうこととなる。
千代紙は、橘に抱きしめられた。
厚い毛皮からでも温もりが伝わってきた。
久しく忘れていた父の温もりだった。
「こんなことで、許してもらおうとなんて思わない。だけど、やっと解ったよ。僕は、最低な父親だったんだね……? ちよたん、ちよたんは、僕のことが嫌いでも、もし、またちよたんに逢えたら……どうしても言いたかったことがあったんだ」
やめろ。そんなこと、言わないでくれ。
橘一誠。あなたは……
「今まで、ひとりにして……ごめん」
吸血鬼を殺すとか。橘を救うとか。
千代紙が本当に求めていた願いは、もう叶っていた。
たった一言。たった一言さえあれば、彼女は満足だった。
「…………裏切り者…………」
人の姿に戻った千代紙は、橘の胸に顔を隠して呟いた。
ああ。ようやく、これで。
……泣くことができる。
もうちょっと続きます。