人狼の父-4-
※残酷描写あります。
その――中年男を彼女は知っている。
くたびれたスーツを。
剃り残しの髭が薄く目立つ間の抜けた顔を。
汗と洗剤が交ざった彼の匂いを。
「こちら、火原井さん。西高に通う式の先輩で、人狼です。火原井先輩、橘一誠さん。式の友達です」
……だが。
かつて父親だった男は、狼ではなく、吸血鬼を見ていた。
「たのんでたアイスは見つかったか、タチバナ!? 夏限定ガソガソ君ジビエ味」
アイスの入ったレジ袋を手渡されたモアはベンチに座った。
「食べ終わったらちゃんとゴミ箱に捨てるんだぞ?」
「すてたー」
「はやっ!? もう食ったのか! 高かったんだからもっと味わって食えよ!」
「おっ、モア、アイス当たってるじゃないですか…………タチバナさん?」
そんなやり取りを、千代紙は遠巻きから見つめることしかできなかった。
「君はおじさんをもーすこし労わろう! ……って、え? 火原井って……まさか火原井千代紙? 君、まさか……」
こちらへやってくる橘を前に、蛇に睨まれた蛙のように千代紙は座ったままその場で縮こまった。
太鼓のように鼓動が胸を打つ。向かい合う橘の息が今は長い鼻に当たった。
「……‟ちよたん”……?」
橘が放ったその呼び名。
何千何万と聞いてきた愛称を敏感に捉えたその瞬間、千代紙の心は噴火した。
「いでぇえええええええええ!!!??」
いくら羞恥にまみれたその名に慣れていても、ここは家庭ではない。学校の後輩それに人じゃないものまで聞いているのだ。
照れ隠しで反射的のつもりが。橘の脳天を長く裂けた口で千代紙が鈍い音を立てて締め上げていたのだった。
「この慈悲のない塩対応は……君は……やっ、ぱり……ちよたんだ!」
「あー。タチバナさん、そのへんでやめておいた方が。頭、なくなりますよ?」
「だね! ……それで、どうして君が。しかも……なんだか」
千代紙の置かれた状況を表すのが躊躇われたのか橘は言葉を詰まらせた。
「それをこれからお二人に説明します。しかし……なるほど、モアについていたのは、タチバナさんの匂いでしたか」
こちらを見ながら式がなにやら不吉なことを言ったように感じたが、今は深く考えるのを止め話を聴くとしようと千代紙は橘の横に並んだ。
「まずは……『人狼』という物語、その成り立ちから」
滔々と、かくて式折々は語り出す。
それは――連々と、延々と、今日まで受け継がれてきた神話の起源であり。
火原井千代紙の正体に至る導入。
古来、人が愛を育む相手は必ずしも人だけではなかった。その文化は今も世界各地に名残として続いていた。
そして異なる種族同士の婚姻は、世界に数多くの神話や伝説を体現させた。
太古より主従を超えた関係を築いてきた最も近くありながら遠い類の二つの種。
異種婚姻譚の代名詞。
同じく人を祖としながら吸血鬼とは両極端に在る生の象徴。
「……それが、人狼です。先輩、正確には先輩の家系には人と狼の血が流れています」
混血には、人と獣、両者の姿に成れる力がある。
だが、異種同士の婚姻が文化の列から廃れていき生物本来の法則に戻っていくと、獣の血も 徐々に力を弱めていった。
十百千年と世代を経て――一族も自分達がなにを起源とするか忘れていった。
だがそれでも、血が完全に絶えない限り力はなくならない。
適正者は己の血に眠る力を引き出し、本来の姿を取り戻す。
「変身能力は、ある日突然目覚めます。きっかけは主に興奮した時。満月を見て変身するのが最も有名なのは、月の満ち欠けに精神が作用されるからだと言われてます。あとは…………」
「そんなことより……式くん。ちよた……ちゃんは、元に戻れるのか?」
訂正する橘。千代紙が牙を見せ先ほどの感覚を思い出したからだった。
「だから、ここに吸血鬼がいるんです。本来ならあり得ない人と獣の混血。その実現は、すなわち、両方の生命力を足して持っているということです。死の象徴である吸血鬼の体液は、人狼の力を抑制する能力があるんです」
体液という式の口調に若干の艶めかしさを感じるが、と、橘は続ける。
「たしかに今のちよちゃんは人より強いのは見てて判るけど、だからって両者が拮抗するとは限らないだろう」
「どうして?」
「どうしてって……だって、狼と吸血鬼だよ……?」
吸血鬼……つまりは鬼だ。
式は、人狼は吸血鬼と両極の存在と言った。天敵ではなく。
すなわち、吸血鬼が人狼に対抗するなら、その逆の可能性も示唆できるわけで。
橘の疑問に答えたのは、その吸血鬼本人だった。
「タチバナ。君は吸血鬼と人狼の関係に疑問を感じてるだろうが、式が言ったのは本当だ。吸血鬼は人狼の天敵ではなく、互いに好敵手同士なんだ。君だって、狗と鬼が戦う有名な話を知ってるだろう? ……まあ、あれはあくまでお供だけど」
そうだ。
吸血鬼を鬼に置き換えられるなら……狼は犬になる。
そして、犬が鬼を退治する有名な昔話を、橘も知っていた。
それは、人狼は吸血鬼の好敵手に十分成り得るという証明で、これ以上のうってつけはほかにはない。
だが、だが。
その横で聴く耳を立てるだけだった当事者には、ほかに知りたいことがあった……。
あの時、母は橘とは離婚したと言った。
千代紙の実の父親である前の夫から実に二度目の離婚だった。
しかし。論理的なはずの母の言葉に千代紙は生まれて初めての疑問を感じた。
賢い母と違って、義父は、いつも気が抜けていて……隠し事や嘘がつかれるのもつくのも苦手な人間だった。
そんな彼が、突然、家族の前からなんの前触れもなく姿を消した。
数時間前の朝まで普通に話していたのに、忽然と。
そう。忽然とだ。
なのに母も、母の家族も、橘とは別れたの一点張り。原因を、そこに至った経緯を求めても、別れたの一点張り。
娘には言えないなにか事情があるのか。
それとも家族の中でただ一人現実を認めたくない理由でも。
「そんなに気になりますか。いなくなったはずのお父さんがどうしてここにいるのか」
千代紙の心意を見透かすように言ったその人物は。
「……式くん?」
「それは――ここにいる吸血鬼が、あなた達家族から彼を奪ったからですよ?」
…………え…………
式は、千代紙に橘と吸血鬼の真実を打ち明けた。
千代紙の知らない真実。
これまで橘が目を背けてきた事実。
七日前、橘が吸血鬼と出逢った経緯。父親が吸血鬼を助け、呪われるまでの回想。
どれも、すでに過ぎ去ってしまった過去の出来事だった。
「お父さんは、あなた達ではなく怪物と共に生きる道を選んだんです」
最も残酷な一言を以て式は締め括った。
千代紙が最もショックを受けるであろう一言を。
その時……千代紙はようやく思い出した。
砂嵐に埋もれた光景。
記憶の奥深くに封印したはずの、物語の後日談。
それは、夜の街を童女を連れ立って楽しそうに歩く父の背中だった。
……空気が裂ける音がした……。
人ならざるものだけが、唯一、千代紙の殺気に気付いた。
転倒する橘が瞬きの中で見た光景は、自分の突き飛ばすモアの慌てふためいた顔だった。
あぶないじゃないか――受け身を取った橘がそう言おうとした。その時。
橘を押したモアの肘から先は消失し紅を湛えた鮮血と弾けた肉片が降り注いだ。
「ごめんなさい……!!」
出血に顔を歪めたモアの繰り出したキックを腹に受けた千代紙がきゃうんと悶え橘からはるか彼方に吹き飛ぶ。
中腰になり地面を踏み砕いたモアは空高く跳躍し千代紙の後を追った。
橘の見ている前で土煙がいくつも巻き起こり朽ちたアトラクションがいくつも倒壊していく。
吸血鬼と人狼の雄叫びが大地をびりりと震わせた。