オキナグサの花が咲いた
次回で〈人魚編〉ラストです。
引き摺る足を銃槍の牙に食い千切られた。膝から熱が溶岩のように噴き出してきた反面で、重心である頭につまった脳が血を急激に失って、腐ってゆく。
爆発した足の出血点が涸れると、創の身体で唯一動いていたのは、夜風に吹かれる風だけだった。
湿度が高い夏の駆け足に崩れる髪型。
直すような素振りを感じさせない創には当然、風にまつわる一切の感触を今は感じられない。
開き切っていた創の瞳に、しばらく、なんて時間を費やさなくても景色は反射し出した。萎んでいた脳は独自に血液を生成し元の形に戻った。
再生するこの瞬間は創自身、驚くくらいに考えが冴えた。死ぬ前より健康になった身体からは力が溢れて止まらない。
二本の腕で身体を起こし、二本の足で世界を見る。
そして、その最後には――絶叫を感じる全てのモノに刻み付けた。繰り返し自分に打ち込まれた死の経験から心は無限に生まれ変われても、外側の容がニンゲンである以上は過剰に反応した。
雀に殺されるごとに変わり果てようとする魂の、最終的な形がどうなるのか。一度しかできない『死』を、すでに百――これから千度経験し、新しくなった心とは、人のそれと言っていいのか。
創はそういった分野の専門家などではなかった。
逃げる以外に考えが付かなかった。何度となく生まれ変わっても。
丘を越えられる地点まで足を運べた。百メートルもない坂を下るために、生唾一滴分の決断を呑み下せばいい。目印となる明かりは見渡す限りあるし、街に向かう途中に迷うようなことは創にはなかった。
「……空木さんは?」
追手を気にするあまり、遊園地からのここまでの道のりをふり返る。垣間見れた創に余裕はまだ十分過ぎるほど残されて街には安全に辿り着けることが、これで確定する。
式達が諦めてくれたのか――いくらなんでもその考えは奮闘した二人に対して失礼にあたる。控えた創は歩きながら、自身の考えを噛み締める時間を設けた。
疲れはあった。頭の方の混乱も収まっていなかった。下り坂に取られないようにする足先の慎重さは創の意図とは直接関係もない。本能を抑制する理性の疲労に我を忘れかけてさえいた。
「あかるいな……」
明るさを視なくても創の肌が街灯に痺れ、道の隅に身体を這わせて歩く。意識して歩数を調整しているわけでもなかった。
世界の方が拒絶して排除しようとでもするかのように、創とすれ違ってゆく。
誰も創へ目を留めない。
凶暴で忠実な雀に殺されてきた身が着ていた服は残骸も回転し飛んできた弾丸との摩擦で燃え尽きてしまったというのに。
傷一つもない身体が裸でいると街の中だと目立ち過ぎる。それを感じていたのは創くらいだった。
肩と肩がぶつかりそうになると、通行人どうしが会話しながら真ん中を創に譲った。同じ場所にいて生きている創を、世界中のニンゲンは自分達の日常から切り離しておきながら、なんの意識も注いでくれない。
それでいい。関心を持たれなくても。
彼らの在り方は創の意思に従った結果なのだから。
創を抜けていくと、後の世界は彼女の一部となっていく。『聖母』と慕われる少女のいない世界へと、創の都合よく造り変えられて、それに世界は抵抗できない。
特別であることを棄てようとしたそんな創に、彼女を追えなかった空木には打つ手がなかったのだ。『魔法使いの末裔』が呆れ果て匙をとうとう投げても、少女の増長は止まらない。
創だって止められないのに、一体誰が、人以外でいる自分を受け入れようとする神様未満の怪物を、止められるものか。
「ふぅん。それでアタシにこんな役割を押し付けたってわけ?」
路地の前で待っていた創が来ると、千代紙は不満をまず最初にぶつけた。
「ちよちゃん。ここは、なに?」
路地は創達に開かれていた。奥へ、奥へと――続くナトリウムの灯りは獲物を光でおびき寄せようとする深海魚の喉に見えてきて、ここまで来た創の足を下がらせた。
「創が表ではそう思いたくても、アタシは逆らえない。ここで謝るようなニンゲンかどうか、アタシはそれほど、火原井千代紙がどういう奴かも詳しくないし」
「ちよちゃ――」
入ってはいけないと千代紙に手は伸ばした創だった。しかし蛇となった指は五本ともとぐろを巻いて、とてもではないが引き止められなかった。
路地裏は入口から確認できても奥はかなり入り組んでいる。足元の位置は明かりが許してくれても、あれでは。
一瞬でも千代紙を見失わないようにするには、彼女を掴まえ損ねたはしたが、まだ完全に使えるニンゲン部分の手で街との境界をかいくぐるしかなかった。
越えると視えていた通りの重圧が取り憑いてくる。唾液の海にドップリと浸かるようで気持ちが悪いと薄暗闇に対して覚えた。
外側に感情を委ねるのに自然でできるニンゲンではないと、自分へ評価を下している創は初めて来るはずの場所に足を踏み入れて、突き付けられた事実を脳細胞では拒絶している。
細胞の一つひとつが、空気に触れる――それだけで思い出してしまう。
「どうして、私を待ってくれないの?」
聞こえてはいるのに声は千代紙に届かない。
「置いていかれた私は、どうすればいいの……どうするのが正解だったの!?」
亀裂の底のような絶界に境を生み出す二人の距離。ここには闇と光が交差しながら同じ瞬間に存在していた。
「ちよちゃん!」
背の高さでこうなるのは確定した未来だった。
その気になりさえすれば歩幅も歩数も稼げる創に倒れ込まれ、腰に抱き着かれた千代紙は一瞬で動けなくなる。
「――火原井千代紙のことが好きって、言わないんだ」
「……」
「まあ創には言えないよね、ここでだけは」
本心を引き出そうとする気があるのなら、千代紙はどうしてふり返ってくれない。
「創には自信ある? ――今アタシがふり返っちゃったら別人の顔になっているかもよ」
「それって、たとえば……仮名霧先生とか?」
創の空白だった部分が埋まりつつある。取り戻そうとする意志に自覚を持つのに、いよいよ問題なのは時間だけ。
「いよいよアタシもお役御免かー」
充実味も喪失の感覚も千代紙の声からは響かない。
「長くはいられなかったけど、今日まで楽しかったよ」
「私はこんなの望んでない。それじゃあ……本当にお別れみたいじゃないの」
千代紙は、そうだったのか。この『千代紙』も。
「ちよちゃん……あなたも、私を置いて満足したかった? ――私がズルってやつをしたから」
「これはどこまで行っても想像の話になっちゃうけど。夏が終わって創の前から火原井千代紙が去ったのには、きっと、そうすべき理由があったんだって、アタシは言える」
「またそうやって、私に言い訳を重ねさせようとするなんて酷いじゃない! ちよちゃんはそれでも平気かもしれない、――でも私は、それがこの世界で生きる理由にはならない!」
神の力で造り出されたこの世界では、創が望むならなんでも願うまま、手に入れることも、手放すこともできる。
熱い羨望は冷ややかな無関心と置き換えて、自分を無下に扱う住人をその世界に住まわせた。都合が悪くなれば、彼らの頭の中を造り直せばいいだけの話である。
この夏休み前はそういった世界に創の力でなったのだから。
「できることなら、アタシが創にそうなってあげるべきだったのにね」
『鉄血ガール』ともあろう少女にそう懺悔されるより早く、創は膝を突いて向かい合う顔をまともに直視できなかった。
「なーにアンタがいっちょまえに残念がってんの。アタシがこうなったのは創が千代紙をちゃんと見てくれていなかったせいじゃんか」
言い切っては取り消せないはずの反省を、創に凹まれると立ち返って不機嫌になる。
創の望んだ通りの、完璧で完全な火原井千代紙の姿とやらが、彼女には忠実に再現されている。
予想を裏切らない――神様になってもそういてくれる、たったひとりの親友だった。
「こんな出来損ないじゃなくて、今度はもっと本物に近い千代紙の制作に挑戦してみる?」
創にはそれができないと知ったうえで、儚い夢を完全に諦めてくれる言葉を掛けようとしていた。
「ありがとうちよちゃん。実は、どうするか私には決められなかったの」
「知ってるよ」
「知ってたんだ」
「アンタの手で最初に作られたんだ、年季の入りようが違う。なめんなよ」
舐めるなと言われても、可笑し過ぎるあまり創は笑い涙を流していた。
創の手から練られた千代紙は修正を加える余地などないほど完璧だった。創が願い、想像通りの行動を取る。
本物の火原井千代紙とは程遠い出来栄えだった。
期待通りの具合で止まっていては、創の想像を超えることなどできない。
創が親友を理解できた瞬間など、そんな瞬間は彼女と出逢い去られるまで一瞬たりともなかった。
「この場所に連れてこられたアタシが、創に捨てられるのはしょうがないこと……とは思わない。アンタの完璧な親友として今日まで付き合わされたアタシも、世界に産まれてきた一人としての意地がある。通させてもらうけど、いいよね?」
不用品の故障、解雇通知を言い渡された社員が最後の挨拶で嫌味を言ったり。
「さっきは、なにも感じてないって私に言ったよ?」
「ささやかな反撃を創造主サマにしようっていうのに、カッコつけた部分までいちいち憶えてんじゃないわよ」
「どうにもならないのよ。親友の言葉を、すぐ簡単に忘れさせようとするって」
満月が浮かんだあの夜、自分がなかったことにした世界で予備校講師は、傷付けるつもりはないと、無実を証明したいと訴えていた。
創に今さらになってそれを思い出させる仮名霧の食も、当人がなにかを得る通過儀礼足り得たのか。
では食べることで、彼は少女から一体、なにを得るつもりだったのだろう。彼が創を見つけた場所はあまりにも狭く、そこでの彼の立場といえば、他の場所では不潔で不健全にさえ捉えられる。
真っ白の脳味噌に、それがどんな内容でも――知識を植え付けてしまう行為とは人を殺すことと同じく罪を伴う。
物を教える立場にいた、大人だった彼に、子どもの創から知識を求める欲望は生まれはしない。
愛を囁く口で彼は創の腕を喰らった。奪われた心を、拒まれたことで取り戻そうとしたのなら、全く無駄なことをしたと創は言わざるを得ない。
だってそうではないか。
創の身体のどこにも、彼の欲するようななんとやらは、微塵もなかったのだから。
告白を拒絶された彼がそれを一番理解している。それ故の行為だった。
いずれにしろ、彼が創にした行為で判っている事実が一つある。
「こんな手じゃあ、もうマフラーは編んであげられない」
自分の意志のまま、思いのままの動きをする蛇を見ていると、別々に動けて伸び縮みするし、これの方が器用かもしれない。
「あ、だめ。大事なこと忘れてた」
「どうしたの?」
「爬虫類は冬眠する」
「そんな心配?」
千代紙に呆れられた。
そう、どの道、編みながら待っても寒くならない。冬が来ないよう世界を作り変えた張本人も、一緒になって笑った。
「もう、アンタは……心配しない事すら、しない事にしたんだ」
後悔とか。終わってしまった後の責任とか。
「だってそういうのって――前に進むためにすること。私は」
前にも後ろにも進まないことにした少女は、これから待つ。とぐろを巻き舌をちらつかせ。
路地裏に風が吹き抜ける。
たったそれだけの不意で千代紙は、千代紙だと創に錯覚させてきた物体は溶けていった。
ドロドロに道へぶちまけられた形容しがたい物体からは、鼻を裂くほどの酸性の刺激がした。
とても見るに堪えないが、現実だ。創は受け入れるしかない。
「私今日まで、こんなモノを――『火原井千代紙』だって思い込んでいたの」
あの日食べたハンバーグ。美味しいおいしいと言いながら、父の罪の証拠隠滅に創の胃袋は使われた。
ただただ、きもちわるかった。人の肉が体内で消化される感覚が。胃液に揉まれ腸管に絞られ母が、母と呼んでいた肉が血に乗って全身を巡ると思うだけで吐いた。
そうして吐き下された嘔吐物は親友の形を創に取らされ、創の痛みを受け止める役割を背負わされた。
やっと思い出した創は、地面の吐しゃ物に距離を縮め。
避けた。でないと足が汚れてしまう。
「きもちわるい」
きもちわるい。
きもちわるい。
とても、きもちわるかった。
こんな汚物と親友を、今日まで見間違えていたことに気が付かないなんて。
「無理もないか。ないよね、私、お母さんを食べちゃって……お父さんを殺しちゃったんだもんね」
作るにあたって、世界から跡形もなく消し去され、最初から存在しないことにされた父のことを創だけが憶えていつでも思い出してあげられる。
ほとんど吐いてしまったけれど、母も創の一部となって身体の中で巡っていた。
新三巫の街は神様の大好きな人が、彼女の最も望むカタチで存在する楽園と化した。
「仮名霧先生、今なら先生の気持ち――わかってあげられる気がします。私もちよちゃんが大好きだから。大好きな人にフラれたショックで、その人の腕を食べちゃったあなたの苦しみ――……うぅ~ん」
…………
…………
…………
「やっぱり駄目だ。どうしてだろう、私が人から神様になっちゃったからかな」
それともまだ人に未練を感じているからか。
「そんなことを知って、あなたはどうしたいの……三上創。あなたはただ一人について考えているだけでいい」
路地を出て、顧みる人のいない道の真ん中から、なにかが欠けた気がする少女は願わない。
だってこの声は、世界の外にいる大好きな人に、必ず届く。
「私は知ってるよ、私だけが知っている。私はあなたの、たった一人の友人。だから早く帰ってきて」
「怒らないから」




