りんご、ごりら、楽な方
天井に吊るされた画面に番号が表示された。
待合い所の長椅子に雀と並んで座り、しりとりで時間を潰していた式は膝の関節を抜くつもりで立ち上がる。
受付に向かう終始、表情を不機嫌で貫いた護衛のメイドに理由を問い質してみた。
「しりとりはお気に召しませんでした? あ、隣に座るとなかよしに見えるから」
これはやってしまった。とばかりに口を覆う式の手の甲を、油性ペンで『正』の字が書き尽くされていた。反対に受付で式に応対した職員にペンを返す雀の手は綺麗、白かった。式の態度の白々しさと同じくらい。
式はしりとりがこの街一番で強いのは、勝負して十分わかった雀だった。自慢され、銀河一どうでもよかった話、これを行動を以て証明されると酷く頭に残ってしまうものだった。
ペンを返された女性職員、片づけの最中に式にポケットにあったペンを貸した男性職員も立札を担ぎながらなんとも容量の得ない表情を雀に向けた。外側に札が立てられたガラス製の役所の入口。
隙間が設けされている――二人が見えた職員にわざわざ開けてもらった隙は、もうしばらくこのままだ。
「……本日は、どういったご用件で?」
「ここで、いいんでしたっけ……婚姻届けの提出は」
肌を過ぎる夜風が湿っぽくなると陽が落ちるのにもずいぶんと余裕がある。
「……。あっすいません。聞いてませんでした」
窓の外から戻ってきた雀の視線に式。喩えるならお菓子を親に横取りされた子どものように泣き縋ってきて、雀にはたいへん鬱陶しい。
「式家に伝わる、門外不出の役所ギャグが」
そうか? ――鳩の糞が頭に落ちた音をくらい面白くなく害悪に聞こえた雀だった。
「わ、私は坊ちゃんのギャグ、とても面白かったですっ!」
「はぁ。こういうのは紙をトイレに流すと思って聞いた方がせめて人生の励みになります。律儀に相手すると尺が無駄になります。この先だって長いんですから」
役所の待合い所で番号を呼ばれず、暇を持て余す……『ごっこ』しかり。
こうやって番号が呼ばれる経験がない人生というのも、寂しいらしい。
「カップル、とまでいかずとも。なかよしに見えたと式は心から信じています」
手を合わせてまで心にもないことを。周囲からどう見られたいか、なんて雀以上に式にはどうでもいい。
営業時間外の役所には職員しかいない、それも全員が式の名に協力する不届き者だった。行政の権限で一般人への開示が禁じられているそのどんな情報もオープンされ、罪を犯す協力者へは感謝を五文字で済ますだけで、平気平然と読み漁る。これが彼らと式の関係性。
「坊ちゃん、わかりましたから。わかりましたから、どうか冷静に」
車から降りてから口数が多かった。わざと露骨に雀を揶揄いたがっている。
護衛として雀は常に冷静だ。だから主人の望む反応は返せないし、式は別の手段で落ち着くほかにない。
「謝りませんよ私は」
「あららぁ。さて式の苦労は無駄だったとわかったことですし、さっさと本題に進むとしましょう」
役所に保管されていた書類を、職員は式に献上した。
三上創に関する情報に目を通す。別の文書に移す必要がないくらい、脳細胞の一片に一文字一文字、句読点一つにつきさえ細胞一個に転写した式は、窓の外に目をやった。
「考えてみればありませんでしたね、冷静になってる暇なんて、式達には」
陽は沈み。夜の帳、ここに完全に下り。
どれだけ遅く、遅いと達観しようともその実。
状況は絶えず移り、速度は『魔法使いの末裔』が認識するよりずっと速かったのだ。
爆発音に建物全体が傾いた。物体であれニンゲンであれ重力の影響を受ける対象はその全てが均衡を崩した。
揺れ戻しがきた躯体に庇った主と共に呑まれた雀が這っていると、透過した外の景色に地面が波を打っていた。元から灰色だった床に炎の影が加わっている。
「坊ちゃん、お怪我は」
熱を覚えたが、所詮は錯覚だ。本来の務めを雀は優先した。
「坊ちゃん……?」
雀の手元に残像を置いていった主の足音。これが役所の入口で止まったということは。
「いた! ミカミソウの協力者だな!」
出てきた矢継ぎ早に二人を指差した。道化師の恰好で街を昼夜もなく出歩ける性格をしているだけあって、巫山戯る態度にも本人は美学を持っているようだ。
「雀さんの報告通り、報告以上に素敵な人。あなたですね、街に現れたというピエロは」
人差し指と中指を持ってきた目元をパチン。ウインクのまま手を両方とも開かせる。
「六七点。褒めは行動として加点できるけれど、高得点を狙うならもっと尽くさなくちゃ、苦悩しなくちゃ。『素敵』なんて吐き気を催すくらい空っぽな言葉は駄目だ。減点だ。君というニンゲンはどうやら頭に致命的な欠陥でもあって、正しく認識できないらしい」
脱いだ帽子を胸に当て腰のくびれ具合を式達に見せた。
「ミユキは美しいってこの世界の真実を、ちゃんと、きちんと認めて」
「自分に箍をはめないご性格をしているようですねぇ。報告書にもそう追記しておくとしましょう。そんな正直なあなたに式は問います」
役所の駐車場。茜に盛る車からは燃料の焦げるのは当然のこと、人の焦げるにおいもした。
嗅いだことのある雀にはわかる。自分の顔を焼いた時も、目の前で父親が焼かれた時も同じにおいがした。食用のそれより肉に脂分がない分、較べると淡泊なのだ。
「あなたが殺した式の部下の名前、聴く気はありませんか?」
胸元でくるくる回した帽子を被ったピエロ。答えるのに値しない質問にも上機嫌に答えた。
「ワルもんの名前はミユキには憶えられませ~ん!」
頭の上に花を咲かせるジェスチャーをした道化師。セーラー服を着た男子高校生。
「お近づきの証にまずは名前から、と思っていたんですか。どうします雀さん、困りましたね。交渉の機会も与えてくれないみたいですよ?」
揃いも揃って人の話という物に興味がない。
どうするかは主として仕えさせている式の裁量権で、一介のメイドは式の許された範囲内でしか行動ができない以上、命令がなければ待機するしかなかった。
「『魔法使い』を肩書きに名乗ろうとする方に、禄なのはいらっしゃいませんね」
式が最初で、落胆は今に始まったことではなかった雀は自分、そして四多良達の名前でピエロと交渉する意思はない。
どうせこれの頭には善と悪の二種の分類項目しかない。自分達が戻るまで待機する、これで悪と決めつけられ殺されたというのなら、いっそ、そんな展開を容認した世界には忘れてもらった方がウェルダンにされた彼らの救いになる。
「禄なのはいない。式もつくづくそう思います」
苦笑を潰したような表情をした式はピエロに提案した。
「ここにはまだたくさんの方が働いています。場所を変えませんか?」
「交渉する気はミユキにはない。キミと、それとキミはミユキの正義で死んで、その後はミカミソウも死ぬ。忘れたふりをしてミユキを油断させているの? ――恐怖のあまり本当に忘れちゃった?」
式は言う。片側を二人分開け、踵を役所の敷地外に返した実行に。
「ありがとうございます。歩きながらになってすいませんね」
ピエロの横についた式と雀。疑う挙動は目や口の端にも一切表れず、三人は歩いているうちに駐車場を出て曲がった歩道を進み出した。
死を宣告された式に行く当てなんて思い浮かばなかった。少人数に配慮しようと、自分がこの街のどこで死のうと他人に迷惑は掛かってしまう。
「消防には連絡しました」
通報を済ませた雀は端末を破壊すると道端に捨てた。
「これで四多良さん達のお葬式が開けますね」
追跡も盗聴も、まず創に居場所を伝える手段を失い気楽になった式達の言葉に偽りはない。偽る必要がそもそもない。
途端に舌を失くしたように静かに付いてきたピエロに式は浮ついたように尋ねた。
「よくわかりましたね、式達の居場所が」
式に解を開示する『イイもんの魔法使い』。
たまに大通りを行き交う車を見送っては、かと思えば通行人を視線で追って怪訝な表情を返されもしていた。
「世界がミユキに伝えるんだ。ワルもんがどこにいて、なにをしているのか」
上の空とも違う。唇の動きにも弾力がある――取り憑かれたというには他者の認識が介在するのを認めない証拠の顕れだ。
純粋な本能に知性が肉づけされた、といった具合だった。
世界。宇宙。次元。理。解釈や認知度の個人レベルの違いでどう好きに表現してもいい。とにかく、この道化師にはわかってしまうのだ。
その多表現的だがたった一つしかない概念の善悪が。
「時に」
「これから殺されるって時に、殺す相手とよくそうやって何回も、話し掛けようと思えるね」
半眼の白塗りに、式は、さほど呆れることだとは自分は思わない。落ちていた骨を見つけた犬のようにふり向いた式に雀のため息は聞こえなかった。
「人生の最後の瞬間に出逢った人なんです。殺される、つまり式の最後はあなた一人だけが見ることになるんですし。たくさんお話しておかないと。なんだか損した気分になるんです」
スキップで自分の行く末を跳ねた式。その一方、後ろに回った実行は地面を足の裏で掴むように立ち止まった。
「おや。おやおや? どうしたんです、そんなむずかしい顔をして」
式にふり返られた実行は言う。
「不快。実に不愉快、これはなんの冗談だ……そんなんでミユキを揶揄えているつもりにでもなっているのかい――」
――と口では語りつつも。正義を他者に強制する道化師は、一介の無力な高校生に手も足も出なかった。
式の行動は悪ではない。出た判定はそうなった。
「正義とはなにか。悪とはなんなのか、式もたまに考えることがあります。ニンゲンって、単純な二元論に自他を当てはめて思考するのが好きな生き物なんですよ。答えが明確に出されて、自分が手も足も出なくなるのが怖いから」
答えなんて出ないのに。絶対に。
「……こ、」
有言実行は断言する。自分の言葉に嘘も偽りもない。
答えは出る。この世には善と悪が明確に存在し、善はその存在と実行する者がいれば保障される。悪は如何なる理由があろうと排除しなければ世界は毒されてしまう。
三上創。あれは悪だ、理を騙す。狂わせる。改変する。変転させる。
あれの影響で世界は、こんなにも歪に結び直され、作り変えられてしまった。
「あなたを勘違いさせる気は式にありません。三上先輩は確かに危険な存在です。世界も、そこに生きる生物もあの人という全く予想だにしていなかったモノの出現の影響を受け過ぎました」
まだ本人に自覚がないのが幸いだ。羽化する前に、身動きの取れない蛹の状態でいる間に決定打を講じないと。
「ミユキは仲間を殺した。キミ達のことも殺す。それを容認すると」
役所に急行する消防車のサイレン。これに雀のため息を吐き捨てた顔が浮かび上がった。
殺すと宣言された相手の記憶に会話を通じて刻みつけた。悪であるから車から逃げ出せず死んだ仲間を弔うと未来を語った。
式の行動はどれも、世界の判定では善だった。だから道化師はなにもできない。
死を全く恐れていない頭をした式の本質は、潔白であると証明されてしまった。
「坊ちゃん、結局勘違いさせていますよ」
北極海で難波した漁船の上にでもいるように雀は立ち眩んだ。
「世界のどこにいても悪の居場所を把握させられ、勝手に殺す。逆にどんなに認めたくなくても善は自分の手では止められない」
帽子を取れば耳が出て、本人によく聞こえるだろう。
「見た目を騙している、こんな化粧まで、帽子を深く被って。そうまでしてないと外も出歩けない。こんな酷いことを言う式も……悪ですか?」
大切な帽子を取り返した実行は腰から倒れた。
「お、おまえに、ミユキのなにがわかるんだよ――!」
この世界から善悪を強制させられてきた道化師も、三上創の影響を受け、式と邂逅した。
これが高揚だと、頭の一部が教えてくる。
「『こんな生態しかできなかった』……わかりますとも、あなたの気持ち」
実在するか確かめられなかった同類に会えて嬉しい。だがこの身体は街の秩序を乱す機関である以上。
「あなたには、あなたにだけはわかってくれますよね。式が今どんな気持ちであなたの顔を見ているか」
「な、なんなんだよ――おまえぇえ!?」
道の端に落ちていた石を投げつけられた式。裂けた額から血を流し笑ってみせた。
「やっと憶えていただきそうなので、僭越ながらご紹介申し上げます。式折々坊ちゃん。『魔法使いの末裔』です」
もし同類に遭遇したらこう紹介するよう、あらかじめ言われていた雀は簡潔に答えた。
「シキ、だと……シキ――オリオリ……?」
「おや? ひょっとして原型のシキをご存じでしたか。まあ式は彼、もしくは彼女に魔法使いとしての記憶を転写されたので全部知っているんですけどね。でも、これは」
原型の話は式の当主である祖母が教えてくれた。現存した歴史を伝聞できるのは今や共に暮らしたという彼女くらいだろう。
「シキオリオリ、シキ……シキ!!」
「そう興奮しないで。名前はもういいからもっと話を聴かせて――あれ」
「奴なら逃げましたよ」
メイドの声がしたがふり返らず、有言実行は街を逃げ続けた。
口が喉から出た血で真っ赤で息が続かない。
式折々の名を迂闊に出したせいだった。
「生きて、いたのか……!?」
姿形。性別。そして年齢も。百年前のあれの見る影もない。だが目を見合わせてわかった。
奴はあの少年の目の中で生きて――こっちを見た。
どうやって生き返った。なぜ本来の設計が根本から覆っている。
「なんで、どうして、どうやって――魔法使いの力を、すてたんだ……!」
どちらにしろ『イイもんの魔法使い』は悪に背を向け、逃げ出した。
死んだはずの魔法使いが、姿と形を変えてこの街で生きている。悪以外のなにものでもないのに。なにもできなかった。
自己が揺らぎながらも、実行は遊園地に急いだ。
名誉を挽回し存在を維持するには、確実な方を選ぶしかないのだから。
三上創の方が、あの怪物より遥かに死んでもらいやすかった。




