|価値《無価値》
世間にはいろいろな人がいるものだ。
特に、相手と顔を突き合わせなければ成立しないような仕事をしていると身に沁みる。客商売の醍醐味であり、欠陥といえばこれに尽きるとも、この仕事に長く置いた身であろうと、いやそうだからこそ考えは凝り固まってしまう。
だって、そうではないか。
仕事中の一服に火を点け、天井へ煙草がくゆるのを眺めていると、店主はいつものように考え出す。店内は喫煙自由だ。換気設備なんて、代々続く老舗店にそんな気の利いた気遣いはなかった。親の代から引き継ぎ、店そのものに雇われているも同然な店主だった。
「副流煙って、ご存じです?」
「ああ知ってるよ」
煙草を吸うより、吸った方が吐いた煙の方が有害という――禁煙者の間でまことしやかに囁かれる都市伝説だ。
「よければ、いい場所紹介しますよ。お見掛けしたところ店主さん、まだ若そうではないですか。長生きも商売の秘訣では?」
禁煙のサポートを謳った通信教室のカタログだった。そこはレジだ、同じ紙でも置くなら紙幣にしな、と。
ここでは文字通り一銭の価値もない紙に、煙草から灰を落とす。
突きつけてきた顔には煙を吹き掛けた。
「誰彼構わず、逢った寿命を延ばせって、近頃の学校じゃあ教えるのかい? あんな場所産まれてから行ったことねえから俺にはわかんねぇけどよ。あいにくだがな、俺の抱負はここ十年、早死にで通してんだ。誰が、どんな方法で稼いだかも知れないカネで生きるなんざまっぴらだ。だがカネは食えても腹は膨れねえし、俺のこのきったねえ肉を生かしてもくれねぇ。つまりだ、なにが言いたいかというと」
光沢紙が落ちた灰で汚れた。
どんなに綺麗で輝いた、完璧な姿で生まれても、外からのきっかけ次第でいとも容易く汚れがつく。こんな場所で産まれてこなければ、別の世界の自分を想像するのが好きなニンゲンは多いだろう。
だがそれは趣味の話。店主は今、仕事中だった。
「用がないんだったらとっとと失せな」
改めて、新鮮な害毒を吹き掛けた。
「もう少しいます。用を作って」
雨合羽のフードの奥でくすんだ眼を動かし、少年はブラブラと店内の商品を物色し始めた。追い出そうと椅子から腰を動かしたが、陳列した商品をたまに手に取って、料金札に目を通していたので、たとえそれが演技で買う気がなかったとしても、店主は実力行使に乗り出せなくなった。
「治療の類は別の棚だよ。二つ三つ見繕ってこようか」
「ええ? どうしたんですか急に。累、別にどこも悪くないですって」
商品を持つ方も否定を表す振った反対側も、手は包帯で巻かれて笑った顔にも布の皺が目立った。まさか全身、レインコートの下はと店主は口に出さない。
「なんでもいいが、うっかり壊すなよ。言う必要はないが売り物なんだ」
店の口であり耳、手足である男に重要なのは商品のこと。それだけ。あれだけ健康にまつわる高説を垂れた少年が身体から溶け出した液やら汁も替えず、雨も降っていないのに頭まで合羽を羽織ってうろつこうが、客ならどんな格好でも口出しはしない。思うだけだ。
ギラギラと暑い日によくもあんな恰好。あの恰好のせいで身体が溶けているのではないか。
とは思っても、薄気味悪い客には慣れていた。今日のように――見た目で判りやすいと警戒する必要もない。
一目見ても判断できない、その方が怪しい。二目と見られない姿で来られても困った。
だから丁度いい、あれくらいが。
「たくさん並んでいますね。これなんか」
少年が興味を惹かれたのは、虫の標本だった。なんでもアマゾンの奥地で発見された新種の甲虫で、大顎を砕いて煎じ飲めば両性の資質を得られる。
「もう百年はそこにあるから、一見さんサービスで半額にしとくよ」
「加工に無駄がない、これだけの技術を持った職人がいるなんて。本当に乾燥標本か」
売れ残りのどこを見惚れたか判りかねる。が、あの様子。買う気で手に取ったわけではないようだ。近くの類似品もこれから売れる見込みもない。
「在庫処分、曽祖父さんからずっとサボりっぱなしだし。そろそろ行動に移すか」
「処分――処分しちゃうんですか?」
「そりゃそうだろ、売れる見込みがないんだから」
「もったいないです……仕入れ先に、返品とかできないんですか」
店から仕入先に連絡も、百年も経ってしまえば電話帳から引き当てても繋がらなかった。
「世界の損失……」
「大袈裟に語るのが好きな口だなぁ。そこまで言うならお前が買えばいいじゃないか。さっきも言ったろ安くしとくって」
ヴィンテージとは聞こえがいい襤褸になるまでレインコートを着倒すことで、新しい服を買う余裕がないのを誤魔化すは、洒落に関心がない性格といえばそれで済める。だが場合によって障害、後遺症、命に関わる応急用の資材にまで手が回ってないとなれば、素人の目にも見て涙が浮かぶ懐事情だと判ってしまう。
とはいえ。繰り返しになるが、金を持っていれば、この少年は客として、店にいる権利を店主として保障しなければならなかった。
五割で厳しいというならもう半額、それでもなお商品を持つ手元が重いなら半額の半額を十分の一にしたってよかった。どのみちあの標本、というか二束三文で売れていい商品しか扱えない極貧商店だ。
「……いや」
「悩んだ挙句、買うの、やめちまうのか」
商品を戻すだけでは飽き足らず、ほかと不揃いになった箇所を揃えた。自分が手に取った痕跡を消すように。
「累に、その資格はもうないですから」
稀有な奴だと店主は煙草を灰皿の上で潰して思った。
客である資格、それをわざわざ断って、放棄するなんて。
「ほぉ、じゃあ客でなくなったお前は、次は『なに』になるってんだ。聴かせてもらいたいね?」
踏み込んだような質問はただの興味本位。
少年は外套のフードを脱いだ。曝せるような顔がある――相手へ敬意を慮ろうとする行為だ。彼にそう教育した礼儀作法に細かい人物がいたのか。
出自、それとも育った環境がいいところだったのか。
「❝見かけよらず❞――おいおい、あのボンの口癖じゃああるまいし」
どうだろう。これを『礼儀ができている』と本人に言ってやっていいものか。
店主の見立てた通りだった。
少年は顔も包帯でぐるぐる巻き。周囲を窺うための灰の眼、意志思考を手っ取り早く伝えられる口しか見えなかった。
こんな所をアレが見たら小難しく、それでいて子気味よく笑えるよう洒落を利かせて揶揄ってくる。
「どこに耳があるかもわからん、アレの話題はここまでにしとくのが懸命か」
「?」
「いやどうして、お前と性質が同類かもしれん奴を思い浮かべただけだ。それで?」
「預けていた品を、本日は引き取りに来ました」
品? 預けていただって? ――店主は訊き返した。
動揺。それは人から人へ伝播する。身に覚えのない物事を突然前にして慌てていれば、それを見た方まで落ち着かないと意思を表示させる。
同様に自分にもまた、まるで覚えがない場合ならなるだろう。
「半年前、ここに男が来ました」
特徴を言われても店主は憶えがいい方ではない。姓名なんてそれこそもってのほか。
少年はその『訪れた男』とやらについて、それ以上は一言も語らなかった。語らず騒がず、これを最後まで徹底する。
動揺する相手を見ても退かないもう一つの場合。
言葉より確実に痕跡が残るもの。残すため書かれた紛れもない、論より証拠とは言ったもので――カウンターに広げた証書、蚯蚓が這ったようなとても読めない、それをコンプレックスに思っていた店主は面から狼狽をやや潜め、冷たくなった肌から汗をかいた。
「男はこちらに、品を売りにきましたね」
少年は知っていたのだ。店主が自分で書いて渡した譲渡に関する契約書、それが少年のレインコートから出てくれば慌てる。
「棚はひとしきり探しましたが。品はどちらに」
「なくて当然だ」
買いが決まっている商品は、店主と店のレジカウンターが門番になっている奥の倉庫に厳重な護りで保管されていた。
売り手と買い手の橋渡し役で仲介料を取っている。ほかにベタベタ触られ、壊されるような保管方法だと、ただでさえ古くなった看板に傷がつく。
「それで。奴はどうした。なんで直接来ない」
❝奴❞と区別した店主は別に売り手を思い出したわけではなかった。
客以外に、仲介を頼みに来る連中の素性は一つと決まっていた。実は店主とて結んだ契約を重くなんて微塵も感じていない。一見堅い、だが紙切れ一枚だ。一方さえ燃やせば自分との繋がりなんて簡単に切れると売り手達は思っている。
ほとほと、嫌な商売だった。万が一の際は火の粉が降りかからないよう、簡単に縁を切れる。
出所も自力では明かすことはできず、盗まれて取り返そうとする輩や横取りを窺う連中、買い手と売り手との間に起こった不都合は、店主の不手際と売り手は言い逃れて、買い手の怒りの矛先は店に向く。
「あれを盗まれた持ち主に、取り返してくれと依頼されました。契約書を見せると、あなたも返しやすくなると、親切を利かせました」
「そう、そうか。だったら感謝しないと。ちょいと待ってな」
わずか四十秒。
倉庫から商品を取りに、戻ってくるのには十分な時間。
「ほらよ。どうした、持ってかねえのか」
古く端々に黴が生え、それを乾燥させ削った跡がある木箱。
「……信用し過ぎでは?」
「誰もお前みたいな怪しい奴信用しないね」
信じたのは本物の契約書。それをどこで、どうやって手に入れて持ってきたかは店主の興味の外だった。店の外でなにが起ころうが知ったことではない。
「でも……」
堂々とした少年はいざ目的を達そうとすると俯いて目を泳がせていた。
最初は焦らそうと店主は思った。彼もだれかとの契約で動いてきたなら、譲渡書のほかに手は考えていたかもしれない。
「お前、最初からうちの商品を買う気なんざ、なかっただろう」
だから意趣返しに呆気なく返してやれば、少しは動揺する顔が拝めると。
「買う目的で来てないのに長々居座りやがって」
本当に、本当に申し訳なさそうに顔を上げた少年は言った。
「……プレゼント」
「ああ?」
「プレゼントをしたいんです。あの人のお土産に、いいもの、ないかなって」
「観光地か免税店に見えたんなら眼下に行くことをお勧めするよ。お前みたいな奴にも、プレゼントで悩む大切な人がいるのか」
商売で人の目利きがいる立場ではいい勉強になった。
笑った。揶揄った。
包帯でも見て取れた表情は、何年も生きて時間を無駄にしてきた老人のような。
だがそれ以外。特に目を伏せた時の少年は年相応。
誰かを思い浮かべでもしない限り、絶対にできない表情だった。
そしてこれ、この恥ずかしく苦笑するのは見た感じは。
「いえ。累、無一文なんです」
こうして『魔法使いの弟子』と最後に名乗った少年は、売り手に店主、待ち遠しにしていた買い手や元の持ち主登場人物全員を、一枚の紙切れで欺いて商品を掠め取った。
少々、本来の計画からずれたとはいえ、契約書は燃やした。
商品を掠め取られ激昂した買い手が仲介を外部に頼ったことも踏まえ売り手を制裁、これで売り手の男とは名実とも関係がなくなり、あとは伝手を頼り、盗まれた商品を自分の元に戻すだけ。
危険を冒し『御神体』の持ち主まで探った。だがあの、最後に笑って消えた少年はやはり嘘をついており、連中とはなんの繋がりもなく。
『魔法使いの弟子』に心当たりがある。
これに頼ると苦労もなにもかも水の泡になる。あの希少は一時眺めるに終わり、彼が支配する街に渡ったのだとしたら、自分のものには永遠にならない。
それを踏まえて、絶望の中の最後の希望のつもりで、アレがどれだけ貴重で、自分がいかに蒐集家としての誇りを懸けて手に入れようとしたか。
『ああ。それはお気の毒でした。でもあれ』
只ではない電話をわざわざかけて、長時間に説明した店主に、あの『魔法使いの末裔』を自称する少年は言った。
「なんの価値もないゴミですよ」
❝価値❞。これで一つのタイトルになっています。




