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今夜は最後の夕食

 空木後輩との思いがけない蜜月を過ごす羽目となった創は、あろうことか、腹を掻き(むし)る痛みで、疲れ果てて眠ってしまったことに気がついた。


 身体のむくみが落ち着かない。関節の末端は高揚するように火照り、生温かい口には唾液が満ちて顎に垂れ落ちた。


 窓に手を伸ばしてみる。するとどうだろう、夏夜に灰を降らせる月光を前にした創のへその皮を剥いた爪に取り憑いていた血が、逃げ切りやすくなるためと自らを千切(ちぎ)り小さくなって、指の奥に隠れていったではないか。


 これ以上血が無駄になる前に、創は指を舐め身体に還した。


「これが、臆病者の味」


 綺麗な月は、残酷な世界しか映してくれない。底意地が悪いことに、自分の美しさの下に広がるのは醜く滑稽な存在だけと周囲から自信を奪うことに快感を覚えている。月だって、太陽の威を借りなければ、色もないただの影だというのに。


 見下げていては、鏡の前で盲目となるのと変わらない。


 真の世界を知るのは、辺獄から、自分の行けない空を見上げる憐れな魂だけ。声の届かない場所ですぐに無くなってしまうから、真実を誰にも話せない。平和な世界は今日も静かだった。


 一度は地の底に落ちた創が光の及ぶ場所まで這い上がった。誰の偉業でもない、命を救ったのは、奇跡だった。しかしどうだ、どこを見ても、当たり前に見えていた光景は、地獄で舐めた泥にまみれていた。寝ても覚めても、あの味がしてたまらない。


 闇の地獄で皆、平然と笑って過ごしている。


 些細な幸福を糧にした闇色の泥は、平和な暮らしになんの疑問も抱かない一人ひとりが、吐き出しているのだ。


「あれ……いいにおいがする」


 本来なら両親の怒鳴り合う声が聞こえてくる外に、この時の創は耳ではなく、鼻をひくつかせた。それはなんとも久しぶりに嗅いだ懐かしい香り。胸に据えた手が腹にかけてゆっくり、身体を温めるよう。


「お母さん?」


 正直なにかを腹に入れる気分では創はなかった。しかし熟睡から身体を起こした生理現象は、夕飯を用意させ待っておいた母への罪悪感以前に、(なぶ)った創を無理やり歩かせた。


「創ちゃん、やっと起きたのかい?」


 てっきりリビングでは両親が自分を待ちくたびれていると思っていた創は、意表を突かれた事実を誤魔化すように質問を被せてしまう。


「お父さん?」

「……ああ、創ちゃん起きたのか。丁度いい、夕飯の準備がもうすぐできるから、座って待っていなさい」


 創が感じた疑問への答えにはなっていなかった。どころか断言されたことでより混乱してくる。


 ただ向こうも、まさか背後に気配が迫っているとは予期していなかったのだろう。創が声を掛けふり返らせる前から確認した挙動の不審さは、他人の背中を見てしまったとばかり。


 父の姿が引っ込んだキッチンから陽気な鼻歌が聞こえてきた。ぐつぐつと鍋が蓋を押し上げるのと。包丁で捌かれるのは魚か、肉か。刃を洗い流す手間を省略して脇のキャベツを手頃な大きさに刻むと、先に拵えておいた具材とまとめてチョッパーの容器に投入。


 鎌をかき混ぜる父の後ろ姿は、息を切らせ、力強くもどこかぎこちなかった。


「鍋が煮えているよ」

「お、どれどれ」


 創に父は鍋に掛けた火を消すと、小皿に掬った出汁の出来栄えを診てみた。


「よし、いい感じにできた! ハンバーグはあとにして、先に食べよう」


 鎌を蓋ごと取り払ったみじん切り器から具材をボウルに移し替え、野菜室に一時保管。


 こちらも、いい具合に材料がかき混ぜられ、ぐちゃぐちゃになっていた。


「さあさ、創ちゃんもお腹が空いただろう」


 一人座る創の前、殺風景なテーブルに運ばれてきたスープと生食品、ほんのり酢の香りがする米は炊飯器から取り出した炊き立てを、時間を設け冷ました後でしゃもじを刺したのだろう。


「どうしたの。食べないのかい、食欲がないとか」


 いや、むしろ親を差し置いて食べる行為を正当化しそうな見た目と香りに食欲をそそられた。前にした父にも当然ばれていよう。ただ。


 こんなにも美味しそうな食べ物は、生まれて初めてだった。食べるのが楽しみで、心が騒いで堪らない。


 あれだけ握ってきたはずのしゃもじを持つ手が、鼓動に合わせて震えている。


 軽く火を通したのだろう焦げの交じる赤身の肉と米を焼き海苔に包み、噛み締める。パリっとした海苔の破れる食感を、とろけるような舌触りが追ってくる。酢飯との相性ときたら喉を詰まらせるほどで、飲み込んでしまうのがもったいなかった。


 一滴の肉汁、米粒の一欠片まで堪能した創の空いた手は、自然と次なる味を求め器に手を伸ばした。


 父はスープにも、手巻き寿司と同じ肉を使った。二つとない味は野菜ベースの出汁の面を金に染めてまでおり、ごろっとした芋や人参がスープと共に喉元を過ぎるごとに、創の空腹は味わったばかりの感動を呼び起こさせ、忘れさせないよう何度も食べさせた。


「そういえば……まあいいか」


 いただきますを、すっかり言い忘れていた。


「知り合いにね、年代ものの品を売ってくれたんだ。ここじゃあ出回らない高級食材――味はどうかな」

「こんなの食べたことない。この歯ごたえ……ひょっとして、魚とお肉?」

「正解、でも貰い物は魚の方だけ。肉はお父さんが自力で用意したけど、こっちもかなりのおすすめだ。創ちゃんはどちらが気に入った?」

「お肉の方かな……。初めて食べる味だけど、世界で一番好き」


 顔に出すのを我慢しても、エプロンの袖を握る拳を隠せないようでは駄目だった。上機嫌なのは結構。だが創には父がどうにも怪しかった。


「創ちゃんの食べっぷりが、まさかこれほどとはね。ハンバーグを寝かせたのは失態だったな」


 自分の夕飯が全て娘に食い尽くされる前に、油を引いたフライパンに火を通す。


 冷蔵庫に保存した具材をこねる。空気を抜く手際も客観的には見事といえた。しかし、やはりどうも父に創は釈然とできない。


 三上家に、エプロンは一着しかなかった。取り揃えた食材、それが創の見たこともない上等な品々でも、母のエプロンを着ただけの父がひとりで、食卓をここまで鮮やかに飾ったとはどうしても。


「お父さんが夕飯を作ってくれたなんて、初めてだよね。こんなに上手だとは。どこで習ったの?」


 生意気な言葉を並べ立て親から情報を引き出そうと試みる姑息さ。食事の席の前面に卑屈な感受性に創自身も小言を言いたくなるが、内心では理解してほしかった。


「なるほど。どうりでお父さんは料理に手をつけようとするのを、創ちゃんに躊躇われたわけだ。お父さんだって、やる時はやるんだ」


 とは得意に豪語してみせたが、台所の立ち位置からお母さんの見よう見真似だったと父は自白した。


「最後まで、創ちゃんに恰好をつけていたかった。実を言うとね、今日は、お母さんにも料理を手伝ってもらったんだよ。結局、お母さん抜きでは、創ちゃんに味では喜んでもらえなかった」


 自省なんて殊勝な心は似合わないのに、娘の前で父は子煩悩に表情を崩した。

 親として誇り高い自覚を家族に誇示する厳格な性格の落ちた父は、なんとも頼りない面構えをしていた。


「創ちゃんに元気になってほしくて頑張ったけど、やってみると、料理ってたのしいなぁ!」

「……お父さん」


 おなかすいた!


「待ってて、あともうちょっとで焼き上がる。これも創ちゃん、満足してくれるぞ。せっかく退院したんだ。どんどん精をつけて、元気にならないとね」


 染み出た肉汁は鉄板の上で蒸発し、飴色の蒸気はこれまた格別。今夜の料理でも絶品の完成が待ち遠しかった。最後の一品の調理に父はすっかりご機嫌だった。


 それも創の幸福度には、劣る。


 なんだか――ずいぶんと待たされた。


「お父さんとお母さん、もう、喧嘩しないんだね」


 この幸せだけは、この高揚感を創は、他の誰との共感を拒絶した。千代紙(ちよがみ)にだって判ってもらって欲しくはなかった。


 美味しい食べ物は世界に食べ切れないくらい溢れているかもしれないが、掴む箸がなければ目の前にあってもなにもできない。しかし腕が一本なくなっても、箸は持てる。


 一介の高校生の不幸に簡単に壊れるような、家庭はやわじゃない。


 父の言う通り、三上創は悲しい事件を克服した。諦めて不幸に身を沈めるなんて人生、幾らなんでももったいない。


「それにしてもお母さん、遅いね。せっかくお父さんが料理を作ってくれたのに」


 ハンバーグが焼けるまでまだ余暇があるうち、創はリビングから電話を掛けようとした。


「もう焼けるから座っていて。いくらお腹が空いていてもへんなことを言うのはやめてくれよ創ちゃん。お母さんは」

「あっ少し待って。繋がっている」


 携帯は所有者である母の側で鳴れども、コールを取る意思は薄い。だが創の様子に不安を煽られた父の忠言も冷静に考えれば尤もである。事件以降、創に対する価値観の違いから諍いを起こし合っている者同士が、果たして料理を教え教えられる関係になるだろうか。 


 意見は違えど、創の身を案じる気持ちを両親は共有している。急用があるから母は電話に出られないのを、台所の番を任した父に話さなかったのはあまりに支離滅裂。父も母の要求に応じる口実を失う。


 台所では父の携帯が鳴っていた。用事の最中に電話を寄越したのを母が娘に代わって父に抗議したのだろうか。そうなら創を止められなかった父を母が結果的に責める。やっと修復した両親の関係が娘の勇み足で、またも亀裂が入る。


 電話を切ろうとした創。しかし手を、寸での所で止めてしまった。


 創の行動は、正しかったのだ。習慣がそれを裏打ちした。


 ――確かに、創の掛けた電話は、母の携帯に繋がった。


 集中を反らされるので、創は受話器を電話に戻してから父に聞いた。


「ねえ、お父さんって、携帯を預けられるくらい……お母さんとなかよしだったっけ?」


 家事も禄にしてこず、家庭を押しつけた妻には娘の教育方針を理由に憂さを晴らしてきた。夫婦として成立していようと、個人情報の詰まった携帯を託すような関係は、創が生まれる前にはあったかもしれないが、とうに破綻していたのは確実だった。


「そんな顔をするなんて悲しいじゃない! お父さんだって一生懸命頑張ったんだよ。創ちゃんだって、美味しいって褒めてくれたじゃないか!?」


 ポケットをまさぐり口で笑顔を繕い、睨もうとする目を誤魔化された創を、父は抱き締めた。泣くほど悲しいのを理解してほしくて、落ちた涙を創の頬にも移した。


 上唇から舌に滲んだ父の涙。その味は、創には濃すぎた。


「ちょっと、わかったから……一旦、はなれて」


 腕が張った創は座っていた椅子から数歩の場所で躓いた。


「創ちゃん、だいじょうぶ……怪我はないかい?」

「お父さんこそ、どうしたの? ――その血」


 料理にばかりに気を取られていたが、満腹になってみると世界は元通りになった。


 頬を触って確かめてみる。父が触れてきた場所は、調理の最中に跳ねたであろう食材の汚れが付着した。エプロンも相当汚れて、あれではクリーニングに出しても落ちるか望みは薄い。




“ぼと”


“ぼと”




 父が借りたエプロンは花柄。キッチンとリビング。二ヶ所分の光源があれば、無地の部分から下の服が判る。上着を着たまま料理をするとは大雑把だが、よくよく手元を観察すれば、捲った袖は、白だった。


 真っ黒になったシャツ。白髪を染めた髪先。そこから垂れる雫の正体は、赤錆色だった。


「ハンバーグが焼けたみたいだね。ちょっと一度に作り過ぎてしまったから、お皿に盛るのを創ちゃんも手伝ってよ?」


 台所で創を呼び寄せる父の調子は、これまた実によさそうだった。自信作の出来が想定をかなり超えたらしく、もぐもぐと咀嚼(そしゃく)してまでにおいを堪能していた。


 これで、よく酔えるものだ。生か鍋で煮ればこそ創は気づかなかった。火を通した肉は強烈で、鼻が腐り落ちそう。


 父にどれだけ自慢されても、創の食欲は戻りそうもない。


「お父さん、私に言ったよね? 料理はお母さんにも手伝ってもらったって」


 よく焼けたハンバーグを山盛りに積んだ大皿を運んできた父を台所で引き止め、創は。


 あるはずがない、馬鹿馬鹿しい妄想。


 それがなぜ、真顔に迫る父の見下げる目に映る自分の笑い顔は、バリバリと硬直する。

 

 表情が、完全に固まってしまうその前に。


「お父さんと、お母さんは……私に、なにを、食べさせたの……?」


 ――よかったね、お母さん。創ちゃん、おいしいって。


 嬉しそうに……本当にうれしそうに。うれしくて、おもしろくて頭がどうにかなってしまいそうにワラッタ。


 キッチンの隅に置かれたスーパーの袋。Ⅿサイズ。持ち手には父の手形の跡。


死屍類(ししるい)さんにもらった人魚の肉が効いたんだ。創ちゃんの腕も、もうじき元に生えてくるよ」


 溺れるのを必死に耐える形相で、スーパーの袋から手を伸ばす母に、恋でもした少年のように、父の頬は紅かった。


「ほーら創ちゃん! お父さん特性魚肉合い挽きハンバーグだ。召し上がれ!」


 涙が自然と。口元に濁った唾液が伝う。胃袋から押し上げられた消化物に喉を焼かれ、助けを叫ぶことも。


 自分より小さくなって袋に収まった母は、この先どうなる。どうしたら、元に戻せる。


 創は永遠に考えていたかった。死ぬまで答えが出なくても構わない。身体が朽ちて世界が滅びようと、答えなんて生まれなければよかった。


「ちよ、ちゃん。お父さんが……お母さんを。私は、私はお母さんを!!!」


 吐き出した懇願。床にぶちまけた想い。


 三上創は、火原井千代紙が好き。


「やっと正直になってくれたと思ったら。聖女様は卒業して、羅生門で雨宿りをする男に成り下がろうとするの? よりにもよって、最愛の親友を地獄に落とすなんてね」


 頭の中の妄想であるはずの千代紙が、創の思惑とはずれて苦笑したということは。

 

 考えでいっぱいになった創の頭は、いよいよ、ニンゲンの域を超えた異常をきたした。

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