人狼の父-2-
新巫西病院204号室に火原井千代紙がやってきたのは、午後6時の頃だった。
「また来たよ……」
ここへ来る途中に買った花束を手に病室に入る千代紙。
個室の病室には、入院着を着た一人の少女が眠っていた。千代紙と同じくらいの年齢の色の白い少女。夜を混ぜたような夕陽に照らされ穏やかに目を閉じている。
時が止まったような彼女には、本来あるはずのパーツが欠けていた。
「あら、千代紙ちゃん」
病室の引き戸が開き入ってきたのは、白のワンピースと涼しい恰好の年配の女性だった。
「おばさん」
「また、この子に会いにきてくれたの?」
千代紙に笑いかけながら椅子に腰を下ろす女性は、見るからにやつれ、化粧と表情でうまく誤魔化したつもりでも、まるでドロドロに熔け短くなった蝋燭のように顔は青ざめていた。
「この子も、きっと、千代紙ちゃんがきてくれて、よろこんでると思うわ……」
「……ごめんなさい」
「どうして千代紙ちゃんが謝るのよ。……この子が生きて、こうしているだけでも、感謝しなきゃいけないの」
力無く笑いながら、女性は少女の髪を撫でた。
片腕を奪われた娘の髪を。
「そうだ……! 千代紙ちゃんに、受け取ってほしいものがあるんだった」
思い出したように手を叩くと、母親は鞄から袋に入ったなにかを取り出し千代紙に差し出してきた。
「開けて頂戴」
千代紙がおそるおそる手を入れる。
促されるまま取り出してみた袋の中身は、編みかけのマフラーだった。
「これ……?」
「お誕生日、おめでとう」
マフラーといっしょに、袋にはメッセージカードが入っていた。
その字を読んで、千代紙は、誰からのプレゼントか判り言葉を失くした。
「本当は、当日渡すまで口止めされてたんだけどね。……もう、この子には編めないから」
二人に返す言葉が見つからない。
動揺しているのを悟られないよう、千代紙は必死に返事を選び抜く。
「まだ、寒く、ないですよ……?」
「寒くなってからじゃ、おそいでしょ?」
我が友人らしい用意周到さと、千代紙は思った。
「じゃあ、私は先生と話してくるわね」
そう言い残し、母親は病室を後にした。
「……うれしい。うれしいよ。でも……これ、まだ、できあがってないよ……!」
ベッドに縋り付き、千代紙はプレゼントを手に声を押し殺して泣いた。
どれだけ感謝しても、訴えても、少女が目を覚まし千代紙を励ますことはなかった。
唇を噛み、喉を絞め、千代紙は声をたてまいとした。
口実をたて退出し、病室の扉の向こうで泣いているだろう母親に聞こえないように。
「じゃあ……私行くね」
別れを告げ病室を出ると、そこにはもう母親の姿はなかった。
やはり、式折々については、なにも言えなかった。
三日前の夜、西区で起きた傷害事件は、今では街中の注目を集めていた。
被害者は、予備校から帰宅する途中の女子高生だった。
犯人は未だに捕まってはいない。被害者がどのように襲われたのかさえも判らない。
ただ、四つの区の中でも賑わう西区の繁華街、その路地裏に倒れていた女子高生の状態と事件現場の凄惨な有様……そして、その日は満月だったことが話題となった。
実際、街中で巨大な狼を見た、なんて馬鹿馬鹿しい話もあった。
やがて噂となる『満月事件』……そのあらましである。
だが、警察から被害者の母親、彼女から話を聴いた女子高生の友人だけが、犯人について知り得た情報があった。
事件当夜、現場には被害者のほかに高校生の姿が目撃されていた。やがて式折々と判明するその高校生に第一発見者が声をかけると、彼は慌てた様子で姿を消したらしい。
不審に思った第一発見者が間の当たりにした光景、それは、血の海の中倒れる、片腕のない少女の姿だった。
重要人物として警察は今すぐにでも式から話を聴きたい。だが、式の家庭の事情が関係しているのか、彼らは慎重になっている。
現に、式は今日もああして学校に来ていた。
病院の廊下を歩きながら、千代紙は自問自答する。
本当に、式が『満月事件』の犯人なのか。
確かに、彼は真面目な生徒ではない。だが、人に危害を加えるといった悪人の印象も感じない。それはここ数日、彼を『指導』して実際に会話を交わした自分だからこそ言える評価だった。
常に自分の領域を持ち、人が持つ『善意』とか『悪意』とかいった曖昧な線引きが……彼 の次元には最初からないような。
うまく表現できないが、式からはそういった、どこか人とは違う違和感を覚えた。
「また逢えて光栄です。火原井先輩?」
突然名前を呼ばれ千代紙は考えを中断し足を止めた。
エントランスに向かう廊下の前で千代紙を待ち構えていたのは、今、まさに彼女の悩みの種となっている、式折々その人だった。
「どうして、あなたがここに……?」
「いえ。会いたい人がここにいまして。受付で聞いたら、この奥にいると」
千代紙の背中を冷や汗が流れていった。
……式が、彼女に会いにきた……?
いや、病院の受付が彼女となんの接点もない式に病室を教えるなんてありえない。
そもそもだ……式は、彼女がここに入院していると、どうやって調べたのか。
「火原井先輩はどうして……お友達のお見舞いですか?」
比喩ではない。
全身の血の気が引く感覚を千代紙は生まれて初めて感じた。
その時。静寂を裂くように病院内に響き渡る式の声で千代紙は、今、自分が置かれている危機的状況を知った。
来た始めはあれほど音に溢れていた病院内から、人がいなくなっていた。患者も、その家族も、医師も 看護師にいたるまで、人という人は徹底的に排除され建物には無音の空気が漂っていた。
「……ああ。みなさんには頼んで、今日は帰ってもらいました。実は全員、祖母の知り合いなんですよ」
そう、ただ一言、式は恐ろしい事実を千代紙に告げた。
式が一言頼みさえすれば、職員が仕事を放棄して帰る? ……そんなこと。
だが、現実はそうなっているではないか。
祖母とは、暴力団関係者か。一瞬で人払いができる祖母とは果たしてどれほどの影響力を持つ人物か。
だとすれば、式がここにいる理由も、おのずと見えてくる。
あるいは、式がその祖母とやらに口利きしてもらい、彼女を、ここに入院させたことだって。
歯の根が合わない。
心臓は激しく脈を打ち、胸の奥の熱が手の指先からつま先に至るまで全身に拡がる。
おもむろに、式はポケットに手を入れた。
自分を見る彼の気配が、それを境に激変した。穏やかな空気が、熱を持った敵意となって向けられていた。
千代紙は背後の病室を振り返った。
助けは来ない。
彼女を護れるのは、自分、ただひとりだけなのだ。
不思議と、今の自分には、それができるという確信があった。
ポケットから式がなにかを取り出すより先に、千代紙は彼を取り押さえようと走り出した。まさか、危険を前にした自分が、こんなにも速く走れるとは思わなかった。
一直線の廊下をぐんぐんと距離を詰める千代紙に、式は。
「まあまあ、まずは、これでも見て落ち着きましょうよ?」
ポケットから式が取り出した物。
それは、手鏡だった。
手鏡を向けられ、千代紙は反射的に後退った。
……なに、これ……
そう呟こうとした千代紙。
だが、声が出なかった。
驚いたからではない。
口が、思うように動かなかったのだ。
鏡の中から千代紙を睨んでいたのは、鋭い牙に茶の体毛をした、一頭の狼だった。狼と言っても、動物園で見かけるあの狼ではない。大型車ほどの体躯をした巨狼。
まるで、神話の怪物を体現したような迫力だった。
千代紙が瞬きをすると、狼もまた巨大な眼を瞬かせた。
一体、なにが起きたのか。
千代紙が俯いた先には、床を踏む狼の二本の前足があった。
……千代紙、は……一体……
「火原井先輩」
手鏡をしまい、式が言った。
「式は、あなたの力になりにきたんです。まずは、ここから離れましょう。それが、先輩と、先輩のお友達のためです」
そして、式は最後に、こう付け足した。
「お友達には、決して手出しはしませんし、させません。ここは安全です。今だけは……どうか、式を信じてついてきてください」
千代紙に、ここに残るという選択の余地はなかった。
廊下にもう一つの気配が現れたのを察知する。
その匂いは、友人の母親のものだった。