舌出し雀
「お見舞いに伺いました」
応える空木雀は徹底した仏頂面だ。相対する者にしてみれば、感情を推察するのを遮断することにさぞものどかしさも覚えよう。
異質に異様。
これでどうして、悪意だけはとんと疎くさせるか、創は家の中にいながら天を仰ぎたくなる。
「空木さん、どうして?」
「HMで、今日の三上さんはお休み、と。完全無欠な聖母様の無断欠席、こんなおもし――ごほん! 失礼――面白イベント見逃すのは我が生涯において最も愚かしい罪と自己批判に基づいての行動です」
意図を汲み取らせようと努めてくれている、その可能性も棄て切れないと信じ始めた創への発言に楔を打ち込むように頻繁だった。空木雀の大袈裟に過ぎた数の咳、咽頭を干乾びた炭で叩いたような声は聞いているだけで病弱になりそうだった。
「暦のうえでは秋とは言いますが、例年夜中まで暑いのなら、いっそ九月も夏に組み込んだ方がいい、そう私は思うのですが。おかげで、昨夜は寝る際、下着さえも着忘れ、エアコンで喉をやっちまいました。設定は十八度」
「なんでかな、私の喉には言葉がつっかえているよ。『ほかにも完全にやっちまっているだろ』……?」
「べつに慰謝料まで、要求するつもりはございません、夏季の調整に懸かる。現役ぴっちぴっちで青春爆走中な女子が二人も頼めば政府も重い腰を上げましょう。こういう時の窓口ってなんでしょう? やっぱり気象庁?」
寝苦しい少女一人のため、地球にそこまでフレキシブルな対応が可能なら、天気予報は今日限りで放送終了だろう。
「クレーム処理してほしいなら、神様に言いなよ? ――それとも、話をはぐらかす計画の一環なら、さっき言い直さなかったことも含め、一言も二言、三言、思っていることぜーんぶ言っちゃうけど? 空木さん、こんな所でなにしてるの」
「お見舞いです。女に二言はありません」
「ここは男でも言い訳するシチュエーションなんだけどなあ。白状する気がないなら、それでもいいけど――空木さんが私んちのベランダにいる事実は、どうやっても覆らないんだし」
自棄に諦めが早い。向き合う面が等しくなるのだから、陶酔するこれは自虐だと空木にも呆れられているに違いない。
責め立てる、とはあいにく自分ごとではないので断言に難いけれど。
「それは、どんな気持ちの時にする顔なの?」
「“不審者なのに、追い返さないんですか”」
冷静に、平静に熟考して。果たして追い返すのがここは、ここは正しい判断なのか。
部屋にひとり身を潜めた創は、つまり衝動に駆られたのだ。でなければ新学期早々の学校をずる休みする、なんて暴挙をやれと強要されても……『一人』を除けば議論の中断は避けられなくなるのも、また三上創、それに心が痛むのもまた、またしても少女。
ひとりきりだった。
――完璧じゃないから人は、人を維持できる。
完璧を追い求める性はまさに万物の霊長の本質といえ、動機を語り始めてしまえば、生物の本質からかけ離れてしまっている。神とまで大仰にせずとも、議論は人外の域だった。
要するに、創がなにを根拠に、自分を擁護したいのかというと、生きていれば嫌なことは起こり。
特に理由はないが突拍子もなく、休みたくもなるのは人として当然の現象と肯定する。
「自覚はしてたの、おかげで、安心した」
指にかけた鍵を下へ回転。
「――不審者なのに、入れてしまっていいのですか」
「せめてもの抵抗……空木さん、ここまで這い上がってきたんだよね? 身を守るのに、これ以外最良の策は私には思いつかないよ」
破壊工作、屋上に上がるルートは本来避難用、空木が利用するには避けたオートロックを突破するしかなかった。
五階建てのマンションを登攀する筋肉がガラス人形のような四肢の一体どこに仕組まれているか解明に苦しむ創だが、あの秘密の森を踏破してみれたそんな強靭さをベランダの窓程度では防護面で不適格なのは、自他ともに認める事実。
パンチではなくノックだった。それは敢えて。意図して。
「交換条件。お見舞いを追い返さなかったから酷いことはしないでね。でも、また同じことになったら次は、インターホン鳴らしてほしいな。ずる休みでもちゃんと、出るから」
承知。先輩、後輩という立場を加味しても圧倒的不利な立場からの要求を呑んだ空木はしかし頑なな義理を立てて。
こちらの本心に譲歩し、踵なんか揃えたりせずもう少々、物腰柔らかく接してくれれば感謝しやすいという創の気持ちは空ぶりに終わった。
「この空木雀、どうやら三上先輩という人を、見限っておりました。完全生物と平凡に生きる人々を絶望のどん底にその、溢れんばかりの慈愛で叩き落とす聖母様も、正体は、ちっぽけで平凡な、普通の地を這う女の子だったのですね」
「“殴る”って動詞を、ここまで熱を込めて言う日が私に来るなんて……」
「その握り締めた拳でどうぞ殴ってください。今の先輩なら耐えられる自信があります」
鉄仮面は途端に饒舌に。気は緩んでも完全に心を許さなくて結果的に幸いだと創は痛感する。
耐えられる自信がとてもなかった。
「どんな私でも、聖母だろうと人だろうと空木さんなら耐えられるでしょう?」
握力を解けば拳を取っていた空木は興味を失くすように創から距離を取り制服を正し、カーペットへ正座した。
最低限の礼儀を払ったに過ぎない。地上からベランダまで、皺一つ付かないよう細心の注意を払ってきたというのに、全く律儀な後輩である。
「理由はもう、私から訊かないの?」
「女の子に、悩みの一つや二つ程度、あってもよろしいかと」
「話題、なくなっちゃった? んん……じゃあ、私が質問する側に回ったら、怒る?」
甚だしいまでの自己肯定は滑稽かと思いきや、類を一つ敢えて挙げるなら勢いに任せ怒鳴り散らす後ろ姿に爽快さがつい感じてくるあれ。清々しいというか。華々しいというか。
我ながら。この語呂の言い回しが利く状況は自分の中で終わる時だけ。
性質が悪いで済むならいいにしても、態度に出して、積極的に他人を巻き込もうとするのは頂けない。
「甘く見てもらっては困ります。空木雀は、三上創を認めたばかりなのですよ。立場が変わった如きで腹を立てていては、女の子は務まりません」
あざとらしいまでの上目遣いを突き返してきたのだから、とりあえず空木の言葉は信じるに値する。
「うっかり強がると、恥ずかしいことも、遠慮なく聞かれちゃうよ?」
「小さい頃に生き別れとなった数年後、再会したお兄ちゃんとパンツの趣味がかぶったことを知ったのと比べると、痛くも痒くもありません」
それは痛すぎる。一生どころか三回生まれ変わっても消えないトラウマだった。まさか、堂々と言う裏に、悲しい経験があるのでは。
「どうしたのです、突然な心変わりですね」
「空木さんの正体は、世に暴くには早いと直感しました……! 今は、ひとまず地を這う普通の女の子について話しましょう!?」
主役の座をここで降板すると後々の展開に支障が出兼ねなかった。
「では。不肖この空木雀、勇気を出して踏み込んでみましょう。やっぱり、私は、気になるのです」
疑問の大きさを体現した少女のシルエット。高らかと伸びる影が居場所の狭い部屋を覆い被さらんとする。
「踏み込むって」
「そう……ならざるを得ないといいますか。三上先輩が聖母でないのは世界にとっても朗報とばかり思っていました、ですが。結果は、判らないことが判っただけ。迂闊には口を開けません」
ベッドの創を見る目は恐れている、というよりかは、むしろ。
「あまり、じろじろ見ないでよ。睨まれても仕方ない事実は、まあ私も自覚してるけど」
わざわざお見舞いにきた後輩とも、楽しい会話を弾ませることすらできない。
そのようでは、両親が見限るのも当然だった。こんな娘でも心の底から案じなければならないのだから、親の本能は恐ろしく厄介なのだろう、きっと。
「睨まれている――確かに。なかなか、的を射ておりますね」
「……ほら」
何度も肯く空木は、三上創について話している。にも拘わらず。
不思議だなどと拒絶するべからず。ここまでの流れで不自然な部分などあってたまるか。渦中の本人が重箱の隅をつつくように物申したくても、そもそもについて、創が孤独に独白を真っ先にしているのだから、真偽の是非を問うまでも。
三上創。この要素を世界は、必要としてはいないのだ。
むしろ害というマイナス要素として定義されているのかもしれない。
十代の少女を謳う『聖女』という周囲の文句。同世代同士で隔絶され合う環境を強いられている。なるほどうっかり異端な存在に神格めいた盲目的な価値観を与えるものだ。
対して、近寄りがたい存在に大人の反応は、熱烈とは真逆である。集団の輪に浸れなければ、それを同族と認める行為すら嫌悪と共通する部分を発見したがってしまう。それが、自分達に寄った形をしているとことさら放ってはおけない。
だって、しょうがないじゃないか。
神格も、険悪も。彼らのはつまり、評価だ。全く以てつまらない創に対してそんな正当な評価を下した彼らは、ただの善良な一般市民だった。
一体、自分のどこに原因があるのやら。議論できる相手すらいないのが創が一向に治せない理由。
「私にも、同じ傷があります」
「少なくとも、この街に、私と同じ人間はいないよ」
「三上先輩と同じです。空木雀の身体も、過去、他人に傷つけられました」
腕を獲られたのと比べると、転入生で後輩である少女が普段、髪と影を巧みなまでに隠蔽しているその傷には、自分が体験した一夜などよりも壮絶な逸話がある予感が創はした。
どれだけの光、熱があれば、これからまだまだ綺麗になる少女の面を、丸々半分溶かせるというのか。
「それが空木さんの、悩み?」
わざと、ではないにしろ。結果としてこちらが先に曝け出した弱さに誘導された事実から罪悪感が芽生えた創であったが。
「世界で自分だけ、なんて思いたがっている三上先輩に、これは朗報です。探せば、案外すぐ近くで見つかるもんなんです。他人に一生消えない傷をつけられた、不幸な女の子くらい」
その言い方では空木の説く共感とは別の感情に引っかかるのはさておいて。ないはずの腕が疼いて、掴めないのに苛立ちを横顔に浮かべた様を聡って秘密を明かしたくなったのは列記とした事実。
可能性がゼロではないが。適格に指摘するには、空木は人を見る目がない。
結局、創が理解できないのは、あの一夜だけだった。
三上創。この身体を、なぜ、仮名霧は欲しがったのだろう。
闇にくぐもる路地裏は完全な密室だった。自然に面した集団社会や未開拓な土地に古くから暮らす民族ならいざ知らず、コンクリートに密閉された不夜天に適応した現代人に、そも形容しがたいのだ。
恐らくあれが、“喰い殺す”という状況を指す。戦争や紛争といった、人としての尊厳を踏みにじる行為、良心の呵責に囚われ、あるいは解き放たれる。ニンゲンに許された認識とは一線を画す原理による。
まさに、行動。
仮名霧は、人として完成されたのだと創は賞賛を禁じ得ない。食糧と信じ切るまでに至ったのに、あろうことか創に謝った。生徒を、創を想う気持ちは本能を凌駕するまで強かったという動かぬ証拠がここにある。
慣れ親しんだ腕を失くした瞬間、創は、一人の人として社会への参加という未知の体験を果たした。
決意しないよう今日まで悩み、飽いている自分がいた。心の奥で仮名霧への恨みを抑えるのも限界を感じる始末。
これの、なにが聖女だ。
認められたい。加わりたい。人一倍飢えていた思った欲望が叶った後の世界で、お見舞いに来る後輩ができた自分という一人は、漂流している。胸に抱えた退屈、この二文字に浮く顔面は酔って青ざめていった。嘔吐の欲求こそ、気色の悪さから。
くる。




