ヌエイエモノガタリ
椅子でそわそわし始めたタイミングで壁かけ時計に目をやると、ペットショップで水槽の魚を眺め三十分が経っていた。
後で息苦しくなったりしないようスーツのネクタイを緩めた三上葛は、しかしそれでも消え入りそうにため息を呟く。
先方が指定した時間がとうに過ぎており、こちらの機嫌が損なわれているのは百も承知であるものの、彼が来なければそもそも希望した取引も開始しない。
自堕落に、そうまるで底の抜けた瓶から溢れる水に孔を塞ごうとしないこの行為こそ、彼自身の望みが叶っているという証明に他ならなかった。
「お待たせしてしまい申し訳ございません」
泡を噴くろ過装置の音がペットショップの水槽の数だけ聞こえる間隔に聞こえた謝罪は、酷く乾いた声だった。厚く被せられた地の底から掘り起こした棺から響くよう――そんな喩えが一番正しい。
銀の鱗を擦らせ優雅に泳ぐ淡水魚の鰭に、撓む水槽を隔てて見える黒のレインコートが覗ってくるその様に、イラ立ちへの欲求が全く沸かなかったわけではなく。相手にしてみれば結果としてロハで済まされる歪な契約にこうして縋った側として、形式的であろうと謝罪への回答が唾を吐くのは、道徳に反していると。
幸い葛が提案したこの待ち合わせ場所には、気を紛らわせるものがたくさん納められていた。
「……娘とよく来た、思い出の場所なんだ」
大通りを支柱にして拡大するネオン街から廃棄されるように、ペットショップは路地裏の雑居ビルの光源となっていた。
テンパードアを透かし、酒と酸性雨がアスファルトを融解させるにおいに埋没された空間を曝すブルーライト。落ち着きを演出する色の照明は、日照時間に敏感な魚の健康を良好に保つのが目的だ。
管理者との契約を交わす前、一階はコンビニで、店を開きたいなら放送設備も整っていると店主は売り込まれたが、天井のスピーカーは放置、レジや棚を大型の水槽と浄化装置に挿げ替えた店主は内装を、水中の環境にできるだけ近づけた。
薬剤を混ぜ自然界を再現した水、砂利、翠を揺らす水草、瑞々しい魚鱗のにおいに満ちた薄暗い店内。
棚に代わって陳列された『商品』の品質を維持するための保管庫に通路など最低限あれば十分で、水族館のようなムードを期待するだけ虚しくなるだけだった。
「いい所、じゃあないですか」
「ありがとう……」
と、娘と同意見になってくれた彼にお礼を述べてもやはり、この場所のどこに魅力を感じるのか共感できない。
最初に訪れたのは、家族での外食の帰り。街の灯りに目を回した娘は当時四、五歳だったという葛の記憶は朧気だった。もっと小さかったかもしれない。
きれい。
オムツも取れていなかった娘は、血が糸を引くかのような毒の触手を垂らし泳ぐ水母の群れに爛々とさせた目をへばりつかせながら、生まれて初めて、感情を嘯いた。
直接的な面識がなかった店主に声をかけられたのは、仕事帰りに当時のことを懐かしんで入った一度きりだったが、娘は今も定期的にここの魚へ顔を出していたらしい。
来た日には、なぜか自分が世話する時より魚が活き活きすると娘を不思議がっている。
「どれ。累も、興味を持ってみましょうか」
他にも珍しい熱帯魚やコップ程度のガラス水槽でこと足りるような、鮮やかな鰭を優雅に翻し泳ぐ観賞魚、同じ種類にしても観賞用は豊富な種類が揃っているにも関わらずにだ。
レインコートの暗闇から輝く灰の瞳に魅入られたのは、大型の魚類が好物にするただの金魚だった。
「なにか、飼ってみたいのか……?」
「いえ……プレゼントするって、ある日、ある人に無理やり約束させられて。でも、累はこういうのに疎いから、興味を持つべきかなと」
とは言っても。憶えているのはずいぶんと前の出来事で、約束した相手とももう別れてしまった。会いに行きたいが手ぶらだと恥ずかしい。
口実さえあれば。苦笑を顔に滲ませながら、彼は逃げる金魚の群れを追いかけていた。
そんな彼をいい加減、葛は本題と急かす。
「そろそろビジネスの話をしないか、死屍類さん?」
取引相手のいる通路へ水槽を回り込んでみれば、幻覚ではなかったのでとりあえず安心してみせた。
「それが、例の……」
腕から提げた黒のゴミ袋を凝視する葛に、死屍類累は取引を始める前にこう忠告した。
「こちらからの電話でも説明しましたが。これは商取引ではありません。累が無償で提供するこれは、本来、あなたやあなたの娘さんが絶対、存在さえ知らなかったモノです」
『御神体』を盗み出す計画を立てたのは、元あった廃神社の噂をどこからか聞きつけたある勢力の末端に属する構成員だった。
組織のトップは不治の病に罹っており、自分の名を上げるため強奪した宝物を献上する気だったと意気揚々と語った。
謁見の機会を与えておきながら、盗み出した御神体を道中で仲間に掠め取られた構成員は、手柄を横取りされないため外部の者を使ったことを後悔していることだろう。光も届かない海の底で。温厚を社会への売りにしていた組織が、トップの代替わりと同時に破戒的な思想に傾倒するようになった原因を作ったあの御仁のことだ。
期待を裏切った者にはもっと凄惨な方法を執っているやも。
国政にも顔の利く組織のトップは、オカルティズムな世界に心酔していることでも有名だった。だから耳を貸すようなネタで末端が取り入ろうとした。
組織の反映には、屋台骨を支えてきたような古株連中にも暴力を強行させるほど、破綻した理想主義を持て余している老獪が、死を前にして、自分の命を助けるモノの正体を前もって確認しないなどあり得ない。
横取りというのは、それの“用途”を知っていると伝えるようなものだ。
自分の手元に届けてくれるなら、どんなニンゲン、それ以外も雇う。
「あなたやあなたの家族の幸せを決めるのは、他人ではありません。知らないということ、それは存在しないことと同義です。そんなモノに手を出す、その意味を最後に考えて。どうか、選択を誤らないで」
最後通告。止めるなら、今だと。
夫として。
父として。
ゴミ袋を奪い取り街へ逃げ出す葛を『魔法使いの弟子』は、ふり返らず見送った。
「“子どもの幸せを阻む親はいない”……いい啖呵です」
未来に対する恐怖を正当化し出て行った親に、だがと一家言投じた。
「どうなんでしょう。幸せって、簡単に共有できるんでしょうか。自分だけが判る快楽が幸せだと、本当に呼んでもいいもの、なんでしょうかね」
目当てのものが手に入ったなら一目散に逃げ帰った葛には。理解してやれないというのに。
どうしてこんな暗く生臭いだけの場所が、娘にとって想い出の場所なのか、親でも。
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空木後輩の協力で裏庭から生還した創は、だが下校後になっても家に帰らなかった。
行方不明になったというわけではない。創を心配し待ち構えていた教師陣も付き添いを連れた本人が正門を出るのを見届けたので自宅には連絡をしなかった。
十字路で後輩と別れた後は特に寄り道もせず、玄関を開けて鍵を締めた。買い物帰りに創と出くわした隣に住む主婦がそう証言する。
「お母さん……ただいま」
陽が落ちた晩夏のこの時間帯ならまず聞けない娘の声に、電気を流すように痺れた肩から順に、母親はゆっくりと背後を確認すると息をついた。
時間も時間だ。
てっきり、夫が帰ってきたと思った。
「おかえりなさい。……学校は、どうだった?」
え、と。唇に熱を灯した創は、俯きつつ久しぶりの登校をどう感じたか、安否を確認してきた母に、嘘を正直についてみせた。
「なんともなかったって……外に出るのは今日が始めってわけでもないのに。こんなにお母さんに心配されて、全く、私は幸せ者だよ」
竦めた肩の動作に乗せて皮肉をついた創がどれどれと、窺えば。母親の変わり果てた形相に声帯はごきりと異様な悲鳴を立てた。
お腹を痛めて産んだ愛娘が、生まれて初めて皮肉を言った衝撃は母親を亀裂が走るような形相に変貌させてしまった。
放置すれば、頭の先から跡形もなく崩れる。冗談のため意図的に緩めた頭のネジを急いで締め直した創は母の慄きを相殺する案を模索。三秒で思いついた、そのおよそ八八通りほどの案から最善策を掬い取った。
「ああ、でもやっぱり今日は、久しぶりの学校で疲れちゃった……かな?」
「…………」
「全身筋肉痛……いやいやもうもはや、あと一歩でも足出したら骨折れちゃうね、三百本ほど」
十代だと人の骨はだいたい二二〇本だと説かれている。
自分はおろか、他人の骨が折れるくらいの疲労が創には溜まっていた。
「…………あら、そこまで」
「“そこまで”だよ、私は今! これじゃあお母さんやお父さんまで骨折しかねないから今日はお風呂も晩ご飯も抜いてとっとと寝るね!?」
風呂くらいゆっくり入った方が疲れも取れると母は引き止めたが、激痛に加え高熱もあると、悪寒を感じた状態で浸かろうものなら、凍りついた湯舟で凍死する。浴びようとしたシャワーに冷気が入ろうものなら、排水管を通じて家全体が凍る。
三上家は五階建てのマンションの最上階、被害を想定するなら今夜の入浴は控えた方がいい。
「そんなこんなで、私今日は新学期で死にそうなくらい疲れています! また明日、生きていればちゃんと起きるから。おやすみなさい!」
「お、おやすみなさい」
別れ際の敬礼も解かずに創は部屋に逃げ込んだ。背後の扉では追手は感知できない。
「……ちよちゃん」
「言わずともこのあたしには判るさ」
「死にそうなのに私……走れちゃったよ」
嘘に嘘を塗り固めた目的が安心させるためだったとしても。やり過ぎたことへの釈明が母親にできないのが、息を切らせた創は辛かった。
「慣れないのに冗談なんか言おうとして」
「ちよちゃんじゃん、やれって言ったの……」
家族が帰ってきた母は、怯えていた。暗い表情に直面し、いつまでも言葉に詰まっていた創に入れ知恵した千代紙は、結果に悔やまなかった。
「あたしのおかげなんだから感謝しなさいよ? あんなに心配してくれているってのに……白寿な娘もいたもんだわね」
「“薄情”って言わせて私に認めさせたいにしても露骨過ぎるよ、骨まで見えちゃって痛々しいよ! 九九歳も生きて情が厚くならないなんてどんな人間不信!?」
「創みたいな八方美人は歳取ると情が薄くなりそう」
十年しか生き切っていない小娘の統計はなんの根拠もなくただ恐ろしいだけだった。
「でも、当たってるじゃん…………なんで、家族から逃げたいのよ」
部屋の中央に立とうとする創と入れ替わりにドアの前に忍び寄った千代紙は、ドアノブの側に耳を当てる。集中すれば、廊下の床を舐め伝わるリビングの会話がよく聞こえた。
「元気なのは本当だよ。頭もすごく冴えてる、深呼吸したら空気がコーラみたいな味がして気持ちいいんだ、ふふっ。……でも私は、三上創は今日も、病気じゃないといけないの」
「あんな親のために、あんたは笑ってやるんだ。大した聖母様だわね」
千代紙だけじゃない。父親が帰ってきたのは創も気づいていた。
夫婦喧嘩の火種は毎晩些細なきっかけで、今夜は夕飯に昨日の残り物の筑前煮が出てきたことから始まった。
「聖人でいたいなら、あれの仲裁に入ってやるもんじゃない? 二人とも、あんたのことで言い争っているんだからさ」
帰ってくるなり、父はいつも母を激しく責め立てる。
予備校などに通わせなくても娘の成績は学年でも上位だった。経済面でも負担を自分たちに強いたのはお前の無計画さと近所への見栄が原因だ。
吐き捨てるような父の剣幕に母の対抗策は決まっていた。学校での娘なんて無関心で、家計を食い潰すのを生き甲斐にしていた男がなにを言ってのける。マンションのガレージに高い外車を停めて近所に見栄を張ったのはどちらだ。
予備校に通わせたのは創の意思。娘は最初、父に了承を得ようとした。イエスともノーとも返事を貰えなかったから母に相談した。食事時に文句を言える元気が会社から帰ってきてもあるなら、箸の一本でも洗ったらどうだ。
そして、最終的には話題の娘の名さえ出てこなくなる。
「一体いつまで、あそこに帰らないつもり?」
極端なまでの人格否定。生まれてきたことを否定させる侮蔑。食卓の食器は夜を越える度に減り続ける一方。のんびり夕飯を食べる余裕もない。
それが、凄惨な事件から生還を果たした三上創の現在の家族の姿だった。
「私が帰って、お父さんとお母さんが喧嘩を止めるの? 仲直りして、割れた分の新しいお皿をお父さんはお母さんに買ってあげるの……?」
股を裂かれたような母の悲鳴、それに次いで食器の散乱する甲高い音。とうとう父は暴力に奔った。
血が出たと呻くように父に訴える母の叫び声はマンション中の注目を集めた。
「退院してから、なにも口にしてないでしょ、いい加減くらい水くらいは飲みに出て行ったらどう、これ以上徳を積んで、仏にでもなる腹つもり?」
「元気なんだから、食欲がなくたっていいでしょ」
『生物としての本能まで忘れてしまうとはね。この火原井千代紙が側にいておきながら、本当、情けない』
“情けない”
昔の千代紙なら自分の後ろでそう言ったであろうセリフに創は、鼻で笑った。
「本物のちよちゃんは……夏休みに入る前に転校していったくせに」
存在しない妄想のふりをした頭の中の自分と会話するのも、いい加減飽きた。
獣のような両親の声だけが聞こえる後ろを創はふり返った。
まるでつい今さっきまで、誰かがいたように。
「さすが私が細部にこだわったニセのちよちゃん。あなたも……私になにも言わず、言っちゃうんだね」
ニセもなにも、初めから創の側には、誰もいなかった。




