アメノウズメな夜
身体が重い。
全身に溶けた鉛を流し入れられたような感覚ではない。粘着度の高い泥、それは肌を執拗に犯し自由を奪う。
鼻腔と唇を舐め回して息を止め、窒息した苦しさにもがき喘ぐ手足を冷酷な意志で以て絡め取った。
何度も、何度も。生かさず殺さす、暴れる様を見て愉しむように。低温というところが相手の陰湿さを表していた。
無意識なのをいいことにさんざん弄んでおきながら、意識が戻れば、すぐに消える。まとわりつく感触と茫漠とした恐怖心を吐き捨てて消えるのがまた質の悪いこと。
「やっと起きたの、寝坊助さん。それとも『お姫様』って言ってキスすれば早起きできたかな?」
泥の沼から這い出たように意識を肉体に反映された創の寝顔。
くっくっと胸を高鳴らせた千代紙は、ベッドに突いた両肘に手を花弁の形に開きその上に顎を添えていた。
「……私、どれくらい寝ちゃってた……?」
うなされた時に噴いた液体は、呑み下すと唾液の味がした。どろりとした舌触りに甘みのほんのり感じる。
思春期を迎えた少女の味だった。
客観的な感想に創は嘆くように頭を押さえた。どうやら自分の意識はかなり深い部分まで悪夢と同化していたようだ。
病室のカーテンを解放した千代紙は言った。
「五時間か、少々?」
上体を起こした創の額に反射したのは月光だった。銀細工の輝きのような光は月面を灰色に満ちる。静寂に包まれた街、そこに広がる生物と植物の寝息を、まぶたのない巨大な眼が見下ろしていた。
夜明けの到来はまだ先の夜景に見惚れることもせず、創は深いため息をついた。病院の消灯時間から数え、寝坊どころか早起きよりも早く起きすぎた。
「ところでちよちゃん、太陽はどこ?」
「満月の後ろに隠れてるんじゃない、こんなに外明るいんだから」
大声で呼んだら朝だと勘ちがいして出てきたりしないだろうか。
目覚めた時の発言もそうだが、千代紙がこんな風に言う場当たり的な冗談は、落ち込んでいる人間を励ましたという彼女の性格が顕れた証拠である。突拍子もない発言に虚を突かれては、鬱屈した感情に酔い痴れるのも馬鹿馬鹿しくなってしまう。
ふざけている。でも、本当のことを知っているから、創は笑ってしまう。
と、昼も夜も関係なくいつもの調子を微笑ましく見守っていた創の前で、千代紙は窓枠に手を掛け身を乗り出すような予備動作をしたので、創は慌てて千代紙の腕をいなした。片手で。
まさかと眉根を寄せたが、一応、確認を取ってみる。
「本気ですか?」
「なぜ敬語」
霊言みたいに自分の意志と相反した言葉遣いに自身も訝しんだが、眉根を寄せる創に、千代紙は天上に顎をしゃくって。
「だってそろそろ明るくならなきゃいけない時間だし。二、三日前ならとっくに朝だよ? 皆生活があるのに、太陽だけいつまでも引き籠られちゃあね」
日照時間を逡巡なく持ち出すのは理知的だがその後はもう支離滅裂で。知識の幅広さを前説したせいで幼稚な思考回路が誇張され、始末に負えなかった。
大事なことを友人から学んだ創は、得た教訓を糧に友人を全力で止めようと試みる。
「もう喋らないで。知識と天然の同時使用は人格の崩壊を招くんだよ」
これで暴走は止められたと安堵するが。
撫で下ろした胸から顔を上げた創に、腰をふっては鼻歌を歌い華麗なステップを床に叩く千代紙はお道化るように言った。
「ふんふん♪ ――シャイで出てこない、外に出たくない相手を説得ではどうしようもできないから歌ったり躍ったりして警戒心を解こう、と。太陽に因んで日本書紀を参考にするなんて、小粋なことするじゃない」
手を交互に動かす動作は打楽器の演奏を暗示させたいのか。こちらは打つ手なしというのに。
「ちよちゃんもやってくれるよ……」
「ありがと!」
「――。でも、そこでどうして日本書紀、天照大御神に気付いたなら連想元は古事記になりそうだけど?」
「引用が二つあるのに、一つに限定するような真似。そんなの」
先とは毛色のちがう笑み。
散らばった破片を紡ぐように。砕けた千代紙の表情が締まる。
「駄目じゃん。こうして創とせっかく楽しくお喋りしてるのに」
それからまた千代紙は迫のない面でニカっと創の許に戻った。満月に照らされた屈託のない表情、斜陽の加減がどう変わろうと昼間ならこうはならない。
まるで月の魔力に魅入られ、本来の理性が狗流ってしまったよう。
オカルティズムに拘らず、月の満ち欠けが人間の精神、引いては肉体にどう作用するかは考察が交わされ、議論のテーブルにつきながら挙手する多くの学者は今も自分の発表の順番を待っていた。
専門分野とは一線を引いた世界で生きる自覚がありつつ、創自身も畏敬の念を抱いていた。偉大な文明の利器――夜の帳を跳ね返す光をも霞ませ、進化の途上で退化したはずの人心の本能的領域を駆り立てる太古からの大光を。
夜を、決して侮ってなどいなかった。あんな事件が起こらずとも。
「月に惑わされているのは……私だったみたい」
口角の上がった千代紙の口から覗く犬歯は鋭利だというのにあまりにも無辜だから創も試しに笑ってみせた。
ところが、逆効果だった。険しさを深めていく千代紙、頬の辺りにこびりつく哀愁は皮の厚い闘犬を横から窺ったようだった。
「やっぱりまた、悪夢を視たか」
僅かに白み出した景色に眠気がぶり返す。無意識に顔を繕ったということは千代紙もまた。
緊張が保たない様子に呆れた創。想像したのは二の腕を締めるように腕を組んだ自分の姿。けれどイメージに齟齬が生まれる。指の腹に覚えた圧迫感、それは片方だけ。
起きる直前までは両方ちゃんと揃っていたのに。
「まだ……感じるの。指を動かした時の感覚が」
目を瞑れば一本一本の神経が曲がっては開く。頭の中ではない、末端神経だけではなく感触は服の袖が肌に擦れる腕にまで広がった。
「朝になって起きてみたら、生えて元通りに戻っているんじゃないかって」
そんなことを二、三日ほど前から創は妄想に耽っては千代紙を不快にさせる。
「日が昇る前には起きちゃうんだけどね」
創は嘆息した。空っぽの袖を持て余し。
「……待ってみる?」
「え」
「太陽はないけど、日付じゃ朝なんだし。暗いせいで、見えないだけかも」
飛び込んだベッドを匍匐前進した千代紙は創の腕の前で頬杖をついた。投げ出した足をバタバタさせ即興で作曲した歌を口ずさむ。
「まさか…………ないよ」
慰めでも。こういうのを創は好まなかった。
それでも待ってみたのは、夜にかけた目覚ましが鳴るまで特にやることもなかったからだ。
しばらく待って、時間が経って。一日が始まった。スイッチを切ってもよかったが耳で聴かないとどうも目覚めた気に創はならなかった。
しかし、鳴ると判っている目覚ましを起床時間まで待ってから止めるというのは、なんとも緊張させられた。そこは狙い通り、ではあったが。
顔を洗って、朝食を採った。入院当初は〝食べ物風味の草と米の研ぎ汁〟だと思い、味が判らなくなるまで口の中で飲み物とぐちゃぐちゃに混ぜて流し込んでいた食事にも慣れた。
流動食をかき込むくらいにしか使わないが、箸も使いこなせるようになったと知った瞬間が創にはなによりも嬉しかった。ペンが握れなくては授業を受けても意味はない。
「一息つけば? もう半日経ったし」
沈みかけた夕日を逆光に千代紙が覗き込むのは創の自習ノートだった。この会話も創の日常。
「創は夏休みの宿題をしなくてもいいのに」
「これは、私にとっての、リハビリなの。先生も言っていたでしょ、そろそろ前の生活に戻る準備をしなさいって」
「そこまで指図してなかったじゃん」
ノートに喰らいついて参考書から抽出した知識を書き写す創。
本人が一番理解していた。もう、あまり時間は残されていない。
「根つめすぎると、また変な時間に起きちゃうよ」
釘を刺す千代紙に、創はペンを脇に置いた。
今は一刻も惜しかったが、これだけは、創は何度でも言う覚悟だった。
「前も言ったじゃない。夢の中で仮名霧先生とは、満月の日しか会わないよ」
夜の幕を下ろそうとする夕日、あれだけいた蝉の喧騒の凪いだ刹那の茜は月が増えるごとに。
忙しなく訪れるようになっていった。
“狗流っている”までに20分は費やした。思いついた時は、こりゃあ勝ったゼと。
まだ指先が震えてます……




