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月がきれいですね

 ナトリウム灯の(あかり)は夜の路地裏を炙るような色で照らす。それはガラスの中で電流の流れる鈍い音を上げながら。


 五月雨の残像が(かす)かに香る雑踏から隔絶された路地裏は、曲がり角を曲がれば完全な別次元だった。両側から迫る雑居ビルの背面はまるで深い谷、排水溝をねずみの群れが掻くのが聞こえた。耳を地面につけているから、よく聞こえた。


 一体どうして、こんな陰湿な場所で休んでいるのか、三上創は我ながら理解に苦しんだ。


 制服は泥で汚れるし、七月で凍死はないにしろ生温い地面は精神衛生上よろしくない、それ以前に不潔だった。ここは表通りで生まれたゴミが凝縮された、文字通りの掃き溜めなのだ。


 とりあえず、身体を起こそうと上半身を創は捻ってみた。前後の記憶は相変わらず甦らない。だが驚くべきことに、相当長い間眠りこけてしまっていたらしい。


 全身は痺れ。


 特に、腕なんてほぼ全くの感覚が死んでいた。


 立ち上がろうと脳に血液を巡らせたことで、創の意識は少しずつではあるが周囲の状況を捉え出す。擦ったマッチで一本ずつ蝋燭に火を灯すみたいに。


 覚醒の火つけ役になったマッチの火――それが最初に照らし映した感覚。


 横たえて上を向いた創の耳は、あるものを掴んだ。耳なのだから、それがなにかは言うまでもない。よくは聞き取れないが、どこかで耳にした憶えがある。


 割と最近で、生きていくうえで重要ではあるが日常的に行い普段は気にも止めない。


 ……くちゃ、くちゃ。


 もぐもぐ……。


 そうだ、この音の正体は“食べる”だ。


 それで創は、うつ伏せに倒れた先に誰かがいるのが見えた。


 何者だと声を出す前に、後ろ姿で分かった。白のワイシャツはうなじから胸椎にかけ馬の(たてがみ)のような染みが浮かんでいた。


 ――仮名霧(かなきり)先生?


 肩を震わせたのを認め創の推測は確信に変わった。ホワイトボードに板書した時に見せた背後に近くの席の男子が指を差したので創も印象に残っていた。


 それで、ああ……と、創は思い出す。


 授業が終わって帰ろうとしたら、予備校講師に引き止められた。


 思い当たる節のあった創は帰路に生徒を見送ると、踵を返し荷物を机に置いた。


 きし……と、鞄の重力の負荷の分だけ机の脚は軋む。予備校の長机は創の入講以前から予算の都合で一度も買い替えられてはおらず年季が入っていた。引っ搔き傷のような汚れも一体いつついたのか。


 創が後ろめたさを感じた節というのは、これである。正確には鞄の中に忍ばせたもの。いつもに比べ大きな音で鳴った机。見積もってもそれほど大した重さではないはずだが、罪悪感の分だけ、重量感はより大袈裟だった。


 講義中、上の空だったのがばれたのか。講義のすき間に講師は息継ぎし、ほんの一瞬に生じた静寂では壁掛け時計の秒の刻む音は妙に鮮明だった。毎秒に気を配ってはいないので記憶にないが板書から上へ注意が反れる瞬間を目撃されたのかもしれない。


 怒られるのは創は一向に構わなかった。


 だが、持ち物検査だけは、なんとしても阻止しなければならなかった。ここで彼と刺しちがえても。


 背後に鞄を庇う創を、荷物をまとめ終え教員室の電気を消して出てきた講師はなにごとかと訊ねた。


 予備校の入ったテナントビルの照明は全て手動で落とされた。夜に紛れ地面に突き刺さったビルの消灯を創はふり返りながら見届けた。


 急かす講師に追従する。

 叱責はされなかったので講師に悟られてはいない。創の肩に掛かった鞄もこの通り無事だった。

 

 予備校の教室内ではなくわざわざ外に連れ出したということは、話というのは学業とは別の話題なのか。


 いつの間にか西区の中心に位置する繁華街を創は進んでいた。夕食時にはやや遅れているとはいうものの、市を構成する四区で最も人口が密集することもあってか、色々と明るい。賑わう街はここだけまだ世界で昼間のようだった。


 通りすがりにコンビニの看板があった。夏季限定のアイスが新しく入荷したので今度寄ろうと予備校の誰かの会話を聞いた。

 窓に映るファミレスのテーブル席にまだ学生の影があった。創と同年代程度、私服姿で教科書とノートを広げ、脇にドリンクバーのメロンソーダを置いているということは同輩で今日の講義の復習に立ち寄ったと創は推測した。


 それを、講師は全て無視し掻き分けた人混みのさらに奥へ創を連れて行った。


 そこから創の記憶はない。街灯を通す虫食いの記憶を手繰って、目を醒ますと路地裏で講師と二人きりだった。


 覚醒を自覚した創の見開いた目と目が合ったというのに、講師は助け起こそうともせず呆けた創の顔真似をふり向きざまにした。


 仮名霧(かなきり)供為(ともなり)は、予備校でも評判の講師として界隈に通っていた。人当たりもよく生徒の言葉に真摯に応える姿勢、緩やかな口調に毒気はなく多少程度の雑談なら意に介さず授業を粛々とこなしてみせる余裕さがあった。


 新規の入講者の層は、口伝えで流通するそんな彼の評判によって開拓されていた。区の大通りに看板を構え十余年、今時箱型画面のパソコンで問題集と広告用のビラを印刷する予備校が流行るはずもなく、修繕費も納められないので老朽化は進み、井活気のあった当時をセピア色に染める。


 市の駅ビルに新しく開設された予備校は全国展開もする最大手が経営し、財布も温かいので清掃員を雇え壁紙や机は新品のままなのだとか。若い講師も大勢いた。


 安物の茶葉が急須で躍る匂いと湿布薬のハッカ、分煙もされず講師室に設置されたクリスタルの灰皿をつつく煙草から燻った煙……。


ビルの老朽化を長年見守ってきた講師陣の老眼の奥にある新任講師は今年で二十六だったが、生徒とそこまで大差もない。どちらも世間の荒波に呑まれた経験のない子ども。肌だってツヤツヤで羨ましいったらなかった。


 思春期真っただ中で、屈折した価値眼で大人なんて不信の塊でしかない少年少女が惹かれる由縁は、そういった彼の印象を講師陣とは別に捉えているから。親近感、自分たちとは近縁な存在。


 ジジ――寿命が近いのか創の頭上で点滅する路地裏の光。


 見ているなら助け起こしてほしいと目で訴えるが、明かりに消えたり現れたりする創を見つめる仮名霧は背後に異様な影を背負う。


 不安と怖れは同系の感情だが、故に混ぜ合わせるとどちらにも見える一方で、全く別の色になる。赤とオレンジの絵の具を融かし合ってどっちつかずの色になるように。


 仮名霧はどうやらなにかを持っている。両手で肌身離さず抱えるそれはもう、大事そうに。


 創が見ている先で、がぶりと食らいつく。


 ぶちぶち。じゅるじゅる。ごくり。

 噛んで、啜って、呑み込む。


 シルエットではフランスパンのようだが、だとしたら食感に水分が含まれていれば歯応えを覚える前に気持ち悪くて吐き出す。パンは、サクッとしてなんぼの食べ物だった。


 ――じゃあ、なに?


 学校が終わりすぐ予備校に直行だったので昼からお茶以外なにも口にしていない。水筒ももう空だった。夏の始めは持って出る水分の調節がむずかしい。


 優しい予備校講師が生徒に隠れて食べたくなるくらいそれは美味しいのか、ならばと創は一口分けてほしかった。


なんでもいいから口に頬張りたい。ここで腹を満たしたところで家ではできたての夕食が待っている。そうだと分かっていても限界だった。


 気化された創の自我は、生物が共通して持っている、最も原始的な欲望に本来の形を再獲得する。


 だが、あと一歩という場面で中断された。直前で復元作業は固まり、三上創は不完全な意識で顕在した。


 感覚器官の内、五分の四は繋がった。


「ッ!? ひゃあ……!!」


 口に咥えた塊を投げ捨てた仮名霧の背筋が地面にできた水溜まりの上で滑った。そこから地面につくばって後退るようにもがく。


 取り乱す有様を案じた創の心配する声に、耳を塞いだ。頭を抱え苦悩する様によく似ていた。路地裏の黒い海のような闇に身も心も絡め取られる。喉は圧迫され窒息する呼吸を開こうと喉を掻き(むし)り。打ち上げた魚のようで、それ以上の尋常ではない苦しみ方だった。


「どうしッ、て……いきて……!?」


 慄き創を指差す仮名霧は、身体中路地の影まみれだった。


 路地裏は。


 (にせ)の茜に映る創の視界は、血の海に浮かんで真っ黒だった。


 鉄と処女独特の乳の匂いの立ち込める深い海に沈んだ創は、か細いため息をつく。“これが本当の『虫の息』”――なんて冗談っぽく思って。


「ち……ちがうんだ! これだけはわかってくれ! 僕は君を傷つけるつもりは」


 必死に無罪を証明しようとする仮名霧。


 自覚した罪を正直に告白する彼の誠実さは、創も生きる上で参考にしようと日々見習っていた。


「こんな感情、初めてだったんだ。君に逢えた時、もうどうしていいか、こわくて、心細くて……ハァ……ほしい、僕は君がほしいッ!」


 仮名霧は全身の力を、伸ばした腕から創の頸に送った。求めてくる彼に一部を奪われた創は身を委ねてしまう。


「こんなにも僕は君を想って勇気を出して告白したんだ、そんな僕の想いを袖にするなんてひどいじゃないか。()()()()――この言葉の意味も僕が君に教えたんだよ? 恩返しに、少しくらいなら、もらってもいいよね!?」


 ぐ、ぐ、ぐと体重を加えてくる仮名霧は創に救いを求める子どものようであったが、いくら聖母といえど、大切なものを奪った彼の言葉に耳を傾けることは創にはできなかった。


 仮名霧の奪った創の片手。上向きにした手の平には彼女の努力の結晶が刻まれていた。潰れたたこの痕が痛々しい創の手。編み掛けたマフラーは鞄の中にあって、帰った後も編む予定だった。


 仮名霧自身は一部だけだと思ったらしいが。

 彼はここ最近の創の生き甲斐をも奪った。


 懇願された想いに押し潰れながら創は意識を失った。今度は、しっかり自覚して。


 後に『満月事件』と囁かれる都市伝説の原典は、こうして月の下の血の海から生まれた。数多の考察がなされたがどれも真相には至っていない。


 片腕は行方不明で、夏が終わった今も創は、マフラーを作り切れていない。


 もう一度目覚めた世界には秋の足音が近づいてきており、マフラーをあげたい相手は、創の世界のどこにもいなかった。

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