ロマン派と庶民派
病院のベンチに腰かけ、力を抜いた。
別にしようとか決まった目的を伴ってきたわけではない。起きた当初は病室の窓から見えた景色に、そういえば、明日は夏がぶり返したように暑い一日になると昨日のニュースで言っていた。立秋の予感を想わせる風が吹いたと思ったら夏が終わる現実を受け入れられないみたいに暑くなるんだから。
宿題をやり残した小学生たちの願いでも天に届いたのか。神様がいる天空にも、ひょっとしたら宿題があるのかもしれない、再び夏を始めようとしてほかの神様に今さらこっぴどく怒られている、なんて瞼を擦りながら想像するとくすりと笑けてきた。
朝食を食べて、トイレで用を足したのとまとめて眠気を流すと、今日一日なにをするか予定を立ててみた。
「でも結局、特に予定は浮かばなかった、と」
頭に直接響くような友だちの呆れた声に頷いた。部屋を出た当初こそは残暑の楽しみ方をあれこれ考えた。
夏休み中はずっとベッドの上が生活の範囲だった。眠り過ぎて身体も鈍って呼吸するにもいちいち疲れた。
本当は、思い切り走りたかった。だが親や医者からも激しい運動は禁じられていた。
とりわけ母の剣幕は今も激しい。意識が回復し、もう大丈夫と先生と何度も説得してもトイレの度にナースコールを押して同行を乞う始末だった。
「だから怒鳴ったんだ」
それもある。憤っていたのは事実だ。
しかし一人での行動を切望したのは、本音を言ってしまえば、大きな声を出してすっきりしたかったから。おかげでずいぶん肩が軽くなった。
ここ最近、肩は元から軽いのだけど。
訴えは認められたが、激しい運動は控えるよう、なにがあれば手を挙げて近くを巡回中の看護師に合図を送って報せるよう言われたのでランニングは諦めた。仕方なく、せめて気を紛らわせようと本を借りようとしたが。
長時間無意識状態が続いたせいか、どれを手に取ってもしっくりこなかった。
「まあ、いいじゃん。外に出るだけでも気分転換になるよ」
「そう……だね」
石のベンチに座りながら足を投げ出した。
これが、新三巫市病院で最初に目覚めて、三上創がこの世界で取った行動だった。
木々を揺らす風を耳で感じ、葉に透ける太陽は肌に心地よく、昼時前に散策するほかの患者や付き添いの家族、その肩を叩く病院関係者を眺めた。
観測したところでどうこうなるわけではないが、創はそれでもよかった。
「ちよちゃんも、付き合ってくれてありがとう」
「なにを水臭いことをおっしゃいます、あたしと創は一心同体、たとえ火の中でも水の中でもお供しますよ!」
そう側らで太鼓判を押すかのように創に見せつけた力こぶを叩く。
彼女――火原井千代紙との馴れ初めは、中学時代に遡る。
それは決していい思い出とは言えない、はっきり言って思い出したくないが、懐かしい思い出を呼び醒ましたくないのは、今は彼女との時間――その一分一秒が、かけがえのない大切なものだから。
「どうしたのよ、まるで初めて会った頃に戻ったような顔しちゃって」
「そういうちよちゃんこそ……あの時からちっとも変わらないよね」
「人がちっとも成長できてないような物言いじゃない……!?」
爪を立てた千代紙に創はたじろいた。闘争心を剥き出しにした幼馴染みは唸る猫のようだった。背中を丸めた仕草、毛を逆立てた姿なんかそっくりで。いっそわざとらしくも見えた。
背後を通ったおばあさんの創たちを見る目は、危ない人を見る目だった。
「ほら! ――創がおかしなこと言うから、いっしょにいたあたしまで恥かいちゃったじゃないの」
「今のは、私のせいじゃないと思うけどなぁ」
それ以上言葉を続けようものなら、今度はどんな報復を、文字通り、喰らうか。
創が黙っていれば、千代紙は皆の前で大人しくしてくれたのだった。
とはいえ、供もなく会話を引き延ばせられるような話題を入院中の創は持ってはいなかった。入院着は通気性に優れ夏の日差しの下に出れば快適を約束してはくれるものの、収納力に乏しい。
なんでも詰めて持ち運べる学校の制服が、創は恋しかった。あの姿なら千代紙も満足させられる。
まああれを学校で最も使いこなせていたのは千代紙で、風紀委員長の右に出る者は校内に存在してはいなかったが。
『鉄血ドール』と『涼風ガール』。ひと夏を過ぎれば夏休み前に呼ばれていたそんな通り名も季節外れの蝉しぐれのように懐かしかった。
風紀を乱す輩は地獄の底まで追いつめる。冷徹に計算された機械のような取り締まりに生徒の大多数は嫌っていた。しかし、標的になったのは校舎を闊歩する全ての者で、教師であっても特例も例外も認められない。
贔屓はなく、真の平等に一部の生徒は畏怖の念を込め『鉄血ドール』と呼んだのが、彼女の通う高校とそこに通う生徒と交流のある他校で知れ渡る火原井千代紙の通称の発祥だった。
だが、やはり行き過ぎた指導に対する反応は、反発がほとんどだった。一生徒が行使できる権限を激しく逸脱した越権行為に異議を唱えるのは無理からぬことであり、生徒の面前で身だしなみを注意された教師は面目を丸潰しにされ。
かといって委員長の任を解こうとすれば、聖職者が生徒にやり返しをしようとした確証を周囲に与えかねない。
大人は、自分の用いることのできる権利を子どもほど弁えているのだ。良くも悪くも。
そんな、不正は決して認めない熱い信念と、徹頭徹尾冷酷に徹しようとする千代紙の被害者たちを救済したのは、彼女と同じ制服を着、同じクラスで『鉄血ドール』と最も長く接していた生徒であったとは皮肉な話だった。
しかしこれも事実である。彼女の雰囲気は鉄拳を受けた心の傷口に沁み込んで、微笑まれた不良の一人が涙を流したなどというウワサまである。母親の愛情を受けずに育ちグレてしまった生徒は、やがて愛を知って更生を果たし、学年でもトップ5の成績を収め。
将来の夢は、神父なのだとか。
新三巫市の慈母は、間違いを正されるよりも優しくされることを切願した地で多くの民の心を癒した。
時同じく『鉄血ドール』は蔑称というイメージが一般化し、最も身近で知りながら火原井千代紙と双璧を成す彼女は誰が呼んだか『涼風ガール』とやがて親しまれるようになった。
猛暑に吹く春の風を連想させる愛称は口ずさめば清々しくなり、彼女の名前ともぴったりだった。
「よっ! 我が校の誇る“おかあさん”!」
「熟語の名詞だけ切り取ってみると、途端に庶民派になっちゃうんだよね」
かけ離れているようで、元のイメージと乖離し切れない。
有り体にいってヘンテコなそのギャップは、さしずめインドのスーパーでレトルトカレーを買いにきたようなものだった。
「あたし断然ロマン派!」
元気よく手を挙げた千代紙には申し訳ないと思いつつも、思わず創は頭を抱えた。
「残念ながら、庶民派の対義語はロマン派じゃないよ」
こんなスケールの小さな話題に喩えられては、シューベルトもピアノの鍵盤に指を叩きつけ魔王を千代紙に弾いて聞かせる。作曲した自身の曲の難易度に癇癪を起こしたのは有名な雑学だが、現代なら黒歴史と認められるような性格を何百年も語り継がれるとは、シューベルト本人はおろか彼の友人も思っていなかっただろう。
自分の過去の行い、逸話が、名と共にどう後世に残るのか。それこそ、まさに名声と偉業への“ギャップ”だった。
「だいたい、学校での私の印象ってちよちゃんの行動の基に成り立っているから、自分のイメージって実感湧かないのよね」
偶像崇拝とか信仰とか。火原井千代紙に虐げられた(彼女自身はあくまで救済のつもりだが)者たちが三上創に位置づけた印象はそれに近い。
過剰、行き過ぎているとまではいかないが、正直肩の凝る思いだった。
「誰かを好いたって……自分が不幸になるだけだよ」
夏風にたなびく入院着の腕の袖を追い、創は呟いた。
「まあ、そうだよね」
火原井千代紙も創の主張を否定しない。
「まだ痛む?」
「……起きている時は、もう平気だって言ったじゃない」
夢の中だと時おりまだ疼くが、睡眠薬を貰えば辛い夢も視なくて済んで、ぐっすり朝まで眠れた。
「それに、起きていると」
「“素敵な幼なじみが、お見舞いにやってくる”?」
誰だ誰だと、ニマニマさせた顔を近づけてきた千代紙に。
うん、と。
「夏休み中ずっと病院に通うなんて……健気な幼なじみもいたもんだ」
「すぐそうやって調子乗る。でも、ありがとう」
笑うと、照れて赤くなった顔を背ける。
そんな千代紙が、創は。
「ちよちゃんが側にいてくれたから、もう大丈夫!」
本当はどちらでいたいのか。
創本人にも判らなから、もどかしい気持ちをこの時は誤魔化した。




