プロローグ
国道のど真ん中を歩いていると、偶然目に入ったコンビニに入った。そこは学校帰りにいつも通っていた馴染みの場所というのではない。オリジナル商品だのマンションの下か歩道に面しているかで店舗ごとの違いこそあれ、コンビニなんてどこも大して違わない。
といっても、店側としては、そこをたまたま通りかかった女子高生が目に留まってくれたおかげで今日の売り上げがアップしたのだから、偶然に感謝だった。
「あの、ちょっと尋ねたいんですが」
今日この時間帯、レジ番を担当していたのは若い男だった。高校に通う彼はここでバイトを始めてまだ数日と経験は浅く袖を通して間もない制服はどことなく大きい印象を全体に与えた。
「あ、はい!?」
客の方から初めて声を掛けられたバイトが上擦った声で訊き返す。
「あなたは――かみさまって、いると思います……?」
「“神様”ですか? ……そのような商品は当店に置いてはおりませんが」
言い切った後で、バイトのはっと竦んで顔から血の気が引く様子が背後の頭上の監視カメラに録画された。やり取りの一部始終を裏手の事務所にあるモニターで視聴していた店長が見兼ねて私服姿で出てきて頭を下げた。
「大変申し訳ございません!」
一拍半ほど遅れてバイトも青ざめた表情のまま腰を折った。
やってしまったと後悔する頃には、もう手の施しようがなかった。
「し、しつれいしました!」
覚えたばかりの謝罪の言葉はまだぎこちなかった。
「……あなたは、いるって言われる前から信じていますか、かみさまを」
「あ、あの……?」
店長とバイトはぶるりと身を震わせた。自然と肩なんて寄せ合い、ぱんと手を叩けばびっくりして抱きつきそうな距離、それは互いの信頼関係を表すかのようだった。
「ど、どうでしょうね? 毎年元旦には近所の神社に初詣に行くくらいには、信じてますかねぇ」
まだ研修期間中とはいえ一人でレジ番を買って出たのはバイトが先だった。シフト内でこなすべき業務は一通り見てきたし、見学した後で反復できるようには成長したので、もう大丈夫と判断したバイトの発言を店長も信じてしばらく任せてみた。
それが、まさか初のレジ打ちに立った日がこんな日になってしまうなんて。
「お茶って、どこにありますか。ウーロン茶、歯が茶色になるくらい濃いの」
喉が渇いたような、べたついた声だった。
「ウーロン茶ですね、でしたらあちらのコーナーに」
骨なしチキンが陳列する揚げ物コーナーの棚から放射される脂ぎった赤熱の光を頬に受けながら店長がカウンターから身を乗り出すと、指した腕の方角に女子高生は静かに歩いていく。
彼女の両足は、靴はおろか靴下も履いていなかった。産毛を綺麗に剃った生足にはほどよく筋肉がついている。汗をかいた足の裏でタイルを踏めば若々しい痕跡が魚拓のように残った。
葉月を超えたとはいえ、窓から射す西に傾いた日差しはまだ夏だった。
あまりの暑さに絶え兼ね靴下と靴は途中で脱ぎ捨ててしまったか。外で炙られたアスファルトの温度は焼肉屋の鉄板並みになる。にしては少女の足は黒くもなければ赤く腫れてもいない。
冷ケースの照明を跳ね返す足。絹ごし豆腐よりも白く、水気のある肉の躍動。想像する滑らかな質感を空白の手の平で掴んだバイトは、客相手、それも同世代の異性になんて想像を膨らませているのかと手を袖で拭った。
にしても不気味な客が来たもんだと、習ったばかりのレジの操作を画面に触れつつ思い出すバイトは天井の鏡を上目遣いに確認した。目当ての商品を細かく指定してきたにも関わらず、冷蔵庫の前で女子高生はまだ腕を組んで物を取ろうともしない。
あの制服、やはり間違いない。まだ新しいプレートのはまった事務所のロッカーの中には、あれの男子生徒バージョンがかかっていた。
「あれ、新三巫西高の制服だよね?」
アルバイトの履歴書を読む以前からコンビニには学校帰りの学生がよく出入りしていた。
だがこんなケースは、バイト時代からこの街でもう十年間店長を張ってきた男も初となるケースだった。
埃を被った鏡でも、少女の制服はボロボロだった。その泥の飛び散り具合とかシワのつき加減とか、昨日今日のものではない。もっと以前から慢性的にくたびれた結果と言った方が正確だ。
不自然は前者単体で成り立たず、衣類の密着していない部分とセットだった。もう何日も家には帰っていないと断定できた。しかし少女の肌には服から飛び移った汚れの痕跡もなかった。
店内を一巡した後、手に持ったウーロン茶の勘定を済ませた少女は店を出て行った。
「お疲れ様」
隣でため息をついたアルバイトに店長はSサイズのレジ袋を畳みながら苦笑した。
「世の中、いろんな人がいるからね。本当ここに立って仕事していると思い知るよ」
環境に配慮してレジ袋を断ったということは、あの子はまだ『マシな部類』に数えられる。
「でも、いきなりあの質問はさすがに反則でしょ? ――もうやめたい」
「いちいち音を上げていたら続くもんも続かなくなっちゃうよ」
「店長すごかったです。あんなすらすらと、僕なんてまるで」
「要は経験さ、ここで経験を積んでいけば君も答えられるようになる。お客さんいなくなったすきにちょっと一息つきな」
勤務開始からまだ一時間も経過していないが、店長の厚意には甘えた。
「店長って、元旦には初詣行くんですね?」
胸を膨らませ深呼吸したアルバイトに店長はドキッとしつつも答える。
「神頼みでもしないと今のご時世やってけないからね。そう言う君こそどうなんだ、来年受験だって言ってたけど?」
高校から、ずっとこの道一筋で稼いできた店長の目には、隈が浮かんでもどこか活き活きと輝いている若者の眼差しは眩しかった。
「なんか、どうでもよくなってきて。必死に勉強して大学進んでも、将来なにしたいとかないし。外は相変わらず物騒そうだし」
一生懸命、それこそ学校が終わった後も夜遅くまで予備校に通っても進みたい将来が確約されているわけではない。選挙権を持ったところで投票したい政治家はおらず、未来をテーマに親や教師に説かれても、受験とその息抜きのゲームのことでいっぱいになった心は動かない。
あの少女も――というか、今の若者には悩みを抱えきれるほど、腕の長さは足りない。長い足で歩けば窮屈な世界に息苦しさを感じるだけ。だから目に入った他人に片っ端から訊こうとしたのかも。
――かみさま、か。
そんなのが本当にいたら、確かに街の若者から愛されそうだ。
「確かに俺も女は当分懲り懲りだ。念のため警察には後で電話しておこう」
自分達がなんらかの事件に巻き込まれた可能性を考えた方がよかった。アルバイトを守れるのは、店長である彼だけ。
「わかりました、でも店長――その前に」
使命感に駆られた店長を強引にふり向かせたアルバイトの高校生は、引き絞られた唇に熱い唾液を送った。
「なにッ――!?」
「さっき、女はもう懲り懲りだって言いましたよね……? ――僕もです」
学校の制服に沁み込む汗のにおい。アルバイトのにおいに脳の一部が焼き切れそうになった。
素振りで鍛えられた腕で頸を絞めてくる。履歴書の部活動の欄には、剣道部とあった。
胴着を纏い声を張り上げ竹刀を振る少年の姿を想像し、彼の勇姿を特等席で観覧したありもしない疑似記憶に、店長は運動不足の手を吸いついてくるアルバイトの背後に廻す。
床屋に行ったばかりで、きらきらと光を反射させる刈り上げの後頭部は汗をかき、冷房でひんやり冷たくなっていた。反して身体から起こる熱に心臓は高鳴りを抑えられない。
成熟したばかりの人とは、こんなにも熱かった。
頬肉の中で躍るねっとりとした舌――不規則に伝わる感触は、頭を落とされたまるで小蛇のようだった。
「これで、二人ともクビだな」
唇から糸を引かせ店長は呟く。カメラにはここまでの一部始終がしっかりばっちり録画されていた。本部にも送られ、早ければ明日にも追及がはじまる。
幸いなのは、監視カメラには音声を拾う機能はなかった。
「僕の方こそ、すいません」
「最期に自分の気持ちに気づけたんだ。感謝したいくらいだよ。親御さんには、素直に殺されるとするよ」
「させません、店長は――僕が守ります!」
部活で体力は鍛えてきた。竹刀を取れば大人にだって負けない。
「やっと、本心を見つけたんです。両親は僕が必ず説得しますから」
潤んだ口元には、彼以外の一部がついている。元の所有者だった店長は拭き取ると、うんと頷いた。
「とりあえず今日の仕事を終わらせるとしよう」
「――はい」
と、声を張った拍子にアルバイトは思い出す。店長の仕事を奪った申し訳なさ、身体の芯を焼いた背徳感に向いた気持ちを突拍子もないことで逸らそうとしたのか。
印象がすっかり変わっていて、あれが知り合いだと気づかなかった。知り合い以上の付き合いで後輩ながら受けた恩義は店長よりも多く厚い。
剣道部所属で部長だった少年の後任――新三巫女西高校二年。
だが彼女を証明していた肩書きは、かつて三上創だった彼女の名の共にこの世界から消失うしなわれ久しかった。




