暴食
鞄を背負った男は、道の真ん中で自転車を止めた。
夜勤明けの若い男の汗でぱりっと乾いた髪には、勤め先のコンビニで彼が自ら廃棄した消費期限間際の菓子パンの匂いがついていて、マウンテンバイクに跨った男から仄かにする汗と甘い香りに、通行人は未だ目覚め切っていない目でふり返った。
男の見上げる先。開店前のショッピングモールの屋外駐車場に車は一台も止まっておらず、施錠された出入り口のセンサーは作動の兆候もない。深緑を燦々と輝く黄金の膜で覆ったかのような日光の下の植栽の枝木は風にそよぐ、今日一番の新鮮な日射しを全身に浴びるように。
このショッピングモールで、昨晩、なにやら事件があった。レジ番をしている時にサイレンを鳴らした数台のパトカーが店の方角に急発進するのも目撃した。野次馬も大勢集まっていたらしく何人かがコンビニに流れてきた。
平日でもそれなりに賑わう商業施設なら、小さなトラブルは小規模の商品を扱うコンビニと比べれば枚挙に暇がない。たまに万引きや置き引きの情報提供を呼びかけに警察がやってくる日もある。バイトである男も何度か対応したが、有力な情報を返した経験は――残念ながら。
警察も野次馬も、跡形もなく店の周囲から消えている。空気はとても清々しく吸い込めば疲れた脳がほんの少しだけ冴えた。
仕事帰りに見る、ありふれた光景。これから働きに出る人の群れとは逆方向に家路につく。朝食は勤務先で買ったカップラーメン。朝に食べるには胃が重い高カロリーのカップ麺は、男には夕食の替わり。
風呂で汗を流し腹を満たすと、陽が落ちるまで眠る。本格的に夜勤を任され数ヶ月が経とうとしているが、夜型の生活に今も慣れていないようでレジにいても、よくあくびを噛んだり立ち眩みを起こしていた。
不向きな生活を続けたせいで軽い貧血を起こしたのかもしれない。
何だか、これじゃあまるで吸血鬼みたいだな――昼夜が逆転した生活サイクルを男は不死身の怪物に喩えた。
「夜勤の方が時給は陽がある内より高いし、食べていくには贅沢も言っていられないよな。吸血鬼とちがって……人は、生きているんだから」
ハンドルを方向転換した男はショッピングモールを後にした。一時は心を駆り立てた興味も疲労に塗り潰された。
朝になる前に警察も野次馬も帰った。
ほんのひとときの間、街を騒がせて――結局は大したことのない事件だったのだろう。
平和なのはいい。平穏でなにより。
気持ちのいい朝にマウンテンバイクを走らせた男は誰に言うでもないひとり言を呟きながら、ペダルに力を込めた。
「でもこうも毎日が同じだと、人生に張り合いがなくなるよな。“生きるのに飽きてくる”ってゆーか。あーあ……代わり映えしない日常、ならいっそ、神様だがバケモノだかが滅ぼしてくれないかな? こんな退屈な世界」
+++
寝不足気味のアルバイトに世界の滅亡を神頼みさせた太陽が西に傾く頃、五上灯真は病院にやってきた。
「やあ、先輩。あんまり来るのが遅いから式はそろそろ帰ろうと思っていました」
病室の入口横のベンチに背を預け灯真に手をふるのは高校の後輩。細い手足に小さな頭、ショートヘアーの黒髪がかわいらしい――学校一の問題児。着崩れどころか注文ミスという理由でセーラー服で登校する“彼”は一度も授業に出席しない。いっそ、彼だけ机を時間潰しに無断で利用している屋上に移転すればどうかと職員室で意見が上がっていた。
「面会時間を過ぎた後で、来てもよかったかな」
「この病院は、患者も含め式のものですから。入りたけばご随意に。式は『魔法使いの末裔』なので」
足を組み得意げに式は胸を張る。先輩への態度は軽薄という意味を国宝級の礼儀作法に変えてしまうほどだった。
「見た限り、とてもお疲れですね。気分転換――あとこれからの“覚悟”に、式と少しおしゃべりでもしていってください」
「魔法使いとそう気軽に口を利いてもいいのか?」
「式は末裔であって、設定上『魔法使い』が入っていても先輩の妄想上の魔法使いとはちがいます。いくら式が胡散臭いからって。駄目ですよ、先輩? 人を見た目で決め付けちゃ」
「設定って、それ自分で言っていいの?」
思わず苦笑を洩らす灯真に式は『逆に式以外にだれが言うんですか』と苦笑で返した。
同じ表情でも、式の笑みに灯真は感じた。
――ここまで露骨に、年下に憐れまれるとは。全く同質の動作でも、個人の感情をしっかり乗せて差別化が図れている。一瞬上げた肩を重力に従って石が水中に沈むように下ろした。
「魔法使いにもいるんです、いろいろと。式はオンリーワンですけど」
ここまで行き着くと灯真には自画自賛にしか聞こえなくなっていた。式はというとさらに背中を反らせた。
そんな後輩の様子にまた笑う灯真に、特にこれといえる感情はまたもない。
半ば無意識に変えた苦笑いはただの苦笑いだった。
「お母様に選んできたんですか、その花?」
「うん」
曲線を描くように間延びした式の口調。興味津々に覗き込む顔は想像するに容易いが、胸で花束を抱えていては灯真には確かめようもない。
金額にして三千円丁度、財布から取り出した紙幣三枚の重さは、価値に見合うだけの重量を有してはいない。目を瞑り触れたその正体は、数センチ四方に裁断された大量生産の紙だった。
それが、まさか両手と胸で支えてもまだ感じられるほど、まだ――“重い”なんて。
西区の病院に母が入院することとなり、灯真が使える金はわずかな紙幣と財布を圧迫するだけでさして高額ではない硬貨だけとなった。
一昼は式の所有する廃遊園地の観覧車で明かした。どことなく生活臭がして尋ねてみると以前にも貸していたと所有者の返答があった。
嗅いだ限りでは、かなりの歳を食ったにおいだった。貸していたのではなく――『棲みついていた』ではないか灯真は疑いを強めたけれど、式は最後まで譲らなかった。
「こんな高校生に寝床をねだるなんて、どんな大人だよ」
灯真の呟きに、式は苦笑を重ねた。
「先輩、実は橘先輩と馬が合うかもです」
意味の読めない言葉は、灯真の不安を煽った。
「……母さんは、本当にもう、狙われないの?」
式折々が魔法と称した力で街の警察が今回の一件で五上涙子を訪ねることはない。絶対に見つかることのない失踪人も親子とはなんの関係もない世界で処理され、灯真は顛末を最後まで見届けられない。
「彼女の仕事は、街を脅かす〈魅人〉を完全に滅ぼすことでしたから。魔眼が完全に消滅――蒸発した。であれば、街から消えますよ?」
――あの人にとって、ここは居心地がいいとは言えないですし、と、式は疑問符に付け足した。
「母さんといっしょに屋上にいた、あの二人は……?」
式の話によると、彼らは吸血鬼退治を生業するプロの殺し屋。あの二人が全世界を渡り歩いて、吸血鬼を絶滅に追いやった。
「母さんに移植された眼の、前の持ち主とも因縁浅からぬ関係なんだろう? 放置すれば、また」
「あの二人は、魔眼よりもずっと長く続いていた因縁にようやく一区切りつけることができまして、それが、間接的に今回のおかげなんです。吸血鬼の遺産が破壊されることを見届けて、お二人親子の命まで採らず去ったのは、先輩方を庇護下に置いた式とやり合えなくなるまで消耗して、それどころじゃなかった……が彼らの隠したかった本音なんですが」
新三巫市で五上涙子の安全は、式が命尽きるまで保障される。
「それでも、首を斜めに振らない相手を説得させるのは大変でしたよ」
伸ばした足が折り畳まれると式の関節は疲労に壮大な音を立てた。まさに“骨の折れる”作業だったのだと、灯真は尽力してくれた後輩を少しでも労ってやりたかった。
不死身の怪物を殴殺し、完全無欠だった母も屋敷で闇討ちするような連中だ。遭遇したのは一端に過ぎなかったが、彼の両腕に憑依していた波動の前では常闇も断裂する。破格の暴力は、生物の臨界に到達していた。
そんな奴を説得して身を退かせた式も、灯真には十分、恐ろしくおぞましいバケモノに見えた。『吸血鬼殺し』も近くからでも愛くるしい子どもだ。
「初見だと式も本音で驚いてしまいました、あの肉ダルマの幼少期がまさか『あんな』だったとは」
達磨とは、外見についてとやかく式も人を見る目がなかった。
「敵だったけど……あんな可愛い子に失礼じゃないか」
「…………」
「なんで沈黙なんだよ?」
後輩と二人きり――病院の廊下に漂うなんとも言えない空気に灯真は悲鳴じみた声を花束にぶつけたのだった。
「……母さんの目、傷は深いの?」
太陽に焼かれ融け崩れていた涙子の瞼。融解は頬の骨とこめかみの付近にまで及び、ショッピングモールの屋上から抱え上げたのが待ち焦がれていた息子だとも認知できなかった。
「あんな……痛々しい火傷の痕、よりによって母さんの顔に、これからずっと残るなんて……!」
膝を殴ろうとふり上げた灯真の拳が、横から割って入ってきた手に掬い取られた。
「傷はこの子がばっちり治しました」
「……君は……!?」
それは虚から顔をおずおずと覗かせる穴熊のようだった。
ふり上げられた拳は怒りよりも勝る悲しみに固い。それを止めるということは、即ち灯真の母への想いを全て受け止める行為。そんな真似が予告もなく衝動で発生した――さぞ自信に溢れた者による仕業かと灯真が見てみると。
無粋な真似をしてしまった、と。拳から手を離す中腰の少女は灯真に謝りたい衝動を必死に耐えていた。
いつまで待っても自己紹介しようとしない少女に代わって式が灯真に紹介した。
「この人は鵟虚子さん。秘密があって式が生活費を出して世話している女の子です」
「坊ちゃんの紹介って、なんだか悪意が含まれているんですよね」
「わかる」
これには灯真も激しく同意した。文章に起こして読み返せば、制服に鞄を持ったこの少女に打ち明かせない事情があって式に匿われているようにも取れてしまう。
「君が、母さんを治療してくれたの?」
「いえ、正確にはわたくしが治したのではなくて」
見たところ、虚子という少女は学生。灯真とそれほど歳も離れていなかった。式の営む病院では女子学生にメスを握らせ外科手術もさせるのだとしたら、あるいは――。
「! ……その手!?」
ずっと会えていなかった母親に花を持って面会にやってきた。しかし扉を隔てた向こうで母がどのような状態で待っているか、再会の嬉しさは緊張に押し潰され、渡そうとする花束には手汗で濡れていた。
式が花を預かろうとした理由は、これを見せたかったのだと灯真は確信する。手を取ったのもいよいよ怪しい。
拳と共に手汗を受け、虚子も灯真と同じ目に遭った。異性の汗が手にべったりついたのに、しかし気持ち悪がろうと虚子はしない。
灯真に限らず、学校のクラスメイトを虚子には男として見れない。
「わたくし、人より少し長生きで。わたくしの血を浴びると傷が治るんです」
「人魚の肉を食べたから」
虚子の手の平は魚の鰭のように鱗に覆われていた。
乾いたようなは虫類ではなく、水を泳ぐ魚の瑞々しい鱗だった。
「〈魅人〉が母親ですと驚きませんか」
「母さんは人間だよ、僕も」
「そうですね、だから治せたんでした」
「母さんを助けてくれて、君にも礼を言いたい」
「わたくしにあなたの言葉を聞く資格など……! 記憶は、元に戻せませんでした」
「……記憶?」
束ねられた花の種類を吟味した式はそのまま返す。
「魔眼は神経を介し、お母様の脳とも深く結びついていました。恐らく魔眼は、記憶領域から、お母様の意識を乗っ取ろうとしたのでしょう。記憶を司る部分は吸血鬼化していました」
そして逆に涙子に意思を乗っ取られた魔眼は全盛期に最も近いまでに〈始祖〉の力を快闊に顕した。涙子の記憶を中継し。
「じゃあ、母さんは記憶喪失になったって!?」
「忘れたのは魔眼を移植して以降の記憶です。視力のない状態で憶えた記憶は魔眼にも奪えなかったのでしょう」
「あくまで、はっきりとした確証は得られなかったんだね」
「なにを憶えていて、なにを忘れたかは……共に過ごした人にしか判りませんから」
あとは実際に話して灯真自身に確かめてもらうしかない。
式は灯真に花を返した。
「安心したような顔色ですね」
「……そうかも。母さんが忘れて、なにもかも『なかったこと』になると思うとついね」
口ぶりから後輩が灯真について涙子に確かめたのは事実である。失われたのが怪物だった期間だけなら、魔法使いの言う通り安心するかもしれない。
命を狙われ、その身を太陽に焼かれた。生きるためとはいえ人も食べた。泣いて怯えて、血を吐くように謝罪を繰り返す涙に溺れた涙子の顔。
母から夜の記憶は消えた。
母の記憶は、息子には現実よりも価値は尊い。死屍類累の来訪から――涙子の身に覚えのない灯真の憶えている数ヶ月間の出来事は、現実には起こらなかった。
「“なかったこと”――そうきましたか。当事者として実に的を射た総括ですね。確かにお母様は〈魅人〉だった記憶を失くし、今後お二人を罪に問おうとする者は出ません。自然の摂理に従って、捕食者が被捕食者を襲った。どこまで突きつめても、今回はそれだけの話なんですよ」
獅子が人を食い殺しても人は獅子を法廷に立たせることはできない。
式の家系にどれだけの支配力があろうと、所詮は大都会から隔絶された錆びれた街での権力。情報を隠ぺいするにも限界がある。
不可解な失踪事件に好奇心を駆り立てられ足を踏み入れようとする輩も今後はしばらく増え、様々なウワサが飛び交うだろう。道端に転がる石ころのように見向きもされないモノの中には、核心に迫った宝石も紛れている。
そういった場から世界に拡がるのが、都市伝説である。
「ところで先輩、罪と罰――先輩はどちらが先だと思いますか」
降って湧いたような質問にしてはかなり哲学的な疑問を式は灯真にぶつけた。
「それは、罪が先にあるから罰せられるんだろう」
罪状に沿ってそれに見合う罰則が与えられる。
現行法で食物連鎖の上に位置する捕食者を罰する法がどの文明にも提起されていないから、人類は母子を裁くことはできない。そういう話をしていなかったのではと灯真は訊き返した。
「“問える罪はないから罰も下らない”――でもね先輩、一度起きたことをなかったことにするのを、世界は認めてはくれないんです」
「……どういうこと……?」
「この数ヶ月、お母様は人を食べた。覚えた空腹と満腹、顔見知りを手にかけた罪悪感、腹が満ちる安堵感――記憶を失っても身体はちゃんと憶えているんです。脳とは別の器官が」
食べ物を噛んで消化する、腹が空いてまた満たされれば全身の血流は変化を来たす。それを全て脳がやっているのではない。
しかし、獲得した感覚は脳を経由する。過去は汲み取られ記憶として保存される。
「今日から、お母様は身に覚えのない感覚に苦しめられることでしょう。悪夢に出てくる知らない顔にうなされ、近所で起きた事件は初めて聞くのに、謝りながら目を伏せてその場を立ち去る。朝が来る度に、太陽から身を隠すようになる」
“全部、自分の意思が起こした行動です”
「母さんが、自分自身を苦しめるって――」
「だれも罰してくれない、だったら自分で自分を罰するしかない。罪と罰――先も後もないんですよ」
だれかが自分を罰してくれる。罪から逃れても世界は必ず見ている。そう信じて、他者に判断を委ねようとしたいが。
他者も神も、事実は無関心極まりない。
「僕らを助けるのは、それを憐れんで?」
「先輩の力になりたかったのは、式なりの“罪滅ぼし”って言いませんでした。言ってませんでしたっけ? まあともかく、お母様に手を貸した先輩にも近い将来、それ相応の罰が下ります」
脅しをかける式に、灯真は自分にどんな不幸があるか訊いた。
「さあ……式も死屍類累に会うまで、罰があるかどうかも判らず生きていました」
「彼は“自分は『魔法使い弟子』だ”って母さんに言っていた。やっぱり、君達は知り合いだったのか?」
母に光と、息子が自分とどれだけ似ているか教えてくれた恩人の師匠かもしれない後輩に、どこに行けば彼にまた会えるか灯真は訊ねたかった。
自分のせいで全て壊しておいて、新しい人生をくれた恩人をいつまでも“死人のような不吉な雰囲気”だと評価するのは忍びない。
吸血鬼の眼なんか売りつけて人の人生を無茶苦茶にした魔法使いを口汚く罵って、母が息子の顔を見て笑えたのに心から感謝し――今日までのことを謝りたい。
「罪も罰もない夜だったけど、彼への責任まで、僕は嘘にしたくない」
灯真の欲求を満たす答え、それを『魔法使いの末裔』は持っていない。
師弟の決着は今も続いている。会いたくても死屍類がいる場所に至り、彼を連れ戻す方法は元の式の記憶にも解明されていない。
灯真にも、虚子にも悟られない方を見やり、無力な式折々は世界へ慄いた。
「……これから、彼の名前を忘れられないのが、式の“罰”なのかもしれません」
病室の引き戸が開く気配がし、涙子はベッドに背中を預けたまま外と思しき風の入ってきた方角に首をふった。
「母さん」
「灯真ちゃん、来てくれたの!?」
「親の入院に見舞いに来ない子どもはいないよ」
息子の声が耳を震わす。
胸の奥が熱くなるのを実感した涙子は灯真の前では気丈に笑顔を保ちつつも――自覚した。
憶えている限りではそう時間は経っていないはずなのに、息子に会えず、心細かった。
事故か病気か、気がつけばベッドの上にいた。看護師から説明を受け病院の個室ベッドにいるのを知った。看護師にしてはやけに若い声、息子とそう歳の違わない声だった。
「傷の具合はどう?」
「痛みはないけど……どうしてこうなったのか」
マンションにいるとだれかが訪ねてきた辺りの記憶までは朧気だが憶えている。それ以降は、紙が燃えてそこに書かれていた文字が、穴が空いて読めなくなったようにどうやっても思い出せない。
頭には備品室でついたのだろう消毒薬のつんとした香りの包帯がぐるりと、両目を覆う形に巻かれている。頭の奥は記憶を思い出そうとしなくても常時ひりひりと痛い。
入院することになった経緯を知りたくても、看護師の対応を受けた涙子は、はぐらかしているような気分にさせられた。止血の跡があるということは、家事の途中で怪我をしたとだいたいの推測はできたが。
「どうしたの母さん、浮かない顔をして」
「……ううん、なんでもない。あら、いい香り」
「ここに来る前、花を買ってきたんだよ。ここ殺風景だから、母さん落ち着かないでしょう」
花束の包装はテーブルの上でくしゃりと音を立てた。
救急車で搬送されたなら、通報したのは灯真しかいない。息子だけが、空白の間になにが起きたか知っている。
「ありがとう、灯真ちゃんは、やっぱり優しいね」
全てを知りたい衝動を涙子は笑顔でかき消した。
憶えていない間に灯真に迷惑をかけたかもしれない。献身的に病院にも足を運んできてくれている息子を知らず知らずのうちに失望させてしまったかもしれない。
灯真が見たであろう、自分の知らない一面を知るのが――涙子は恐ろしくなって訊こうとした口で笑みを作った。
「でもお母さんは大丈夫よ? ここが殺風景かどうかも――お母さん、見えてないんだし」
自分のいる病室が思った以上に広いのも灯真の口から初めて知った。
まるで母の眼が最初から視えているように灯真は言った。
「……そうだった」
灯真の手の感触。手の甲を撫でる暖かい指先を実感しながら。
涙子はくすりと微笑んだ。
「今度はどうしたの?」
「不思議ねぇ、こうしてお話していると……灯真ちゃんがどんな顔をしているか、お母さん知っている気がして」
そんははず、ないのに。
涙子にとって息子の記憶は、彼の声と生まれた時に抱いてから変わっていない温もり。夢では何度も見たが、思い描いた妄想と現実が正しいかどうか確かめる術はない。
この手で抱き上げおっぱいを飲ませ、歩けるようになったら逆に抱きしめてくるようになった。手を繋いで近くの公園まで散歩した時は引っ張って道を示してくれた。背を追い越したと自慢げに言うようになっても、ちゃんと触れてくれる。
だから、視えなくてもよかった。息子は、灯真ちゃんは――そこにいることをちゃんと教えてくれる。
でも。
一生に一度くらいは、息子と肩を並べ、鏡の前に立ってみたい。
「そうか……これが、君の言う」
「灯真ちゃん……?」
「…………なに言ってるんだよ? おかしな母さん」
「そうね、なんだかまだ身体の調子が悪いみたい」
苦笑する灯真の触れる手。
包装紙を解いて花を花瓶につける際に濡れたのか。
だが涙子の手にもついた水滴は、十一月しては、妙に温かく感じた。
灯真もどこか元気がない。
退院したら、いっしょにお菓子を焼いて食べよう。スーパーの専用コーナーで新しい紅茶の茶葉を買って息子を喜ばせてみよう。
(ダージリンティーに使われる茶葉のチャノキの花言葉は――『追憶』、『純愛』だったかしら…………あれ、だれに教わったんだっけ?)
人生を変えてくれた大事な人に教えてもらったはずだが、名前と顔を思い出せない。
そんな涙子は、息子といっしょに食べ、飲む菓子や紅茶の味が。
以前ほど、美味しく感じられないような予感がした。
これにて『グール編』完結です!
次回は時間を戻して暑い日の話をしてみたいです。




