Eve,hell,Lose yourself
その日のインターホンも、取ったのは五上灯真だった。
以前は母も応対したが、灯真が中学に上がりすぐの頃、登校中に怪しい勧誘とやり取りをしてから宅配は休日指定に、平日中の突発的な訪問は断るのを厳とした。
日常生活を送る分には問題ない。この生活は昨日今日始まったことではなかったし、来客の対応は、一人立ちで廃れた実家での習慣を復活させようと提案したので、学生時分から続いた習慣の方が母の身体には合っていた。
そんな息子も、制服を着て学校に通った母の年齢に近づいてきた。
月日の経つのは早いのね――感傷に浸る言葉も今や母の立派な口癖だ。生活の一端で呟く回数も増えた。半日に一回のペースは字面では少なく感じるかもしれないが、遠く、どこか寂しそうな眼差しは、時間を共有する家族としては大袈裟に多かった。
うふふ、と。掃除機をかける手を止める母から逃れるようにインターホンの通話ボタンを押した。
「はい?」
「お母さんの目が、視えるようになれば、うれしくないですか」
疑問の有無を言われる前にまくし立ててきた。
築十五年のマンションは駅とスーパーから離れた距離にあるので家賃が比較的安い。オートロックはなく防犯性が低いうえにコンビニは道二つ越えないと見つからない。水道代を振込忘れた時に膝にかかる肉体的疲労は、都心では味わえない。
1LDKの部屋で親子二人で住むには窮屈に感じるかもしれない。
だが家賃を抑えられるこの利点は大きい。
なにより。高校受験を迎えても、灯真は反抗期がどういったものか知らなかった。布団を並べて眠る生活について母から心境を心配された時期もあった。苦ではないと説得してもなかなか信じてくれないのでむしろそっちに骨が折れた。
だから。
スピーカーで機械化されていようがいまいが、灯真にはその質問の意図が掴めなかった。
廊下を一段下りた玄関の鉄扉一枚、厚さ数センチの先に気配を覚えた。
古いカメラでは目深に被ったフードに隠れた顔は視認できない。
インターホンの位置は全室を共通に大人の頭頂部から心臓までの高さを捉えるように調整されている。相手の表情、職業を対応者に認識させるための配慮だ。
小柄な容姿に本能の奥が油断しそうになるのを理性で抑制した。〝うれしくはないか〟――上から目線な発言で悟らせないよう誘おうとするが、家族構成をあらかじめ調査している。
前回、母が応対した際は息子の話題を話の導入にされた。高校受験を控えた息子を女手一つで育てるのは経済的にも支援が必要だと。プラスチックのネックレスでシングルマザーの家計簿をどうやって黒字にするのか。
いずれにせよその詐欺師の女は、雑貨店で三百円で買える服飾品と張りつけた笑顔で原価のおよそ三十倍の利益を得るのに、マンションの住人全員の家族構成を一月と三ヶ月かけて調べ上げた。入念なリサーチは、恫喝にも活用できる。
洗濯の途中だった母が玄関を出なかったのは幸いだったが、帰宅した息子と鉢合わせてもセールスは引くどころか勧誘のターゲットを変えた。偶然居合わせた管理人が警察に通報しなければ、どうなっていたかと今でも息子は肝を冷やす。
「残念だけど、もう“経験済み”なんだ。通報されるのはそっちも本意じゃないでしょ」
懲り懲りとインターホンを切った。
「……帰ってくれ。母さんが心配がる」
ドアの向こうの無言の圧に灯真は眉根を寄せ言った。
「通報すれば、駆けつけた警察を殺します。何人来ようと、全員」
脅し文句としては珍しい選択だった。普通――これが普通の枠に分類されるかは首を捻るけれど。普通は通報した方の命を獲るのが脅迫の常套句として定着している。警察が来た後を見越した内容では脅迫の効力がない。
「こういっちゃなんだけど。君ひとりが警察をどうこうするとは思えないんだけど」
身長については触れないよう配慮した。いくら犯罪者といえど見た目を貶しの材料にするのは人として失礼にあたる。
「しますし……できます。死屍類は『魔法使いの弟子』ですから」
なんの臆面も感じる気配も見せず〝魔法使い〟なんて肩書きを自称する相手を、快く家に招き入れると彼は本気で思っているらしい。それがもう正気の沙汰ではない。
「それとも……あなたはそれでいいんですか、五上灯真」
名前までフルネームで知られていた、鍵に加え灯真はチェーンをそっと下ろす。
「お母さんが……そのままで」
「いいに決まっているだろ。馬鹿にするなよ」
即答に扉の向こうは黙りこくり。
……マンション下の公園で無邪気にサッカーをする子ども達の声は遠くで聞こえた。
そんな言葉でなびくと舐められた、それ自体で今すぐに扉を開けて向こうにあるはずのその澄まし顔に一発見舞ってやりたかった。
この場での議論になんの価値もない。
“そのまま”もなにも。それは血を分けた実の子であっても意見を挟む権利はなく。干渉の余地などない。
母は、母だ。
五上灯真の母は、この前も、このままも……この先も五上灯真の一番側にいる一人だけ。
「交渉は決裂ということですか」
「悪いけど休みの日は母さんとゆっくりお茶を飲むのが週末の僕の楽しみなんだ。おっと、カップは二つまでしか用意していないんだった。おいしいモンブランを手に入れたのに残念だ」
陽はすでに五月の空に傾こうとしていた。スーパーから距離が開いている以上、タイムセールの参加を後ろにずらすことはできない。今晩は牛肉とネギが安いというまさに奇跡のタイミング。
母にすき焼きを食べさせる目的を果たすべく、闘争に具え体力を温存しておきたかった。
「ええ……誠に残念です。交渉役にあなたを指名したばっかりに、時間を無駄にしました」
「なに……?」
「いけませんね――人を見た目で判断しては」
自重するような声は、最早、灯真に対する無関心の宣言だった。
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「ダージリンティーを作るのに使われる茶葉はチャノキっていうんですが。その花言葉は『追憶』、『純愛』なんですよ」
「まあ。死屍類さんって物知りなんですね」
セールストークを間に受けはしゃぐ母も、可愛らしかった。
「師匠の受け売りで、死屍類はチャノキの花の現物を見たことは実はなかったりするんですが」
テーブルに出されたカップにはダージリンティーが注がれていた。スーパーの一角に設けられた『アフタヌーンティーコーナー』には名産地から仕入れた茶葉が安価に手に入る。
品質と値段に、いつか破産するのではと利用者を不安がらせる店先の商品は近所でも有名である。豆知識はおろか原産地すら知らないまま茶葉に興味のない母子家庭に、お昼のお茶の時間を作らせるのがいい例だった。
ソーサーに乗ったカップを、両手で掬うような手癖で湯気の立つ茶を食道に流し込んでいく。
百円ショップで買ったカップに対し、壊れ物に扱われるべきは、むしろ彼の方ではないのかと、灯真はフォークでモンブランを崩しながら思った。
式の屋敷で交戦した『十字架』に妙な親近感を灯真が覚えた理由は、前に一度、包帯を見たから。
両手の爪先に留めず、両足にも脛毛の窺えないほど一巻きも二巻きにもされていた。
勧誘する業者は、心に疚しさを抱えていても身なりをきちんと整えてから来るのが一般的なのだが。
短パンも目深に被ったフードも黒。アイロンをかけたスーツではなく、晴れているのに厚手の雨合羽。室内でも脱ぐのを頑なに拒んだ。押しかけたのはそっちだというのに。
使い古された長靴もくすんだ黒。ファッションセンスの皆無の雨天での歩行に安全性を追求した頑強な靴底の長靴なんて灯真は初めてお目にかかった。
「……ちょっと、窓を開けても構いませんかしら」
母は笑顔を繕ったが。眉間に浮かぶ皺は厳しい。
死んで間もない鼠でも鼻の前に近づかれたような。
「ちゃんと防腐処理して消臭スプレーも三回ふりかけたのに。お母様は鼻がよく利く方で?」
人の母を犬みたいに喩えるのは止めてほしかった。
彼は、死屍類累と名乗った。死亡の『死』に屍の『屍』、それら“類”を“累”にして――死屍類累。死屍類が名字で累は名前だそう。
側にいられるだけで命を吸い取られそうな名だった。セールスにも詐欺にも絶対に向かない。
信用するのは、よほどのお人好し。それも稀“にも”見ない聖人。
「……それで、どうしたら私の眼は視えるようになるんですか」
――どうやら母は、聖人だったらしい。今にも跨がんとテーブルに手を突く姿勢は隣で見ると恥ずかしきことこの上もないのだが……。
「――宝石?」
死屍類累が合羽のポケットから出したそれは身を乗り出しても母にはなんのことか判らないので灯真が代弁した。
さあこれからが正念場だ。家に入れてしまった以上、戦闘は避けられない。台所とは背中を向けた位置にあるので刃物を取りに行こうとすれば背後を取られる。
あと、手元で武器になりそうなのは熱々のお茶とカップだが、冷めかけている上、フード付き雨合羽なので濡れる心配もない。カップも安物――もっと高い品なら攻撃力も上がったのか。
「ちっちがいます……!」
「なにがちがうんだ、やっぱりいかがわしい霊感商法だろ!?」
「誤解です、これは……“魔眼”です」
「いかがわしいっていうかあぶないわ、嘘も下手とかお前ぜったい人を騙すのに向いてないよ!?」
誤魔化すのに逆に魔化されてどうする。
挽回を図ろうとしたところで、死屍類累は灯真に包み隠す事実をあいにくと持ち合わせていない。
吸血鬼の一部を人体に移植した実例は枚挙にいとまがない。だがあくまで肉体強化を前提とし安全性なんて度外視。施術した『吸血鬼殺し』も、今では、一人を頂点に絶えた。
その素体となったのも〈支族〉の一部だ。
とどのつまり。〈始祖〉の魔眼を人に移植して〈魅人〉に変容するかどうかすら机上の空論。『魔法使いの弟子』にとっても危ない賭けだった。
――“お前は嘘が下手だ。とことん下手だ。人としての本能が未成熟な分、発言は控えるべきかもしれん”。
心に刺さった釘が懐かしい声を思い出させてくる。
いつも意地が悪くて、人類全体を見下した言い回しに誇りを持っているような態度だけは好きになれなかった。
だが“あの人”のためにも、証明をここで終わらせるわけにはいかない。
「灯真ちゃんが心配してくれるのは、お母さん、すごくうれしいわ。でも……死屍類さん、私はあなたを最初から疑うつもりはない。だから落ち着いてください」
ポットから新しい茶を注いだカップを差し出す母は、ここにいる一人ひとりの顔を閉ざした瞼で順に見た。
決して、仲間外れにはしない。
「あ、でも。灯真ちゃんの事もあるしそんなには出せないわ。移植って、お金以外にも入院しなきゃいけないのよね? 家事もあるからおうちを長くも空けられないし……どうしようかしら」
それについての懸念は気にしなくていい。移植は数分で終わり手間になる費用も発生しない。ここまで乗り気なら拒絶反応の痛みも出ない。
「灯真ちゃんのためだもの、お母さん、がんばります!」
胸の前でガッツポーズすると、どうしても谷間が寄ってしまうのが母の癖だった。
強調されると、目のやり場に困る。しかし直してもらうには、一旦、一から説明しなければならないので息子としてはジレンマだった。
だが灯真は、決意を着々と固める母の肩を掴んで説得するのに四の五のは言ってもいられなかった。
「どうしたんだよ、母さん、悩みがあるなら僕に相談してよ!? 僕、なんか母さんのことで気に障るような事言った!? ならちゃんと謝るから」
取り乱す息子の頭に、ぽんと母の手が触れた。
「灯真ちゃんは悪くない。灯真ちゃんが悪かったことなんて一度だってないわ。ずっといっしょにいたお母さんが言うんですもの」
「でも、これは」
母は言った。
ここに悪者がいるなら、それは自分と。
そしてこれは“息子のため”だと。が身に覚えのない願を代弁にされ当の本人は困惑するばかりだった。
「お母さん、この生活はいつまでも続くんだって思ってた。いいえ、続くって思ってる。灯真ちゃんを産んで、今日まで育ててきた日々はお母さんの大切な宝物。お母さんを“お母さん”にしてくれた灯真ちゃんには嫌っていうほどお礼を言いたい」
――でもね。気づいちゃったら、どうしようもないの。
「この目で、灯真ちゃんの顔を見てみたい!」
物心つく前から、医者には一生視力は回復しないと告げられた。両親が本当に自分を産んで育てたのか、クラスで一番の親友は本当に友達なのか、初恋の人はどんな風に笑うのか。
母にとって“顔”とは、発音と点字上の意味が全てだった。
その母が、こんなことを口走るなんて。春の昼下がりの夕陽のせい、知らぬうちにこの少年(?)になにか仕込まれたか。チャノキに詳しそうだったから、あるいは。
「ただし、条件があります」
「……そうなると、灯真ちゃんが楽しみにしているお茶も飲めなくなってしまうわね」
死屍類が提示した代償。それはこの地からの出奔。今まで過ごした日々を放棄し見知らぬ地で新たな生活をスタートさせる。
物件と息子の転校先はすでに手配が済んでいた。
頼りとなる親戚も仲のいい友達も母にはいない。ここだって性格の不一致で離婚した父が社宅に使っていた物件を、引っ越す元手もないので親子で契約し直して住んでいただけなので未練はない。
遠出の資金は、魔法使いの弟子が工面してくれる。
しかし、小学校から暮らす息子が親と同じ考えかどうか。慣れない土地での生活を強いるなら、このままの方がよかった。
「行くよ。母さんといっしょなら」
「気を遣わなくてもいいのよ、灯真ちゃんだって引っ越せば友達とも会えなくなっちゃうし、そんなの……お母さん耐えられないわ……!」
「――母さん、なんでもできる割にはたまに頭が悪いよな。息子の顔が見たいのに……肝心の息子がいないと夢を叶えられないだろ?」
実を言えば昨日の放課後彼女ができて、来週末に母に紹介する予定だった。生活をリセットする死屍類の要求を呑めば別れることになるが――交際からデートもせず別れ、揉めるとしても、些細な問題だった。
別れてからも彼女には次の出逢いがある。
だが、灯真に母は、母一人しかいないのだ。
「本当、なんだな?」
「死屍類に嘘はつけません。ですが約束はできます。涙子さんの覚悟、無駄にはしません。魔法使いの名に懸けて」
「ねえ、灯真ちゃん」
「なんだい母さん?」
「目が視えるようになる前に……ぎゅって、してもいい……?」
俯く母――涙子に疑問を灯真は投げた。
「別に目が視えるようになってからでもいいじゃん」
「だめ……! 視えるようになったら、灯真ちゃんの顔に夢中になって、きっと……泣いちゃうから」
「――たく、しょうがないなぁ」
人目も憚らず、甘える者同士身体を寄せる母子。
二人の愛は――それほど恍惚でまともではなかった。やがてそれは伝説の吸血鬼の魂を滅ぼし、世界を滅亡に掻き立ててゆくこととなる。
死屍類の宣言通り、移植された魔眼は涙子に光を映し、灯真との初対面を実現させた。
そして、その名の由来に従い、涙子は、息子の顔を一目見て号泣した。あまりの剣幕に幼児退行を起こしたのではと一同揃って不安にさせた。
視覚で覚えた世界を、母は綺麗と讃えたが。灯真にはしっくりこなかった。
母が――笑っていられれば。そこは楽園である。
人の消えた地獄でも。




