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Sunset,banquet,A child

 主婦である中里萌(なかざともえ)の一日は、忙しい。家族の誰よりも早く起床し身だしなみも後回しに朝食を(こしら)え、寝坊した息子を部屋まで起こした後は500W(ワット)のトースターで四分じっくり焼いたパンを、塩をまぶした目玉焼きと一緒に野菜ジュースで流し込む。家族の食器を片付けると、洗面所で(ひげ)を剃った夫にネクタイを渡して、ぐずぐず支度する息子の尻を玄関まで叩いて、学校に向かうのを見届けると、ようやっと騒々しい朝から解放される。


 シンクに洗い置きした食器をぼぅと眺めるのも、彼女のいつもの日課だ。

 別に、心を病んでいるわけではない。ちょっと休憩しているというか、一息ついているだけ。意識を布団の中に半分置いてきて、ここまでずっと“起きているふり”をしてきたのだ。


 もうしばらく休憩し、布団を片付けてそこから意識の片割れを回収した。


 かちりと覚醒していつも最初に覚える、焦げたバターの匂い。換気扇にこびり付いているのは、あの朝の喧騒の残響。


 食器を洗い終えリビングでテレビでも観ようとしたら、上で物音がした。

 二階には、一人息子の部屋がある。


「……あの子ったら」


 毎日毎晩、あれだけ片付けろと言っているのに。その度に反論してくる息子は、ちゃんと整理整頓を心掛けていればガミガミ言われないとどうして気づかないのか。


 勉強机に山積みにされてあるプリントは、どれも萌が初めて目にするものばかりだった。机の肥やしになっているから当然か。


 薄暗い子ども部屋の開け放った窓から吹く風が書類を掃う。今日、学校では体育があった。それで明日の空模様を確認しようとし、そのまま眠ってしまったのだろう。


「――“防犯訓練”?」


 宿題のプリントやこの前手応えがあったと自慢していたテストの答案用紙の裏に、黄土色のざら紙に印刷された案内があった。


 そう言えばと、萌は先週の回覧板に、近くのショッピングモールで防犯訓練をするという旨の案内が挟んであったのを思い出した。


「あれ、今日だったんだ」


 と、子ども部屋の時計を見る。


 今日は特に、これといった急ぎの用があるわけでもない。溜まった洗濯物は昨日のうちに処理したし、ゴミも出した。強いて言えば食材の買い出しだが、いつもの近場でスーパーで買うより、少し足を延ばしてショッピングモールで済ませた方が今後の負担を軽減するきっかけに繋がる。


 ここしばらく萌は忙しさを言い訳に私的な時間を割いてこなかった。昼も残り物で適当に済ませたり、古くなった服を新調したりもせず、似たり寄ったりの日々を機械的にループしていた。


 棚から牡丹餅、ということわざがあるけれど。

 息子の部屋で防犯訓練のプリントを拾ったのは、いい機会なのかもしれない。


 昼にはまだ早いが、店内を一通り巡って時間を潰せばその内、腹も空いてくる。ちょっと贅沢に、モールのカフェで一杯、なんてのも悪くない。

 

 外で働いている夫や勉強に勤しんでいる息子に黙って遊びに出かけることに罪悪感はあるが、普段これだけ家族のために神経を使っているのだ。三十日の間で数時間くらい自分のためだけの時間があってもいいだろう。いいに決まっている。


「べつに、今日、世界が滅ぶわけでもないしね」


+++


「で……来ちゃいました」

「実は、わたしも。娘から防犯訓練のプリントを見て」

「こんな偶然ってあるのねぇ」


 おほほ、と。カフェの丸テーブルで向かい合う三人の母が、季節限定のケーキをぱくりと食べながらここまであらましを話した。


「まあ、いいじゃないですか。こうして久々に集まれたんだし。運命だと思って」


 そうよねと萌の言葉に残りの二人は救われた気分になった。

 同じプリントを見たのだから会うのにそこまでの運命性は感じられない気も萌はしたが。


 三人の主婦は、子が同じ学校に通う友達同士でも家はそれぞれ離れており、こうして顔を合わせたのも最後は二ヶ月ほど前、体育祭の昼休憩で一言二言挨拶をした程度。三人ともPTAに入っておらず事前の打ち合わせがない限り、こうしてカフェで昼を過ごしたりしない。それでも、交流を断絶しているというわけでもなく、二人はどうか聞かないが、歳が近いママ同士、萌は、友達だと思っている。


「二人は、ここでなにを?」


 平日のショッピングモールは休日と比べると火が消えたように静かで人も少ない。客層も萌達のような主婦か昼休憩中のサラリーマン、学生もちらほらと見かけるが、事情も知らない赤の他人の子を、学校に行くこんな時間に何をやっているのか、なんて問いつめることもできない。


「私は靴下。うちの子のが穴空いちゃって」

「今年発表されたコートをね、最近急に寒くなってきたでしょう」


“そういう中里さんは?”と二人に訊き返された萌は、答えようか迷ったが、言い出しっぺが一人だけ黙秘権を行使する、というのも厚かましく会話を広げようとした自分に正直に話してくれた二人に申し訳がない。


 でもやっぱり、状況そのままを紹介するのも気が引ける。


 言葉の()わって萌は、バックをまさぐり、取り出した品を二人に提示した。


「「それは?」」


 果たしてそれがなんであるか、ハモる二人にも判った。


 大人の女性の掌に丁度収まる球体。半分で色の違うプラスティック製で真っ二つに割れる仕組みになっていた。

 内部には袋詰めされた部品のような物と紙が折り畳まれて収められてあった。


 それが、計七個。テーブルに転がっていた。


 その一つを無作為に萌は取って、ぱかりと中身を取り出した。

 中身はそれぞれ違うが、二人に確かめてもらうには、やっと手に入れたこれが最も適任だった。


「『キュアモデル』?」


 彼女達がまだ小学校に通っていた頃、日曜の朝に放送されていたアニメのタイトルに、萌は赤面した。


 袋詰めにされていたのは、アニメの主人公で、当時の彼女達にとって憧れのヒーローであった主人公の魔法少女を模した玩具。


 フィギュアだった。


「見つけたら、止まらなくなってしまいまして」


 照れ隠しについ丁寧語になってしまう。


 最近のガシャポンは昔と比べて桁外れに進化しており、再現度、完成度は数十年で見違えた。

 ちなみにこのフィギュアも、腕部や脚部、主人公が振るうステッキを組み合わせれば十センチもの大きさになる。部品とはいえあのカプセルにどう収まっていたのか出した今では元には戻せない。


 そんな現代のガシャポンも、種類のレア度と、運試しなのは昔と変わらない。主人公のほかは敵の怪人や魔法少女のマスコット、他の種類が豊富な分、主人公である魔法少女は一種類のみ。実に商売意欲の高いラインナップである。

だが再現の精度が高くなって大きくなった分、金額も上がった。お小遣いで回すにはちと躊躇ってしまう。


 けれど今でもリメイク版が映画で放映される人気作品なだけあって、在庫は残り少なく補充も追いついてはいない様子。あるいは、懐かしのガシャポンの一回回す単価が高いのは、今の世代ではなく、大人になった当時の子ども達に客層を絞るための戦略なのかもしれない。


 なんて考えながら目当ての物を当てて萌が我に返る頃には、鞄が大量のカプセルトイで圧迫されていたのだった。


「わ、私はいいと思うよ」

「そうそう! あーでも、お子さんに見せるのは、ちょっと」

「だよ、ねぇ……?」


 平日からショッピングモールでケーキを食べて、ガシャポンで散財したと知ればどんな非難を家族から受けるか。話してくれたことすら、聞いたことも全くないが、あるいは――息子に自分の好みが遺伝し、これが好き、という可能性があるかもしれない。


 確かめられるその日まで、これは、組み立てた後で誰にも見つからない場所に保管しておこうと、萌は近日中に自室の押し入れを掃除しようと、企みと、飾った時の満足度に()()()()と笑みが零れた。


『訓練放送、訓練放送。こちらは防災センターです。お買い物中のお客様にお報せします!』

「なにかしら?」


 突如としてモール中を駆け巡ったその非常放送に、店内にいた客が一斉に上を見回した。


『ただいま、一階東エスカレーター前にて、ナイフを持った不審者が現れました。付近におられるお客様は直ちに避難してください! 繰り返します――』


 スピーカーから降ってきた男性の声ははきはきと饒舌に、まるで己の活舌がどれほど優れているかを熱心に強調(アピール)するかのようで。


萌には――こういってはなんだが、せっかくの憩いを邪魔されたみたいで、そこはかとなくムッとさせてきた。


「そういえば、これくらいの時間だったわね。防犯訓練」


 と、言われても。プリントにしっかり目を通したわけではない萌は返答に困った。


「――ねえ、ちょっと行ってみましょうよ?」

「確かに最近、行方不明事件とか頻発しているし。ここ、うちの子もよく遊びにくるから、防犯態勢がどこまでなのか、見極めるのもいいかもしれないですね」

 

 頷いて、財布を手に席を立つ二人。

 飲み掛けのアイスコーヒーをぐいっと煽って、萌も慌てて二人の後を追った。


 ショッピングモール一階の中央エスカレーター前はホールが“かまぼこ”の形に広がっていて休日にはコンサート、露店などのイベントが催される。

広場前には案内を見た、もしくは先ほどの放送を聞き付けた客でごった返していた。警備員と思しき服装の職員がバーの前で通行を規制し、彼らの後ろでは黒キャップにマスク、サングラスで顔を隠し、銀紙と段ボールでできた、大きさから明らかにニセモノなナイフを持った男が辺りを物色していた。


 萌がどうしてその男を、訓練で用意された犯人役と判ったというと。

 彼は、胸の前に『不審者』というプラカードを提げていた。


「本当にあんな犯人、来るわけないのにねぇ」


 萌の後ろにいた老夫婦が、芝居がかった歩きをする犯人を指差し笑っていた。


 それには萌も同意だった。あんなあからさまな恰好でしかも堂々と不審人物と名乗って街を出歩けば店に辿り着く前に通報され捕まってしまう。

 だがああやって配役を書いておかないと、本物の不審者と間違われ、訓練そのものが成り立たなくなるのもまた事実だった。


「あの犯人役の男の人、警察官なんですって」

「そうなんですか?」


 周りには制服警官も職員に交じって何やら打ち合わせをしていたが、これといった動きも見せず待機していた。


「主人が教えてくれたんです。今から、あそこにいるお店の人を犯人が切り付けて、駆け付けた警備員も負傷する段取りだって。ちなみに――さっきの放送、あれ、うちの人なん

ですよ」


 訓練はあと十分足らずで始まり、犯人を取り押さえてから負傷者を担架で運ぶまでの流れを実践する。職員と警備の連携、迅速に救護班が対応できるかを確認すると防災センターに勤務する施設管理者を夫に持つ妻は萌に教えた。


「テレビも来ているんですね」


 新聞社のタスキを腕に巻いたカメラマンも何人かいて、犯人の動きに合わせシャッターを切っていた。


「……かあちゃん?」


 聞き覚えのある呼び声がして、ふり返った先に立っていたのは萌の息子だった。


「こんなとこでなにやってんの、あんた」

「今日は防犯訓練の見学に来たんです。事前にプリントを配ったはずなんですが」


 担任が息子の背後からやってきた。


「あそうだ。あんた、お母さんにプリント見せるの忘れたでしょう!?」

「みんながいる前で怒鳴んなよぉ……!」


 バインダーで顔を隠す息子。


「だいたい、お母さん前から――」

「あ、あのぅ…………」


 注意されているにも関わらず周囲を気にする息子につい熱が入った萌は、彼の隣で困惑するようにたじろく担任を視界から外してしまっていた。


「す、すいません……」

「こちらも、指導が足らず、申し訳ありません」


 そろそろ始まりますので、と。


 息子を担任がクラスに戻すと、彼の班で親子のやり取りに対する笑いが起こった。


 担任によると――もうすぐ訓練が始まる。

 ざわめく周囲で、タイムスケジュールを知るわずかな者のみが、緊迫感に身を引き締めた。


 もし。


 萌が、ここで息子とばったり出くわさなければ今後の予定を担任から知らされることもなく。

 集中力が、背後から接近する気配を、捉えもしなかったのかもしれない。


「…………なかざと、せんぱい……?」

「――え、あなた?」

「おひさし、ぶりです」

「――――五上(ごじょう)涙子(るいこ)!?」


 黒髪を伸ばしたエプロン姿の若い女性。

 数十年は経過したが、かつて、高校で面倒を見た後輩の面影は萌の記憶ではまだ新しかった。


「こんなところで、先輩に逢えるなんて……!」


 感極まったのか、五上涙子は瞼の涙を萌の前で拭った。


「涙子ちゃんこそ。どうしてここに。…………! ちよっと、涙子ちゃん、その目」


 萌は、小学時代の後輩を全て記憶していない。

 涙子を思い出すのに時間は掛からなかった理由は、彼女と初めて出逢った場所が学校の階段の踊り場で、階段から足を踏み外して倒れているのを学校に通報し、当時特別クラスに通っていた涙子の面倒をその後もたびたび見るようになったからである。


「ある人に、治してもらったんです」

「よく私だってわかった、わね……」

「先輩は、私の、命の恩人ですから」


 そう涙子は笑ったが。


 生まれ付き眼が視えず、治ることはないと言ったのは――涙子自身だった。


 ならば一体、彼女は、この人混みの中から、偶然再会した小学時代の先輩を見つけたのだろうか。


 難しい解釈など不要。

 人間離れした洞察と記憶力の根拠――涙子が、ニンゲンからかけ離れた存在に昇華したに過ぎない。


「変なこと、訊いても……いい?」

「はい」

「――失礼ですが。()()()()()()()()()()()


 訓練が始まり、怒号と悲鳴の演技が周回するその中で。


 充血した涙子の双眸が、萌の――首筋に流れる血流の音を聞き分けていた。


「ねえ、せんぱい」


 にたりと、涙子が微笑む。


 この女と口を利いたのが間違いだった。今日に限ってこれだけ警官がいた、訓練に割って入ってでも通報すればよかった。


 彼女が、同じ小学校に通っていた五上涙子なはずが、ない。


 だって、彼女は。

 人の目を見て話すような、そんな子ではなかった……。


「うちの子、見ませんでしたか」

「子?」

灯真(とうま)ちゃんっていって、背は私くらい、目尻の(へん)は私に似て――どこもかしこも私にそっくりな可愛い男の子」


 くすくすと、嗤う。涙目で、女が。


「い、いや」

「そうですかぁ。……あれれのれぇ、でも変ですねぇ。灯真ちゃん、ほんとうにわたしにくりそつでそっくりだから、せんぱいが見逃すはずないんだけどなぁ。どうしてかなぁ」


 女は、小さな子どもの声を張り付けたように首を左右に振った。


「おかしいなぁ」


 おかしいのは、この女だった。


「こないで!?」


 悲鳴を上げ、尻餅をつく萌に訓練中だった警官や店の職員がふり返った。


「あっそうだ! せんぱいにも、灯真ちゃんを紹介します。せんぱいのおともだちにも。……せんぱいの息子さんにも」

「なんで、うちの子、知って……?」

「それは。…………う~ん、()()()()()()? まあいっか」


 全然よくない。説明してほしかった。


「ちがう。あなた……五上涙子じゃ」

「そうですね、先輩の言う通り、私は先輩の知っている五上涙子ではありません。私……“おかあさん”になったんです!」


 ――後に、橘千代紙に発見されるカメラに撮影されていた声は、そこで途切れていた。

 

 行方不明になった来店客、訓練に参加した警察官、訓練の見学に訪れていた学校の教職員及び児童は現在も発見されてはいない。

あれだけの人数を、誰にも見つからずにどうやって攫ったのか、前もって告知されていた訓練中に、騒がしい人混みでの特定のやり取りがどのように鮮明に録画されていたのかも不明。


 ただ。

 一人の女子高生が届けてきたという現場の映像には、奇妙なものが記録されていた。


 日没――よく“逢魔が時”と世間で言われる時間になった途端。

店内の照明が非常灯も併せ、消失した。息遣いに至るまでさっきまでそこに人が存在していた痕跡は闇に失せ。


 茜に燃える夕暮れも、保存された映像から、何者かの細工で、削除されていた。


 たった一人の生存者である少女から事情を訊こうにも、その少女も消えてしまったので真相は闇の中。


 映像を確認した者は、その不可思議さと異形の気配の残像に悪寒を覚え、背後をふり返ったという……。


 ただの記録映像なので害があるという代物でもない。遺留品を届けたのは、それが現場に居合わせた者の義務と感じただけ。


 千代紙が、そこで見たモノを懇切丁寧に説明したとして、警察の捜査が進展するというものでもない。


 観測された現象に、細胞に微かに残る生存本能が刺激されても。


 人を超えた先に引き起こされた“奇跡”に、人の意思が到達する未来は永劫やってこないのだから。

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