Mermaid,shadow,Dark night
下校を報せるチャイムが鳴って、鞄を手にした生徒達が正門から一斉に放出された。
制服に身を包んだ少年少女が殺到する様は、どこか生々しい印象を与える。
ここで、唐突だが、魚の話をしよう。淡水だか海水魚の中には、口の中に卵を産んで子を育てる一風変わった生態を持つ種がいるらしい。驚くべきは――人類にしてみればぞわぞわと悪寒が立ちそうなこの生態、これがまさに子を守る、魚なりの繁殖戦略なのだ。
口腔内は夥しい数の稚魚を親があやすための“ゆりかご”となっていて、入り切らなくなるか、あるいは、外で生きていられると親が判断するまで成長すると、大量の小魚は親の口から一斉に巣立つ。
この他の一連の育児の流れは、ネットで検索すると簡単に調べられるが、魚、もしくは多いモノが苦手な方にはあまりお薦めしない。すでに誤って、画像を見てしまった読者は、どうか作者を恨まないでいただきたい。
さて、どうしてそんな話になったか、というと――。
仮に、宇宙から何億光年も旅してきた異邦人が、ガガーリンも口にしたと言われる感想を声帯とは別の器官で感嘆したならば。
窓から見える“学校”という十代にとって相対的な『ゆりかご』から分散する子どもの群れを目の当たりし、先に明記したのとよく似た生態を、遠く離れた母性に通信したに違いない。
まあこれは、仮に宇宙人がいたら、なんて身も蓋もない前提の許に成り立つ考察なのだが。
下校する生徒でごった返すグラウンドで、一人の女子生徒に話しかけようとする男子生徒の姿があった。
「あ、あの……!」
呼び留められた女子生徒は、男子生徒の肩を通り過ぎ校門に向かった。
目が合った。だが、邪険に無視したのではない。男子の目的を彼の緊張に震え、だが熱に蕩けた眼差しから察知し、あたしに声をかけるなんざ百年はやいんだよ、自慢の高級外車で迎えにこれるようになってから出直しな、なんて思いもつかなかった。
「――ちょっと、鵟虚子さん!?」
フルネームで呼ばれ、鵟虚子はようやく自分が呼ばれたことに気が付き、校門前でゆっくりと踵を返した。
学生靴の底が、砂に擦る。
無駄のない動作でふり返れば、制服から、清水を想わせる香りがした。
「はい、わたくしに、なにかご用でしょうか?」
微笑みで返す女子生徒は、眉よりも高い位置に前髪を切り揃えている。うなじの柔かい毛が見えるほどに後ろ髪を短くし、太い眉。
そんな髪型とは、どこか対照的に、たおやかな表情。配置された顔のパーツは、まみえた相手には一部の誤差もなく並んでいるように視認される。
葉が落ち乾燥するこの季節に保湿は必須だが、大和撫子と密かに謳われる彼女の肌は清流に浸したかのような――瑞々しさを保っていた。
「えと、そ……、鵟虚子さん!」
「はい。鵟虚子です」
にこりと少女の笑みは、太陽の恵みを育んだかのような輝き。
少年の声が上擦ってしまう。
「お、俺、烏丸って言います! サッカー部の主将やってて」
「大きな大会にも出場されているのですよね。そのような有名な方に、名前を憶えていただけたなんて……」
入学から半年。これいって引き立つ実績も功績も手にしていない虚子の耳にも噂は届いている。
そんな相手に自分の名を口にされると、嬉しさよりも、自分はなにか奇異の目で見られているのではないか、という不安に頬を朱に染め俯いた。
「のっ、鵟さんって……来週の休み、時間あったりする!?」
唐突にそんな質問された虚子は目を瞬かせた。
「鵟さん、入学してからずっと休んでいたでしょう? それで……よかったら、街を案内してあげようかなって……」
勇気をふり絞って、少年は昼休みから頭の片隅で復唱した言葉を、虚子本人に言った。
「申し訳ありませんが、わたくしは……」
受けようか受けまいか、虚子は正直、ギリギリまで悩んでいた。
赦されるなら、先輩の厚意に甘えたかった。無為に休日をやり過ごすなら、虚子自身内心で燻っていた好奇心を解放し、大いに時間を堪能したい。
だが――責任を感じた虚子は、泣く泣く誘いを断った。
心機一転と、新しい街、新しい学び舎で再出発を決めたのは虚子だ。誰の助言があった
としても、彼は――わだかまりを解消してくれたに過ぎない。
うまくやれていると、虚子は思っていた。あるいは、六年という長い時間に、抑制できていた感情がついに麻痺したのかもしれない。
不安な気持ちはあった。桜が散り、葉が色付き、冷気が肌を撫でるまで決断できなかった自分を酷く後悔し、今度こそ――あの人の示した針路を歩もうと、地上に出た。
それを、悟られた。
今この瞬間に、自分を誘ってくれた彼にも人生がある。休日で授業がない日にも部活で忙しいし、学校も部活もない日には、やりたいことが、きっとあったはずだ。
そんな彼の時間を、人生を――“虚子を案じる”という、無駄なことに費やしてしまった。
これ以上、自分などの人生に彼を巻き込んではいけない。
時間とは、有限が当たり前で、終わるように普通、できているのだから。
虚子は――気持ちを押し殺し、断るしかなかった。
「ちょっとアンタ、調子に乗るんじゃないよ!」
サッカー部主将を横切り虚子の胸倉を掴んだのは、彼の後ろで会話を見守っていた部のマネージャーの一人だった。
制服の色から、上級生だと虚子は察した。
けれど、彼女達が、どうして怒って、睨んでくるのかまでは、察することは虚子はできない。
「先輩が誘ってくれてるのよ、素直に受けなさいよ!」
「ですが……」
虚子の視線の先には、誘いを断れた男子生徒がいる。
様子は、明らかに憔悴していた。覚悟はしていたが、まさか真っ向から拒絶されるとは思ってもみなかった、そんな落ち込みぶりだった。
「あんた、ムカつくのよ……。この前も同じクラスの子の告白、断ったみたいじゃない。異性の心虜にして、優越感にでも浸ってるわけ?」
「わたくしは……」
「その喋り方も気持ち悪いし。あんたなんかが来たから、私は――!」
虚子の頬を打とうとふり上げられた手。マネージャーで女子といえど、部員の健康状態を管理する立場上、肝が据わって、運動部所属なので鍛えたりもしている。
何より、入部からずっと片想いしていた相手が、一年生に告白する現場に同席する――まだ蕾とはいえズタズタにされた女のプライドが許さなかった。
風船が破裂するような音がし、虚子の身体が後方に飛んだ。
「こらーお前らなにやっとるかー!!」
職員室のある校舎から生徒指導の教師から走ってきた。呼んだのは、一触即発な虚子達の会話を聞いていた下校途中の生徒の一人だった。
呼び留めるあまり、校門で虚子を誘った。
明日になれば、主に主将を庇うマネージャーらが中心に否定するが、放課後、サッカー部は、噂の女子新入生を取り囲み、土地勘のないことを利用し告白しただけでなく、断られると暴行した。
公衆の面前で――同じく学校で注目の的であり、彼目当てにマネージャーになりたがる女子が大勢いる主将がふられ、手を出し、教師に叱られた。
入部者数が学校で最も多いサッカー部の面子は丸潰れだった。
マネージャーが言ったように――男子生徒からチヤホヤされる虚子に平手を喰らわせたいと思っている女子は多い。男子の惚れた腫れたなど心底どうでもよく思っているが。
いつでもどこでも、間の抜けた態度を取る女子に、男子が鼻の下を伸ばす光景に、背中がむずがゆくて仕方ない。
手を出しても、マネージャーにはまだ弁解の余地はあったが。
サッカー部ではなく、手を出された虚子がなぜか現場から逃亡したことで、部にとって状況はさらにややこしくなった。
夜が明け、朝が来|た《・なら――また登校してくる生徒は。
校門から遊歩道に続く血痕までを、余すところなく目撃してしまった。
少女のこの一滴一滴が、運動部がこれまで培ってきた伝統、誇りを、地に堕とした。
+++
少女は、噂の中で生きている。
噂と一口で嘯いてもそこには様々な意味がある、思惑が内包されている。善い噂、悪い噂、根も葉もないうわさに尾鰭がついたウワサ。
会社の上司、学校の教師、教室で皆の注目を集めるクラスメイト――普段はお世話になっていたり格上の相手を慇懃無礼に語らう。罪悪感があっても、隠れて話す行為に覚える快感は、どうしようもなく止められない。
慇懃無礼に顰々と。だが、そこに込める熱は、冗談では済まされない。
「で、駆けつけた先生も置き去りに逃げてきたのか」
「はい……」
黄騨生風の問いに、少女はさらりともみあげを垂らし俯いた。
「一応聞くが、なぜだ? その教師は虚子ちゃんを助けに来たのだろう」
「わたくしが……ぜんぶわたくしのせいなんです」
病院のロビーに、ベンチに座った虚子の涙声が霞んで消えた。
陽が落ちた病院の外には闇が広がり続けている。すでに呑まれた院内を照らすのは管球の電気と熱が織り成す人造の灯。
ナースステーションでは看護師が書類を整理し、早歩きの男性医師がサンダルを踏むゴムの足音が聞こえる。
診察時間が過ぎ面会時間が終了しても、リノリウムの床から静寂が消えることはなかった。
ソファで背中合わせに座るスーツ姿の男性と制服姿の少女。背後から咽び泣く声が聞こえ、それが、年配男性の心をなんとももどかしくくすぐってきた。
学校から帰ってきた虚子の懺悔に付き合うのは、これで、何回目なのか――眉間を押さえる黄騨はここ数ヶ月、慢性的な頭痛に頭を悩まされていた。
ある故あってこの病院で世話になっている虚子の話し相手として、病院の経営者である人物から直々に指名された黄騨生風という男は、下校してきた彼女が、学校でどんな過ごし方をしているか、ここで、こうして定期的に窺っていた。
そして、今日も今日とて、いつも通りに泣かされて帰ってきた虚子の相手をする。
涙と一緒に打ち明けられるのはいつも似たり寄ったり。帰宅(虚子が所持している住所は病院だけなのだが)の途についたら教室や階段で呼び留められ、時間の有無や好嫌について聞かれる。
虚子の肩を叩くのは、いつも男子で――たまに女子に声をかけられれば、罵倒の言葉を浴びせられる。
調子に乗るな、とか、構ってほしいのか、など。
「わたくしのせいで、黄騨さんまで呆れさせてしまって……! わたくしが学校で失敗した談など黄騨さんには面白くもなんともないのに」
口をへの字にぼたぼたと涙を零す虚子。
黄騨が呆れているのは――虚子に真実を言えない男にだった。
つまり自分自身に。
いつまで経っても泣き止まない少女が、学校で多大な勘違いをしてきて帰ってきたのは――最初の一回で黄騨は全てを察した。
悩ましいのは、思春期の惚れた腫れたに恋愛経験ゼロの仕事人が安易に立ち入れない現状。
黄騨はやはり、と思う。少女とは、噂の中で生きていると。学校という珊瑚礁をゆったりと回遊する少女は虚子を特定の印象に断定し、方々で言いふらしている人物がいる。
噂を自ら媒介する虚子自身も、やはり、少女なのだった。
自分が虚子のように、もっと若々しければ、気の利いたアドバイスができるほど恋愛をフレキシブルに経験していればよか
ったと、遠くの彼方に今はある少年時代を黄騨は懐かしむ。あるいはきちんと経験を積んでこなかったから、こうなったのか。色恋沙汰には敏感でも、肝心なアドバイスは一言と言えないような。
寡黙な人物像を装って、年齢を積んだ今はそれで通るが、机に突っ伏し他者との関係を遠くから俯瞰するような、ひねた青春時代だった。
悠々閑々と長考したように見えて、腰を落とした場所が木造の椅子からパイプのソファ
代わっただけ。
「…………虚子ちゃんは、もう少し、他人の気持ちを量れるようになった方が、いいかもね」
だから足を組みながら、大人ぶった大人は掃除の行き届いた床を見ながら清掃員に感心し、さぞ大人が言いそうな高尚な発言を、テレビの巻き戻しのように繰り返す。
異性の恋心、それに嫉妬する同性の心意に気付かない無垢な少女は、長らく社会の荒波で難波した大人には導となる灯台の如く眩しかった。
「黄騨さんは、やっぱり素晴らしい方です。――どうしたら、黄騨さんのような博識な大人に成長できるのですか?」
「おじさんは虚子ちゃんが思っているような素晴らしい人間じゃあ――……来たぞ」
席を立つよう黄騨に促され、虚子にも緊張感が伝染した。
ふっ……音もなく、照明が落ちる。非常警報の赤ランプも失せ病院内の電気の供給が断たれた。
廊下へ躍り出る黄騨と虚子、それに院内職員も続いた。
患者の命を優先する白い塔で電力の消失は、文字通り、死を意味する。
だが職員は動揺せずとも慌てもせず、隊列を組んで影が降った廊下を睨む。
彼らの手に持つのは心拍を聞き分ける聴診器ではなく、それそのものを鉛の弾丸で以て止める銃。何発も連射できるサブマシンガンだった。
入院中の患者の生死が危ぶまれるが、心配は無用。
彼らもまた点滴針を抜いて――武器を所持し合流していた。
「……こんばんは」
黄騨が、廊下を歩いてきた人影に頷いた。
彼女にできる挨拶は、これしか、なかった。
女。背が高く、手足はすらりと伸びた。星のない闇夜でも輝く金髪。
挨拶を返さない女の全身は、包帯に巻かれその先が地面に引き摺っていた。
胸部から左右にかけ包帯は“報告の通り”破れており、肉厚な白い二つの母なる脂肪が暴力的に震えていた。
それはさておき。
どう見ても重傷。一目瞭然に重体。急いで治療しなければ命に係わる。
だが包帯をずり下げ見える生気の見えない唇は悲鳴、どころか苦しそうな息遣いすら上げていなかった。
鋭く伸びる八重歯が、彼女が――とっくの昔に死んでいるのを物語っていた。
「ご足労いただいて申し訳ないが、面会時間は十七時までなんだ。昼間のうちに出直して
くれ」
中空で上げた手を滑らせた黄騨に、女は沈黙を貫いた。
女の表情の大部分は包帯に隠れされているので、納得してくれたのかそれとも腹を立てているのか曖昧だった。
「いっそのこと怒鳴ってくれればすっきりしたんだが。ああ、くそ――!」
「……黄騨、さん」
豆だらけの黄騨の手が、震えていた。
硝煙が染み付き黒ずんだ爪垢。掌の凹凸は頬を殴った時に相手の歯で傷付いた古傷。
幾重も赴いた死地から帰還してきた、怖いもの知らずの屈強な戦士は。
ふらりとやってきた夜に――ちびる寸前だった。
「嬢ちゃん、その気遣いは嬉しいが。今握るんはおじさんの手じゃなく、坊ちゃんから預かったそれにしてくれ?」
慄くように黄騨に言われ、虚子は学生鞄から拳銃を取り出した。
「扱い方は、雀の嬢ちゃんから教わったな」
「はい。婦長姉さまには、……然るべき時が来たら迷うなと叩き込まれました。ですが」
撃鉄を起こす。指を引き金に据えるのを躊躇わない。躊躇ってはいけない。
「撃つのは“人”ではないと――あの時安心した自分が馬鹿みたいです……!」
「まったくだ」
四方八方から銃口を向けられ。
女は、囁いた。
『――敵勢力の武装を確認。目標進行までの妨害と認定。自動殲滅シークエンス、開始』
牙を剥いた女に、号令も待たず一斉掃射が始まった。火を噴く火薬に院内は泡沫の間だけ明るさを増し、すぐに消えたと思えばまた光射す。
無論、こんな豆鉄砲で伝説の怪物を仕留められるとは黄騨は驕っていない。
だが主の報告によれば、対象の不死性はぎりぎりまで薄れ、掠れている。先の〈魅人〉との戦闘で血も失い抵抗する気力もわずか。
彼の化物の動体視力はフィクションでも言及されてはいないが、秒速三00メートルで回転する鉛の軌道を総て除けきれる生物は、この地球上には存在しない。
何よりも好機なのは。
防衛に徹した敵は――自らの演算で動いている。
主のいない猟犬など、球を転がせば簡単に、誘導できた。
「……の、はずだろ」
だが、そこに女の姿はなかった。
女の立っていた場所には穴だらけになったソファが転倒していた。
「うわぁあああああああ!?」
男性医師の悲鳴が上がった。
逃げたと思った怪物は、男性医師の頭上に張り付き反撃の機会を窺っていたのだ。
一直線に飛んでくる鉛玉を回避するべく、女は、廊下を進むのを諦めた。
両手両足を天井につける怪物に、上や下、横といった重力の制限はない。
小銃を乱射する若い医師の首筋に、女は、とろりと唾の滴る二本の犬歯を突き立てた。
果実を食んだように男から溢れ出した多量の血液を、女は、一滴も残さず搾り尽くした。
すぐ傍にいた女性看護師に男性医師の死体を投げ捨てた。抱き上げた骸は苦悶の表情のまま木乃伊のように干乾びている。
身動きを封じた女性医師を、死体もろとも、着地の衝撃で女は踏み殺した。
再装填した弾丸が雨となって女に降り注ぐ。
長時間、聖水に浸した鉛の弾は、夜を糧にする怪物には激痛を与える。死滅はさせられないが弱体化した不死は神の慈悲に焼かれる――というわけだった。
女は、腕の包帯を解いた。何重にも巻かれた包帯は防御力にもなるというのに、二度目の弾丸が発射される前に、だ。
金髪を翻した女は――結び目の解いた包帯で、弾丸を止めた。全て。
布製であるはずの包帯の上で金属の弾丸がきゅるきゅると回転し制されている。
「あ、あ……あ」
虚子は、口を押さえた。抵抗する唯一の力が彼女から零れ落ちる。
黄騨も呆気に取られた。
――こんな漫画みたいな光景、驚くなというのが無理な話だろうが。
からん、ころんと弾丸は、先端が燻った薬莢の絨毯に落ちた。
駄目だ。――勝てない。
示し合わせたわけでもないのに、誰もがそう確信した。
彼らは、医者という立場から多くの患者を救ってきた。痛ましい傷には慣れている。岩を砕くような拳を握る理不尽な死には慣れている。
だから今回も――死に立ち向かえると、そう思っていた。
だが生死の狭間である病院に勤務する彼らも、また生者だった。
二つの境界に、一体どれほどの闇が滞留しているのか、判り切ったつもりでいた。
女が、来る。
病院の奥に後退する武装部隊。
だめだ、そんなことをすれば。――黄騨は銃を構えた。
それでは、狼を恐れ柵の奥に逃げる羊の群れではないか。
「こっちだ!」
だん! だん! と二発の銃声が女の注意を黄騨に惹き付けた。
魔法使いの末裔の犬は、最後まで従順に、任務を完遂しようとした。
……だが。
「へっ?」
女は一瞬こそ注意を逸らしたが、二秒というわずか短い間に侵攻を再会させた。
彼女は、ただ飛んでくる露を払っていただけに過ぎない。
“まともに戦えている”と思っていたのは、黄騨達だけだった。
それから、どうなったかは想像するに難くない。
逃げ惑うだけに成り下がった羊が、狼に対向できは、しない。
女の包帯に男の頸が捻じ切られた。
女の爪に裂かれた女の腹から内蔵がまろび出た。
主のために指を掛けると誓った銃の引き金は、無様に逃げる時間稼ぎに引かれた。
それすらも、襲い掛かる死には無駄となったが。
「――ふざけるな」
こちらには眼も暮れない女に、黄騨は残った弾丸を使い切った。
体勢を崩した女が、ゆっくりとふり返る。
やっと、黄騨を、敵と認識した。
四つん這いで迫る女、獲物の血で輝く金の脳天に銃の持ち手を思いきり打ち込めた。
まだ熱の残る銃口を握り締めた思った以上の力は出せなかったが。
冷え切っていたとしても、黄騨はどの道、天敵からは逃げられなかった。
銃を持ったまま黄騨の腕が女に食い千切られる。筋骨隆々の腕から血が迸り黄騨は膝を突いた。
壁にもたれながら黄騨が見たのは、病院の廊下に斃れた同士の亡骸だった。
もうじき、自分も――あそこに加わる。
「こんなことに、なるなら…………虚子ちゃんに、気の利いたアドバイス……やっとくんだった……」
煙草に火を灯した黄騨。
目の前の怪物が、最期に猶予を与えてくれて、本当によかった。
煙を吸ってないと、恐怖で、泣きそうだったから。
「黄騨さん!?」
虚子の見ている前で、金色の影が、瀕死の黄騨を呑み込んだ。
骨の砕ける音。
肉を食む咀嚼音。
口を拭う女の足許には、服と皮だけとなった、黄騨だったモノのみが遺されていた。
尻餅をつく虚子は、床につけた手から伸びる影を見た。
女もまた、影だった。
天井に伸びる影がみんなを殺した。地面から迫り来る暗黒が黄騨を喰い尽くした。
そうして、これからの“面会”に障害となる関係者を排除した『十字架』は、最後の一人と、生かしておいた少女に問うた。
『橘千代紙の病室は、どこ?』
ここに入院されているであろう、狼の娘の所在を。




