Nun,bloodS,No your Own
自分は、今、なにをしたいんだろうと、撓むように路地を歩きながら女は唇を食んだ。
できること――より、したいについて。
部活帰りか、制服姿の女子学生の転がすマウンテンバイクとすれ違う。
一瞬、彼女は独り言を囁きながら彷徨う女を識った。今日は楽しみにしていた歌特番の生放送がある日だった。ところが今日に限って部長も副部長も体調を崩してしまい、学年で彼女達の次点にあたる自分が体育館の鍵を返す任を負ったためこんな時間になってしまった。
急を要する彼女に、薄暗い街道で遭遇した人物の顔など、いちいち憶えていられない。次の信号の待ち時間にきれいさっぱり忘れてしまう。
だが、女は忘れない。彼女の自転車のチェーンが錆びて音を立てていたのも、異なる二種類の香りから彼女が最近シャンプーを変えたこと、籠に抛ったユニフォームにべっとりと残る制汗スプレーから、汗っかきな自分に対し他人の目を意識していることも。切羽詰まった表情の毛穴からぽつりぽつりと零れる、汗を。
女は、今、すこぶる調子がよかった。見上げた空に浮かぶ星々が地球からどれほど離れているのか知れるくらい。
何でもできる――そんな多好感に精神が浮遊する。
じゃあ、――口が勝手に動く。
「私、なにしたいん……だっけ?」
自分には、大事な使命があったはず。偉大かつ壮大……言い広めれば誰もが無条件に賛同する役目が。
やがて、とある公園に辿り着いた。
住宅地に紛れるようにしてある公園は、昼間とは打って変わってしんとしている。静まり返っているというより、“在”――と呼べるモノがなかった。
子どもがいない夜の公園というのは、こんなにも空っぽなのかと、女は思いに耽った。
吸い込まれるように入口の柵を越え入った。誰も乗っていないブランコを風が漕いでいた。
乾いた砂場を眺めていると、咀嚼して、嚥下した生唾が喉の奥でごくりと鳴った。
――みず が のみ したい
公園内の水飲み場の位置を女は入った時から知っていた。足下の地面、そのさらに地中に張った水道管を流れる水音が居場所を教えてくれた。
蛇口を掴み、左に廻す。
喉の渇きを思い出して力加減を誤ったのか、蛇口が緩んでいたのか。
上を向いた蛇口から噴き出した水は、水気を失い乾いて荒れた顔を濡らす――――直前で、女は回避した。
「――ぷ、は……ああ」
水量を調整し、口に含んだ蛇口から取り入れた水を体内に送る。酸化した金属の味が微かに融ける水が咥内で一旦溜まり、食道を蹂躙しながら水分は胃に流れた。
蛇口を締め、女は立ち上がる。
喉の渇きが癒え、吸い込んだ酸素を二酸化炭素と交換すると、たわんでいた思考が少しずつ調和を取り戻していった。
見え過ぎていた世界が、曖昧に、均される。植栽の下で蠢いていた虫の足音も、もうどこに行ったかなんて判らない。
海馬が霞がかかったせいで前後の記憶が思い出せない。こんな時間に、こんな公園に一体何の用事があるというのだ。
『 わたし は だれ ? 』
途切れ途切れに意識が晴れる。
で、思い出した。
自分が何者であるか忘れていた、ということを。
これは思った以上に重傷である。自目的云々以前に、自分の名前も人生も呆けて忘れてしまっていた。
「ええ、……と。……なんだっけ……?」
自分が女なのは覚えている。たった今、思い出した。公園を一望できる目線の高さ。大人なのは間違いない。
で、で、で、あとは。
手掛かりは必ずある。そう信じ女は所持品を検めた。
スカートのポケットは空、糸くず一本と掴めなかった。
『 いいえ ちがいます ちがうでしょう 』
綺麗に洗濯された服が、丁寧にアイロン掛けられた自分の姿が。
女には、不自然でたまらなかった。自分が、こんなに清楚なわけないと。
疑問に反応するかのように、服を撫でた女の指先が、紅く染まる。べっとりぬめり、てらてらと街灯が反射し虹色に光る油。
女は、誰とも知らない血にまみれていた。女がふり返れば、背後の道筋に紅い足跡が自分の方に忍び寄り女の立つ位置で止まっていた。
奥歯に挟まる違和感の正体。それは、噛み千切られた臓物だった。
『 おもい だした ?』
側で囁く穏やかな声に、女は耳を傾ける。
「――“とうまちゃん”……って……だれ?」
身体に付いた血と肉片を、女は“そう”呼んだ。
肩を抱いて女はその場に跪いた。舌の上で蒸発した唾液が白い息となって空気中を浮遊し、寒くもないのに息が荒くなる。
下校中の少女が、違和感にどうして気づかなかったのか女はやっと思い知る。
「みな、い……で! わたしをみないで! きかないで! こんなわたしを、しろうとするのはやめてッ!」
自らを灰に照らす月に女は牙を剥いて猛った。
「どうしたら隠せるの!? どうやったらだれにも知られずに済むの!」
ここに来るまでは上手くやれた。思い出したら、忘れてしまった。
水を飲んだ水道に縋りついて、今度は蛇口いっぱいに水を解放した。水流が胸を直撃し水を含んだ服がずしりと重くなる。両手で受けた水を全身に隈なく塗りたくったりもして、女は血を洗い流そうとした。
うがいをしようと顎が埋まるくらい水を飲み、食道から胃に掛け微かに残る嚥下した残滓を吐き出した。強い酸味と共に消化途中の肉が排水口にぶち撒かれる。
「ちがう、ちがうの、…………“ちがう”? ――――そうよ、ええ、そうよ! わたしが、食べた。とうまちゃんをたべたから……わたし、こんなにげんきじゃないの!!」
名前だけ思い出し、誰なのかも判らない少年に、女は懺悔した。
『 どうして 嘆くの 悲しむ の あの子が いた から ここまで やってこれた のに 』
後悔に喘ぐのとは裏腹に。
月明かりを浴びる水面に映る女の顔は、満足そうに、微笑んでいた。
「やめて!」
水を掃うつもりで振った腕は、その一振りで水飲み場を粉砕した。蛇口が吹き込んだことで水道管から立ち上がった水が間欠泉の如く噴き上がる。
『 ほら こんなに 元気に なった もうじき おもいだす ワタシ ノ ショータイ 』
両手を突く影は、実体とは一致しない。
修道女を着た女が、女自身に囁き掛けてきた。
実像と虚像の姿がその境で一致しないなんて、あり得ない。仮にそんな現象がまかり通るのなら。
現実ではなく、認識が歪められている証拠。
そしてその“認識”を処理しているのは、脳だ。髪と頭蓋で護られたタンパク質で構成された乳白色の世界。
その起源は――視神経で処理される一次元。即ち、眼球だ。
この『眼』が――語り掛ける“修道女”なのだ。
「あなた、だれ…………あなた……“なに”?」
『 なにを言うの? 』
「『あなたは、わたし。ほかのだれでもないわ』」
影と口の動きが重なった。
当然だ。影は――動きに合わせて動くのだから。
「『吸血鬼……〈第二の始祖〉』」
遠い昔に忘却された己の銘を、女は取り戻した。
全ての祖まりたる蝙蝠に噛まれ、この世に生を授かった二人目の血吸いの〈鬼〉。
掟により生前の記録は抹殺されたが、信心深い装いを見た者は彼女を、神が遣わせた聖母と讃えた。
信じ慕う者に、彼女もまた、祈りと涙を以て応えた。
時代と共に信仰が廃れ、その身を八つに裂かれ百に砕かれようと、涙を流した彼女の眼は『吸血鬼殺し』も完全には滅ぼせず、泣く泣く封印するしかなかった。
そして、今宵、待ち望んだ復活の鬨を迎えた。
――極東のそのまた果てで息子を想う、母の身体を貰い受けて。
「ああ、なんということでしょう……」
手を組み、女は涙を流し嘆き悲しむ。
「繁栄は、世界に幸福をもたらしました。しかし――人々の心は、今も不幸に病んでいます。吸血鬼は絶滅し、食物連鎖は崩壊しました。ああ、ああ……! また人が生まれた。罪に苦しむ児の産声が私の鼓膜を震わせる!!」
女の足から伸びる影が、遠い病院にいる赤ん坊を抱き上げた母親ごと攫ってくる。地球の裏側でサッカーをしていた少年が見知らぬ光景を見廻し、温かいベッドで読み聞かせを聴いて眠っていた少女はパジャマを泥だらけにしながら、両親を探して泣き叫ぶ。
生まれも文化も違う大勢の人々が、一ヶ所の公園に集められた。
「さあ――救いましょう。守りましょう。吸血鬼のもたらす祈が、原罪を浄めるのです!」
ここに集う迷える子羊のため。
血に飢えた狼は、涙を流して祈りを奉げる。
「かわいそうに……」
「あ、あの……!」
母に抱かれた赤子の手を取る。赤子は女の指を握り返し、紅く満ちたその眼を目の前に足をばたつかせた。
堰を切ったように泣き叫ぶ赤ん坊に群衆の注目が母子に集まった。
一人の男が、ここはどこかと隣にいた女に訊ねた。女の返答は、男がこれまで聞いたこともない言葉だった。
似たようなやり取りがあちらこちらで起きて、街中の狭い公園は、神の怒りに触れ倒壊したバベルの塔の如き有様と化した。
誰も、どうして赤ん坊が泣いたのかなんて気にも留めず。自分のことで精いっぱいだった。
「あ……」
収集のつかない叫喚の直中で、少年の口から零れる呟き。それも、波紋が広がる地に一投しては他と見分けがつかない。
無邪気とは、周囲の変化に敏感で。とかく大人より――無邪気の権化のような子どもには赤子の気持ちにも共感できた。
言い争う大人達は、この公園で、一体なにが起ころうとしているのかまだ気が付かない。
死ぬ。ここで、一人残らず。自分たちは、そのためにあの女の人に集められた。
あの人の流す涙。
あれは、憐れみの涙だ。ここに集う人々の犯した罪を憐れんで泣いている。
この世に生まれてきた。
それが、僕らの犯した『罪』。
吸血鬼の涙の理由を思い識れ。なにを祈り、真っ赤な嘘に濡れた〈鬼〉の本心に震えるがよい。
彼の原初の三人は、吸血鬼の在り方を定義した始まりの数。
一人目は、鬼と血の関係を結んだ。三人目は、吸血鬼の生殖方法――眷属を初めて創った。
ならば、二人目は。
血を啜り、肉を食み、祖を冠した彼女は、決定した。
吸血鬼の食糧は――同じ知性体である、ニンゲンと。
慈しみと、愛の許、彼女が喰らった命は、歴史には決して残らない。彼女が足を踏み入れた足跡は地図には記されない。
歴史が残る国ごと、喰らったから。どれだけ記しても、地図は白紙に還る。
“食べる”ことしかしてこなかった彼女は、吸血鬼の鑑と
も言える。
あの『吸血鬼殺し』も手に負えない――本物の“ひとでなし”。
それが、今宵、復活した。
「祈りを! 色鮮やかな祈りを! 全ての罪は、私の復活を以て、救済を約束されました!」
久しぶりに鼻で感じる人の匂いに、牙が疼き、情熱に肌が焦げる。
――胃袋が鳴った――。
「……この手は、なに? 私、なにして……」
祈りを込めていた手が、いつの間にか頭に載っていた。
なにかに苦しむような恰好で。
「肝心なことを、まだ、思い出せていない――“とうまちゃん”って、だれ?」
思い出さないと、思い出さないと……。
譫言のように呟く女は、上の空に空を見る。
「あら、私ったら――空が、あまりに」も綺麗で。救わなきゃ、急がないと。“あの子”のように!」
燦然と煌めく星は、自分の眼には少し痛い。
「ああ、……そうだった。わたし、目が……」
思い起こす世界の光景。
こんなモノ、自分の記憶にはない。
――白夜のような視界こそ、私本来の記憶。
こんなに大勢の人に囲まれたこともなかった。放浪した地で出逢った人も、女が知り合ったんじゃない。
そもそも、旅行なんてした憶え――真っ赤な嘘だった。
――母さんといっしょなら、僕はどこでも平気だよ――
“あの子”がそう言って、笑ってくれたから、どんなに貧しくても、どこにも行けなくても、どうってことなかった。
「そうね、そうだったのね」
どうしてずっと、胸に穴が開いたような感じがしたのか、女は知った。
ここには、こんなにたくさんの人がいるのに、“あの子”がいないから、こんなにも寂しいのだ。
女は、泣いた。怒りにその身を震わせ泣いた。
なにが救いだ、なにが祈りだ。
“あの子”の腹を裂いたのは、単に、疲れてお腹が空いていたから。喉が渇いたから血を飲んで、怖くなって逃げた。
忘れていいはずがない。心に身を委ねてはいけない。
まだ――あの子は、苦しんでいる。
「後悔してはなりません、私は――自分の行いを悔いるような、そんな人ではなかったでしょう」
掌握したはずの意識が、再び自我を取り戻そうと抵抗する。生きる糧を失くし、精神が弱り切った今がチャンスだった。
だが――このままでは。
血が、要る。大地を赤で塗り潰せるだけの血があれば、あと一息で心も身体も取り戻せる。
それまで人の形をしていたモノが。
肉と骨の区別もつかなるほど、紅く融け崩れた。
血の海から蒸発する人々の意識は、自分達の身になにが起きたか判らない疑問に『?』の形で燻っていた。
まだ息のある地の海が、這いつくばる女の一啜りで干上がる。
「さあ、もう一度、思い出して。私の名を、その牙で、たたえて」
視界は澄み、頭も冴えた。
今なら完璧に思い出せる。
「私は、だれか――………………………………………そんなの決まっているでしょう」
五 灯
上 真
涙 ち
子 ゃ
ん
の
母
親
よ
。
吸血した命が、自分を離れ夜空に散る。
息子の傷を治すため、涙子は力を使い切った。
「ごめんなさいは、ちゃんと会って言うね。灯真ちゃん」
見たこともない少年の笑顔に、吸血鬼の記憶が溺れる。五条涙子と自分にどんな違いがあったのかが、どんどんと朧気になって。
唯一つ――彼女を乗っ取れなかった原因ともなった、違いは。
不特定多数に祈りを奉げるより、たった一人――大切な人を一途に想う方が、ずっと、ずっとずっとずっとずっとずっと…………
業が深かった。
『 そうですか これ が
愛 なの ですね 』
涙子の意識にこびりつく吸血鬼の意識の残滓は、思い知った。
“誰かを愛す”という、悦びを。




