Ghoul,mum,Down of the Doom
「“グール”という生物を、先輩はご存知ないでしょう」
地下から一階の座敷に移動した式は、とりあえず座るよう灯真に促した。
蛍光灯が屋敷を照らす。天井に灯る昼光色の明かりは、そこで起きた惨状をありありと表した。血溜まりから漂うにおい。畳を腐食させるアンモニア臭。爪痕からは怪物の残滓がした。
てっきり廃墟だと思っていた屋敷には電気が通っていた。この様子だと、水道も活きている。
そして、住人もいた。
側にある血塊から匂う母の香りに肩身が狭い灯真をよそに、漆の座卓を挟んで向き合うセーラー服の少年は、にたにたと歯を見せていた。監禁生活で数ヶ月は磨いていなかったのか、永久歯は硫黄のような色をしていた。ぼろぼろの屋敷に汚れた制服を着た少年という組み合わせ――伝奇小説の一幕を切り取ったような、質の悪い光景だった。
「先輩のお母様は、グールになったんです」
五上涙子に関して、知りたい情報以外の身の上話まで息子から吐かせた式折々は、一応は満足した。
「……なんだ?」
「いえ、お気になさらず」
と式は言っても、長い爪に髪を巻きつける式は灯真には気になって仕方がなかった。
「ねえ、先輩」
「なんだい後輩?」
「式って――このままの方がにおいますか?」
掬い上げた髪を見せつけ聞いてくる式の目は丸かった。灯真を吸い込まんとするように瞳孔が球の中心でしぼられる。
「“似合う”かどうかを聴きたいのは判った」
ずっと洗ってない髪は、確かににおいそうだが、と心では思いつつも灯真は唐突な後輩の質問に舌を巻く。
「えへ、“これ”をきっかけに伸ばそうかなと思って。式は疎いですが、モテること、だけ、では有名な五上先輩なら、その手のお話でいいアドバイスが聴けると思って」
嫌な部分で区切って何の取り得もないのを強調してくる後輩は、見ていて何だか微笑ましかった。あと照れ笑いをするなら最初ではなく語尾につけた方が。だったら誤魔化しているようにも見える。
「好きにすればいいんじゃない? 短いのも長いのも、君の個性だよ」
ショートカットの後輩を見た憶えはないが――というかないから灯真にはそんな当たり障りのない返答しが精いっぱいだった。モテる、というのは、同じ同性に対しルックスのアドバイスを求めているらしいが、ニュアンスや上目遣いを強調してくる式には、別の思惑を灯真は感じた。
外見で内面は判断しない。
でも、誰もいない日本家屋の地下に封印されるように縛られていた少年と、灯真はお近づきになりたくはなかった。
「あー、そんなこと言うんだ! そうやって『どっちもかわいいよ』なんてカッコつけても、興味ゼロなのはお見通しなんですからね――ぷんぷん!」
全国の女子の本音を代弁するように頬を膨らませる式は、異性の返事次第で訊いた方のその一日、あるいは一週間、数ヶ月までの行動を作用するのか理解してもらいたかった。
「いいですか先輩、女の子は、時にはっきりしてほしい時ってものがあるんです!」
「ご、ごめんなさい……」
「この罪は重いです。本来なら死刑は免れませんが。――髪型に合う式の新コーディネートを査定するで、許してあげましょう」
「わしゃ昼さがりの情報番組のコーナーか!?」
机を叩く音に乗せて炸裂するのは灯真のツッコミ。こんなにノリのいいツッコミを返せるとはと隠れた才能にじんときた――手が痺れていただけだった。
しかし、真っ暗な地下室で鎖に繋がれた監禁生活をこれをなどと『忙しくて切る機会なかったから~』ような感覚で捉えている軽薄な人間に、容姿、ひいては乙女の悩みを説教してほしく灯真はなかった。
「そんなに大声で怒鳴って。お腹の傷に障りますよ?」
式があまりにもふざけた態度を取るので、灯真は腹を怪我していたのをすっかり忘れていた。
「折々君があまりにも馬鹿馬鹿しいから、痛くなくなってたよ……」
「漫画でもないのにそんなことってあるんですねぇ。まあ、あと数分くらいはモツと思いますが」
裂かれた腹部から微かに零れた腸を細目に見、式は呟いた。
「なんか変な言い方だなあ」
「木の精です」
「今は絶対違う意味言ったよね!?」
「いえいえ――けれど先輩、ホントに……痛くはないのですか?」
階段にあった灯真の血や肉片。医学的知識のない者が確認しても致命傷だった。
地下室に聞こえていた呼吸音もすでに虫の息だった。
灯真自身も、ついさっきまでは意識が何度も切れ、ぼんやりとした頭の中で死の絶望を感じていた。
燻る鉄が冷たくなるように腹の辺りから体温が抜ける感覚はまだ新しいのに、後頭部にあった重みはすっきりと抜けている。
「五上先輩」
「今度はなに――あれ? ……なんだ。やっぱり大した怪我じゃなかったんだ」
腹を触りながら灯真は溜め息交じりに笑った。
服は破れているが、腹部には大きな外傷はない。少し空腹を感じる。という事は内蔵が内出血を起こしている心配も大丈夫。
切ったような傷があり風が当たるとやや沁みる。この程度――先の闘いで恐らく飛んできた石か木片が当たったようだ。
「そう、だよね……母さんが……」
力と力が衝突した痕跡が色濃く残る座敷を灯真は見渡した。
捕食者と抵抗者――血沸き肉躍り怒号に彩られた戦いは、傍観者の痛覚も狂わせたらしい。
紙で手を切った時、切り口から流れる血に青くなり死を覚悟する、あんな感じ――似たような喩えを灯真は持ち出す。
じゃなきゃあ、母親が、息子を傷付けたりなんかしない、と。
だが、残念ながら、五上灯真を使って力を回復しようとしたのは、間違いなく彼女の母親だ。
そして、彼の傷をたった今治したのもまた。
「グールの子と知り合えた。やっぱり、式はついてます」
「そうそれ! 君の言うその“グール”って?」
本来の話題にやっと軌道修正を掛ける事ができた灯真だった。
身を乗り出す灯真に、指で示した机をなぞり堆積した埃に、式は、二文字の漢字を彫る。
「……み、ひと――魅人?」
「『魅人』と書いて――“グール”と読ませます」
指についた埃を服で拭く式。セーラー服も埃まみれなので清潔を保つにはあまり効果がないような気が灯真にはした。
「文化によって〈魅人〉の定義は異なってきますが、近年ではゾンビに近いのが定着しています。ですが、現実にいるグールは式の知る限り一種しかいません」
早くも話がついていけない灯真には気付いていても、式は話を急いた。
案外と気にしないもので、袖で拭った埃について灯真は指摘しようとしなかった。却って汚れていた方が相手の注意を自分から逸らすにはいい手なのかもしれない。
「伝承となっている地域ではグールは悪魔の一種とされ、雌雄があり、子どもを攫う事もあるそうです。雌のグールは美女に化け、男を誘惑して餌を得る――最近の先輩達の行動とその辺りはよく似ていますね」
問い掛ける訳でもなく式は頬杖をついてくっくっと肩を揺らす。
それは、ここ数日母と過ごした時間を嘲るような。そんな笑みを見せる後輩に訊ねる灯真の声に熱が入る。
「そのグールと僕に、なんの関係があると言いたいんだ? 君は」
「先輩のお母さんは、吸血鬼の眼を貰って――〈魅人〉という名前の、人喰いのヒトになったんです」
灯真の心を貫く式の言葉を合図にするように、屋敷中の明かりがふっ一斉に断たれた。噴出した血液で、やはり電気系統に異常をきたしていたのか、明かりが消失した後では原因も特的できない。
「――吸血鬼」
「ええ、いるんですよ。この世界には」
灯真と対面する『魔法使いの末裔』の姿は、窓から入る“夜”に塗り潰されていた。
式が明かした、夜に隠れたこの世の真実。
夜を率いて昼の世界を闇に染めるモノ。死を司り、死を告げ――死そのものと世界から定義された、壊れやすくも、決して破壊できない人類の天敵。獲物と似通った点を持ちながらさらに美しい鬼に血を啜られた獲物もまた、白く鮮麗される。
灯真の首筋に悪寒が奔る。
夜が隠し持つもう一つの名を口にした。もう引き返す事は叶わない。
「ああ、安心してください。この街に吸血鬼はもういませんから」
「もうって事は、前までいたの!?」
衝撃の事実だった。もしかしたらどこかですれ違った事も。
だが、どうやら吸血鬼は世界から絶滅したようだ。
「思っていたより動揺しませんね。この世界にそんなモノがいたなんて聴かされると、人ならまず驚くんですが」
「それだけ凄まれて、めちゃくちゃ動揺しているし驚いているよ。君の見込み通り僕は、脆くて臆病な人だからね。でも、……そうだな。折々君にそう見えたのは」
家事が得意な人でも人喰いのバケモノでも――母さんは母さんだから。
「身内が人を食べると判っても許容する。恐れるべき事を、あなたは恐れない。恥ずべき事を愛すのになんの躊躇いもない。物語の主人公にはなれませんよ」
「当たり前だ。僕は主人公じゃない。
五上灯真は、五上涙子の息子だ」
後輩に再確認させる灯真の清々しい顔が、憐憫に満ちる式の目に映る。
自分を育てていたのがライオンだと知ると、小鹿は母を怖がる。かつてその手を血に染めたと告白したなら、それがどれだけ勇気のいる行為だと判っていても、子は親を、一瞬でも軽蔑する。
生物の血肉にはそういった、ある種の防衛本能が流れている。自らの天敵を恐れ、逃れ
ようとする本能が。
前例を知っている。見知っているから、式折々は、決め付ける。
五上灯真。怪物に対し誠実にいようとする彼もまた――生物として破綻していた。
「それより、もっと聴かせてくれないか? グールの事、母さんの事」
「…………分類という意味合いでは、吸血鬼と違って、〈魅人〉が完全な怪物になるという訳ではありません。ドナーである吸血鬼の一部を移植しても肉体面では生きていますから」
式が上手く喩えてくれたお陰で話に灯真もだんだんとついてこれるようになっていた。
「怪物から臓器を貰っても生存権は適合者にある、って事か。……そうか、それで」
式が書いた当て字に目を落とす灯真。
“魅人”。吸血鬼の力が宿る人間。鬼に未たない、人――。
「ひょっとしてこれ、君が考えたネーミングだったり?」
外国の言葉を語源するのは、同じくも異なる異国の者だ。
「……さあ、どうでしょう」
はぐらかそうとする式。
灯真にはもう一つ、引っ掛かる事があった。
「僕の話を聴いただけで、母さんが〈魅人〉だってよく判ったな」
自分でも気付けなかった母の正体を先に言われ、悔しい灯真には意趣返しのつもりだった。
「あなた方に魔眼を提供した人物とはちょっとした仲でして」
「そうなの?」
涙子に吸血鬼の眼を譲った少年。傷でもあるのか頭からフードを目深に被り、両腕には包帯を巻いた彼からは、つんとした――理科室で嗅いだような何かの薬品の臭いがした。
そういや、と、思い出す。
少年は灯真に――『魔法使いの弟子』と名乗った。
「今、彼がどこにいるか判る――って、地下にいたから知らないか」
「お母さんの件でお礼でも?」
「も、ある。でも、やっぱり、会って謝りたくて」
母親の眼を見えるようにしてあげる――なんて話を目玉と一緒に無償で売り付けてきた。
条件としてこの街――新三巫市への永住と街にある高校の受験を要求した。
必要な費用は全て払うと、現金をその場で提示され、灯真は当然、少年を警戒した。生まれ付き視えない母の眼を視えるようにするという少年は、医学的知識を持たないと豪語し、アルバイトでは決して稼げない大金を出した。
これは、関わってはいけない人種だと思った。
そんな灯真の反対を押し切って、涙子は、当時は吸血鬼の眼と知らずともホルマリン漬けにされた目玉を受け取った。
――お話を聴いていると、何だか、灯真ちゃんの顔を一目でいいから見たくなっちゃった。
そう言って笑う母の眼は、閉ざされている。生まれてからずっと知っている母の顔が、灯真には憐れに見えてきて。
そんな顔で言われたら、悪魔でも魔王でもいいから、運命を託すしかなかった。
そして今また、魔法使いを名乗る少年に、母を助けてもらうよう求めている無力な愚か者がいる。
「疑って悪かった……そう言わないと気が済まなくて」
目が視えるようになってから、母はずいぶんと明るくなった。
元気がなかったと、そう気付けたのは、彼のお陰だった。
「――ありがとうございます。式以外に、彼の事を憶えていてくれて」
そう呟く式の伏せた横顔は、どことなく、大人びていた。
「それで――君は何を望む代わりに、母さんを助けてくれるんだ?」
「〈始祖〉の魔眼を見込んで、お母様にある人を見つけてほしいんです。その人は、式を閉じ込めた子と一緒にいます」
「監禁の次は誘拐か。君を閉じ込めたのは一体どんな極悪人だよ」
「根はいい子なんです。式は、あの人の意見を尊重するつもりでしたが、いろいろと事情が変わってしまいまして。彼女を――この世界から消さなくてはならなくなりました」
「……母さんに頼んでみるよ。あの人なら、またきっと断らないんだろうけどね」
そうと決まれば、と。灯真は式に手を出した。
「お互い用事を済ませて、会いたい人に会おう!」
「…………はい」
灯真の力を借りて式は立ち上がる。
これでようやく、彼を見つける展望が見えてきた。
「では、まず」
仰向けに倒れる少女に目線を寄越しながら、式は、体温がある耳の和毛を指でくすぐった。
「こわーい“わんちゃん”に首輪をつけるところから、始めるとしましょう」




