Wizard,contract,Go out
霞んだ視界に意識を灯す。かれこれもう体感では八時間を超えたと思っていたのに、目を醒ますのは月の明かりだった。
身体を起こしながら灯真は周囲の様子を窺った。
妙に、軽いと思えば。覆い被っていた母の姿は跡形もなくなっていて、屋敷にひとり取り残されていた。
「……かあ、さん……?」
灯真は母を呼んだ。なんの冗談かは知らないが、無人の屋敷に息子を置き去りに隠れるなんて悪戯にしても度が過ぎている。水気を含んだい草の生々しい手触りが気持ち悪い、腐った畳には人体にどんな影響を与える菌が繁殖しているか想像するだけで病気になりそうだった。
異臭がつんと鼻をついた。はっきりと言葉で表すには些か抵抗を覚えさせられる臭気の正体は判らないが、灯真は、公衆トイレの個室を思い出した。
天井裏だけにも、臭いは畳や縁側の沁みからもむんとした。鼠だけじゃない。野犬も頻繁に来るらしい。あるいは鼠目当てに外から天敵の動物がやってくるのかもしれない。
いずれにしろ、いつまでもここに長居してもいられない。
立ち上がった灯真は、玄関とは反対方向に踵を返した。
「そういう冗談は笑えないって、いい加減……出てきてくれよ」
と、言いつつもしゃくり上げるように灯真は苦笑しながら灯真は一つひとつ襖を開けて廻った。
廊下に並んだ戸は、押し戸も引き戸も隙間が設けられていた。
灰んだ明かりが零れる隙間は、丁度、人が一人覗き込める間隔だった。
「…………」
――くすくす、くす。
足を止めて耳をそば立ててみると、母が見つけられずにいる灯真の慌てぶりを部屋の中から面白がる涙子の笑い声が聞こえそうだった。
その、五上涙子が、五上灯真の母親なのだが。
「……ッ!?」
廊下の木目に足を取られた灯真の体勢が崩れた。
おかしい。うわっと不甲斐なくも上ずった悲鳴を上げたはずだったが、屋敷は静かなものだった。
そしてどういう訳か。躓いて下がった肩が、灯真が元の位置に戻そうとしてもちっとも上がらなかった。
壁に突いた手がぬるぬると滑って上手いように力が壁に伝わらない。
得体の知れない汚れの正体を確かめようとすれば、目覚めたばかりに月光を受けたせいで焦点がちかちかと定まっていない。感触から察するに、それは――油類だった。
と、前髪を掠め何かが灯真を横切った。
音を伴わずいきなり出現した浮遊物に、起き上がれない事への苛立ちから意識が驚愕に大きく反れ、おっかなびっくり灯真が追い掛けると――。
一羽の蛾が、鱗粉に受けた月明かりに周囲を照らし落ちるように羽ばたいていた。
「……蛾、だ」
思った事がつい口を付いて出た。
「蛾って、たしか……」
これは近縁である蝶を始めとした昆虫全般を示すが、一般的に一匹、二匹と数える蛾や蝶を、一頭、二頭を指を折ってゆく場合がある。由来はそれこそ種類が多い虫の数だけ諸説あるが、学術書や虫を専門的に解説する文献で紹介する場合で扱われる単位、と、教えてくれた人がいた。
“頭”と聞くと例えば象とかクジラとか大型の動物を数える時に使うと思い込んでいるせいか、そんな大仰な単位に、小さくて薄っぺらい、正反対な蝶にあてがうのはどうか、と涙子も灯真も聞いた当初は信じられなかった。
周波数のような曲線を描いて飛んでいく蛾は、急降下した階段の重力に押し負け闇に吸い込まれ、ついに月明かりでも見えなくなってしまった。
灯真は覗く。どこまでも墜ちる奈落の深淵は固唾を呑むほど深く肉眼では把握できない。
振り向いてみると、背後には開け放たれた部屋が廊下を沿う形で並んでいた。光が廊下で合流し、灯真をすり抜け屋敷の地下に渦を巻いて吸い込まれていた。
一つひとつが解放された扉は臓器でいう“弁”のようで。
意志を持った屋敷に、腸まで誘い出された錯覚を灯真は覚えたのだった。
下りたところで、この先には、母はいない。行って帰ってくるだけで徒労に終わるのは判り切っていた。
だが、重力に取られた灯真の足は、すとんと階段に落ちた。こびりつく汚れのように壁に重い身を預けながら地下を目指していった。
そして、最後の段から飛び降りる。体感でおよそ二十秒。見た目の迫力ほど地下は深くなかった。
「……は、はは、やっぱり……何もないじゃないか……!」
灯真は腹を抱えて嗤った。笑うしかなかった。
地下を閉ざす鉄格子に指を掛ける。赤錆の付いた格子には見た目もさも頑丈という南京錠が掛けられていた。地上から吸い込まれた空気は窓のない地下をぐるぐるとさ迷い、やがて腐り、澱のような滞留した空気が臭いと共に重く圧し掛かってきた。
施錠されて、一日や二日――そんな短期間ではなかった。
母がいないという精神の不安に付け入られ、月に当てられでもしたのか。
「いいことなんて、起こらないじゃないか……ッ!」
ずるずると服を泥だらけにしながら灯真は両足を抱えた。
何もかも、なにもかも自分のせいだった。母が飢えないよう少女を連れてきて、不安にならないよう母の側にいて、母を守りたくて『吸血鬼殺し』に対向した。
結果、涙子は余計に傷付いた。流さなくてもいい血を流し、涙を流した。
「あの母さんだ。息子の僕が何もしなくても、自分で問題を解決したはずだ。だって……僕の母さんは」
――すごいんだ。女手一つで息子を育てるほどすごい。目が視えなくても家事でも洗濯でもなんでもこなしてしまうほどすごい。眼が視えるようになったら、怪物二匹から息子を守ってしまえるほど。
とにかく、母はすごい。すごいんだ。
「だから、母さんは……息子に愛想が尽きて、僕を、……僕を、僕を――!」
“捨てたんだ”とは、灯真は言えなかった。
「…………あのー、お母様がすごいのはもうわかったんで、そろそろ助けてはくれませんか?」
格子の向こうで、闇が、苦笑いした。
「だれだ!?」
暗がりから二つの目が灯真を見つめる。咄嗟に涙子だと立ち上がったが、目の色は鮮やかな紅とは似ても似つかない鈍い灰色だった。
唇が湿る音がして、笑みを浮かべるように細まる目の下に三つ目のエッジが描かれた。
「鍵が掛かった黴だらけの地下の部屋。手足の自由は奪われ、食べ物は岩に生えた苔だけ。そんな人に掛ける第一声が、『だれだ!?』ときましたか」
どことなくそれは、灯真には肩を竦めた擬音にも聞こえた。
「えっああ、ごめん」
つい謝ってしまった。
「いえいえいえ、突然闇に話し掛けられたのです。あなたもびっくりしたでしょう。これは失礼しました」
闇と名乗っておいて、声の主は人の感情を持ち合わせていた。
地下にしては妙に空気が澱み過ぎているとは思ったが、これではっきりした。
「では、ここから助けてください。おやまあ、何やら質問がある様子。式に答えられる範囲であれば善処しましょう」
「君は、どうして、ここに閉じ込められているんだ?」
構造から、地下が外界から隔離するために造られたのは灯真にも推測できた。座敷牢が戸棚に思えてくるような独房にひとり孤独に幽閉されている人間が、危険人物じゃない訳がそもそもなく、出してくれ、とくればそれはもう明白に決定した。
と、警戒していた灯真に「やだなあ」と言う大犯罪者は、濡れ衣を否定する事も犯した罪を詫びるでもなく。
ちょっとした抗議を、灯真に異議申し立てした。
「初対面の相手にいきなり“君”呼ばわりだなんて。お見かけしたところ高校生のようですが。あなたから見て式はそんなに歳下に見えますか」
「暗いから姿は見えないけど、声色からして、つい、なんとなく」
「はぁ……やれやれ。いいですか、たしかに式の声はあなたの耳だと高いかもしれません。けれど、です。年齢の指標として声の高低はあまり参考にならないのです。歳を取るに従って声帯も太く声もまた低くなると学校では習いますが、大人で生まれ付き声が高い方もいますし、自分の個性を仕事に活かす例もあります。幼いながらも重低で趣ある声もその人の立派な魅力と言えるのです。そもそも他者を比較するうえで外見を持ち
出すのが前時代的と言わざるを得ず――」
Vも挟まず持論をのべつ幕無しにまくし立ててくる饒舌な漆黒。
「…………」
この、返答に突っかかっていく感じが子供っぽくて――歳下であった。こういう大人も中にはいるにはいるけれど。
「あの、出してほしいんだよね?」
「さっきからそう、こうして恥を忍んでお願いしているのではないですか。お馬鹿なのですか? ――ああ待って踵を返さないで助けてくれたら何でもします!」
「――なんでも?」
「“なんでも”。助けてくれたら、式にとってあなたは命の恩人になるんですから、協力は惜しみませんとも」
「悪魔と取引しろって……?」
「いいえ。
――式が、悪魔と取引して助けてほしいのです」
ここでこの闇を解き放ったとして、無関係な人間を巻き込んでも状況は動かない。むしろさらに拗れそうだった。
だが。そう灯真はもう一度対峙した。
この転換期で幸運だったのは、灯真ではなく相手の方だった。
自分のしでかした結果が母を不幸にする。
だから、今からこいつを助けて、世界に一切の痕跡を残す事なく、涙子ともう一度会う。
五上灯真が運命に叛逆するなら、今だった。
「でも扉には鍵が」
南京錠を引っ張り灯真が萎むような声を発した。封印を解かない限りは悪魔と握手するのも叶わなかった。
「鍵でしたら扉の隅に放り投げてあります。それで錠は開きます」
「え」
声の通り灯真が試しと地面をまさぐってみると、ちゃりんと硬い感触がして。確かに鍵束が落ちていた。
「本当に開いた」
開錠された格子から南京錠を引き抜きながら灯真は呟いた。
「なんで、これが鉄格子を開ける鍵だって知ってたんだよ?」
扉の側に落ちていれば都合よく解釈する気持ちも灯真は判る。しかし隙間から伸ばせば届きそうな位置にこうも露骨にあると、逆に警戒して触らないか、さもなくば、もうとっくに奪取し脱出していただろう。
「式を閉じ込めた本人が捨てていきましたからねぇ。あなたこそどうなんです? 鍵なしでどうやって助けてくれたんですか」
それは、どこか呆れたような口調だった。一旦地上に戻って屋敷中を探すか、庭から殴り心地よさそうな手頃な石を持ってくるつもりだった灯真は、相手から見れば無鉄砲、楽天的な脳はお花畑も甚だしい。
余裕がないのは――お互い様だったが。
「あれ、ここ……月明かりが」
小窓から青褪めた夜が射す。石壁をくり抜きガラスを押し込んだ嵌め殺しにも関わらず、夜風が頬を撫でたような気がした灯真は、顔を手で隠した。
太陽の威を借りて輝く月を、つい反射的に恐れを抱いてしまうほど、灯真は闇に慣れ切っていた。
夜を頼りに灯真が俯瞰した地下牢。額はおこか猫の髭の毛穴ほどしかない石畳の空間に、箪笥やベッドといった家具の類は存在しない。そこは生物の生活に適した場ではなかった。押し寄せる鉱物の気配に圧迫された精神は、一日持つかも怪しい。
慰めのように中央には布団は敷かれていたが、見ただけで咳払いを起こす布団に横たわっていたのは、黴である。
この部屋は、人間社会から、完全に隔離されていた。
「お待ちしてましたよ」
鎖がしなる音がして、灯真は部屋の奥に見入られた。
どうりで、出られない訳だ。幽閉されていた相手は四肢を冷たい鉄で拘束され身体を横にする事さえ叶わない状態だった。
血色が悪そうに見えたのは、月明かりのせいかもと灯真は相手に近付きながら思った。長い刻を鎖に縛られ筋力は衰え項垂れてはいるものの、肩までの背丈は灯真とやや小柄だった。伸びた爪、髪は乳首のあたりをくすぐっていて。結んでいたのか髪紐が足許に転がっていて、あと、手袋が。こちらは爪が伸びたことで脱げたのか。手袋の方には、金箔で何やら文字が刻まれていた。
身を捩って脱出を試みたのか、紺のスカートが足に引っ掛かっていた。少女の恥ずかしい恰好を見たと灯真は視線を逸らしたが、直前に見えた――柄のパンツの内側の微かな膨らみに、彼が……生物学的には自分と同性であるのを知った。
そのセーラー服は、灯真の学校のものだった。彼女の一人がこんなデザインの制服を着ていた。何度も見たからすぐに判った。
――確か、と。灯真は思い出す。
学校に、セーラー服で登校する男子生徒がいた。転校初日から一日も授業に出席せず、なのに中性的な顔立ちは男子にも女子にもおかしな人気を集め、風紀員の『鉄血ドール』が手を焼いていた。
数ヶ月前から来なくなり、ドロップアウトしたという噂もすぐに立ち消えた。
その転校生の、名は――。
「確か……」
「初めまして、式折々と申します」
微笑む少年の顔は、噂通り、美男子にも美少女にも見え。
どちらにも視られない、妖しさが、うつろいでいたのだった。




