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Eat,beat,Be sweet

夜の屋敷に心を掻き立てられる件について、真剣に論文にまとめてみたいものだ。


自分の置かれている――放置されている状況を見渡しながら五上灯真は数回瞬きを繰り返した。


布団で簀巻きにされ、あの黒髪の子どもに担がること数時間。暗闇に目が慣れていくと、見知らぬ屋敷の座敷に転がされていた。


よほど人目を避けたいようで、公道から文字通り()()()子どもに抱えられた灯真が意識を失う直前に見た光景は、大きな月と星明かりに彩られた屋根の群だった。屋根伝いに、水を切るように電柱を跳躍し、目まぐるしく転換する景色に目を回し――気付くとここにいた。


男子高校生一人を片手に抱いて、あの運動量と()()()かと疑うほど苦痛も苦悶も感じさせない速度。


屋根の上なんかに出たら余計目立つのでは、と子どもも、子どもに苦言を呈した灯真にも、通行人は一貫して無関心を決め込んだ。


新体操を習う子が……――灯真は思う。

新体操を習う子が影が薄くては、日の丸を背負ってオリンピックで金メダルは獲れないだろう。


状況の把握に努める灯真は、鎌首をもたげる芋虫のようだった。身体を縛るビニール紐でできた節がまさしくそうらしい。


こういった適応の過程を、暗順応というらしい。明るい場所から光が失せると暗所に脳が適応しようとする自律機能。瞳孔が開くメカニズムの一種もこれ。わずかな光を取り入れようとするためだ。

念のため、灯真は暗順応という定義も言葉も知らない。これは単に作者が重苦しい内容をコミカルにしたくて書き加えた補足情報。物語の本筋とはなんの関連もない事をお伝えします。


さて、趣旨に戻ろう。


幽霊屋敷は荒れ放題だった。荒れ放題、だから廃屋は幽霊屋敷なのだろうが。斬撃を見舞いされた襖は引き戸の障子に突き刺さり、それらは灯真が首を廻したあちらにもこちらにも、至る場所で見られた。剥がれ掛けた畳、天女を描いた国宝級と見受けられる掛け軸、壁にも天井にも風刃の痕跡はあった。


鎌鼬でも封印しようとして失敗したのか。血痕が一滴も零れていないのがなお不気味だった。


放置されて時間が経っているせいで、下らない議題に耽る灯真だった。


日本家屋でも洋館でも、恐怖を煽るスポットにはどこだって空間に若干の余裕がある。もちろん出口も窓もない真っ暗な箱に閉じ込められるのも怖い。でもそれは、無音で暗所で、どこにも行き場のない事への怖さに対し、手足を拘束されているが、外もすぐそこにあって風通しのよい屋敷にその恐怖はない。


とすれば、と灯真はさらに考察する。閉塞感は有効な手だが、いつまでも恐怖を持続させる事は叶わない。逃げ場がある、隠れる場がある、恐怖に立ち向かえるだけの場が整っている――恐怖の鮮度を保つのはそういう、余裕なのかもしれない。


なにはともあれまずは原稿だ。幸い資金に灯真は困っていない。自室で肥えらせた豚の貯金箱には一昨年(おととし)まで貯めてきたお年玉が詰まっている。陶器でできた(はらわた)をハンマーで叩き割って取り出せば書き損じて捨ててもなお余る枚数の原稿用紙が手に入る。パソコンなんて高価なもの、自分には身分が高すぎる。

最近の高校生は自分のパソコンで調べものをするなんてざらだが、ついこの間携帯を持たせてくれたのに、パソコンまで母親にねだる、なんて、した日には舌を噛んで自害するの

灯真(とうま)という孝行息子である。舌はあの男の子――顔立ちも髪型も服装も女の子である要素は揃っていたがそれでも否定したので余計追求した――に拉致されている間に何度も噛みそうにはなったが。


声を押し殺して涙を落とす母の顔が浮かんでは消える。


連中の狙いは、ここにいない今この瞬間にも一点に向けられて、一時(いつとき)でも反れる瞬間はない。同じ場所を見ているのに。どれだけ叫ぼうと彼らの構えた矛先は母に近付いてゆく。


「やあやあ、まだ生きてるかい少年?」


畳を擦る足取りの間隔は、灯真には、子犬みたいに軽やかだった。


よいしょ、と隣であぐらをかく橘千代紙の持ったコンビニ袋には、五上涙子の居場所を吐かせる自白剤も背筋も凍るような津々浦々の拷問器具は入ってはなかった。


「お腹空かない? どれ食べる?」


菓子パンの一つを差し出してくる千代紙に灯真は首を横に振るのも頑なに拒んだ。


あるいは……、なんて一抹の疑念が脳裏を掠める。決定的な証拠も周囲を説得させられるだけの根拠をあの少年からは見い出せていないのもまた事実である。


だが、この先輩は、決定的に人ではない。屋敷に来る道中どれだけ変装で欺こうが、帽子を取りコートを脱ぎ捨て目の前に(さら)した今現在、灯真だけが彼女の正体を断言できる。


真っ先に思い浮かんだ。


‶獣人〟

‶狼人間〟


筆記もしくは戯画化された空想の中にしか棲息しない生き物の総称。


そんな怪物に灯真が抵抗できたのは、死蝋が立って歩いているような、死臭がしそうな少年に比べ、千代紙の方が、よっぽど人間臭かったからに他ならない。転校する前の千代紙だったら、母親の目玉をくり抜いた『鉄血ドール』の誘いにだんまりを決め込むほど、灯真は己の命を軽んじたりなんかしなかった。


だが、灯真はすぐに後悔する。怖がるべきだった、迂闊に……反抗するべきではなかったと。


「……つまり、食べさせろと」


開封、開口、咀嚼、嚥下……はせず。


チョコクリームとパン生地、唾液腺から滲む少女の吐息を口内で混ぜ溶かしながら接吻を迫る千代紙に灯真は身を(よじ)った。


時に、鳥などの外敵が襲いかかると上体を起こした芋虫は自らの頭部を振って威嚇を示す。


小学生以来、涙腺が硬くなり滅多な事と寝起き以外では泣かなくなった自分が、数十年の時を経て――少女の口付けで涙するとは露ほども想像していなかった灯真。


んん~、なんて尖らせた唇から声を吐露しながら強襲する千代紙の額は頭突きを喰らった。


結論から、倒れたのは灯真の方だった。高密度な岩か何光年も掛け地球に飛来した隕石が直撃したような、痛みかどうかも曖昧になりそうな衝撃に受け身を取るのも忘れる。その威力ときたら、朦朧とする意識で頭蓋の所在を千代紙に訊ねるほどだった。


口許を押さえ両目を()く千代紙。


座敷内を支配したのは、生温かい、間、だった。


「冗談さ、女の子の冗談も通じないようじゃあモテない、ぜ」


ばーん、と。指をピストルに見立てて転倒した灯真を射抜く千代紙。

翻訳不可能なのは、自身が殺そうとした女の息子のファーストキスを奪おうとする先輩の頭だった。


そして――と灯真。ここでしつこく細かく追及するつもりはないが、先輩よりかは人に好かれる自信があった。


「だ……い……た……い!  そりゃあ、この屋敷を勧めたのは私だけどさ、あの『吸血鬼殺し』さんが融通利かないんだよ。知ってる場所だと判った途端、灯真くんと先先行っちゃうんだから。こんな可愛いJKを……JKを! 道端に放置するかねぇ」


大切な事なので千代紙は二回言った。


「そう怒るなよォ。お詫びに私の尻尾、ほら、癒されるから()()()()みそ?」


灯真に突き付けた腰を振ってくる千代紙に、灯真はごくりと生唾を呑み下した。


確かに、魅力的な提案である。お詫びの印に撫でろと先輩自ら了承している。これでは罪悪感も後ろめたさも感じない。感じるな、と、千代紙自身が言った。


丁寧にブラッシングされて艶やかな毛並み。指でなぞればどれだけ柔らかいか、()()()()()()()()()

顔を埋めたら、自分がどうなるか想像するのも困難を極めた。


頬を染める狼娘。

灯真は覚悟を決めた。


「はーい時間切れ~」


尻尾を引っ込める千代紙。

今後、他人を信用できるか灯真は不安だった。


「……僕を、どうするつもりですか」


ここは千代紙が懇意にしていた後輩が住んでいた邸宅で、今は訳あって使用人と一緒に出払っているのだとか。いつ戻るか、戻ってくるのか千代紙も後輩からの沙汰は聞いていない。


五上涙子を今度こそ確実に仕留めるには、図面を把握している場に誘い出すのが最も手っ取り早い方法と男の子――『吸血鬼殺し』と千代紙に呼ばれる少年に進言した。だが作戦を練ると彼自身もここを訪れた事が一度だけあり、千代紙の後輩とも面識があった。ならばと話が早くなると、思いきや、灯真を攫って彼はそのまま消息を絶ってしまった。


西区までバスで来たと憤りに胸を張る千代紙に、自分の行方を灯真はようやく掴んだ。


「へえ、母さんがここに?」

「ほらここって無駄に広いでしょ。家主もいつ帰ってくるかわかんないし、バケモン退治には丁度いいかな~なんちゃって。あとは餌でも設置しておけば掛かるでしょう?」

「よっ策士! 外道の極み! 先輩こそ人狼の(かがみ)だ!」


後輩におだてられ、よせや~いと頬の筋肉を緩ませる千代紙に、肝心の‶餌〟本人はますます上機嫌に、


「なるかアホぉおおおおおおおおお!!」


まさかのノリツッコミにさすがの橘千代紙名人も感嘆に喉を鳴らした。


「わふ、やるなあ少年」

「どうすんだよこれ、母さんぜったいここにくるぜ!? だって僕だもん、(ぼく)(ぼく)だもん!」

「まあまあ慌てなさんさ。後輩が留守にしてる間ちょっとマザコンで誘い出して人()いの猛獣()()()()ぶち殺すだけだから」

「人の母親を走るハムスター気分で惨殺するのやめてくれませんか!」

「‶マザコン〟は否定しないんだ――ファザコンの身で言うのもなんだけど」


確かに……――と半眼に狭まる千代紙の目線の先には、かあさーん!!!! と夜に向かって吼える五上灯真がいた。


生まれ付き目の見えない母親が自分と正面と向き合ってくれた事は、彼にどれほどの幸福をもたらしたのだろうか。それが――たった一人を振り向かせるためだけに仕組まれた、今となっては残骸も絶えた計画によるものだったとしても、親子は、確かに幸せになったのだ。


そのために払う代償を、五上涙子は、‶彼〟から知らせていなかった。息子の顔を一目見る対価が、回覧板を回しすれ違えば下世話な世間話で時間を共に潰した隣人の肉を貪るのと等分だとは。


買い物袋と、引き摺り出した内蔵を握り締め、真っ赤に染まる唇で笑い掛けられても、息子は、母親と向き合うのを片時たりとも止めなかった。自分を好いてくれた少女の夢が挽かれても、憧れの先輩の将来を噛み潰されても――母親の瞳に自分を映し続けた。


そんな彼が‶マザコン〟でないのなら、真のマザコンの定義はどこにあるという。


法も摂理も、彼女達を、罰そうとはしなかった。だから私が手を下す――なんて恰好付けられるほど千代紙は、純粋な心を持とうとは思わない。


人狼の少女も、また願った。願って、そして化物に()った。牙も爪も筋肉も、吸血鬼を嬲り殺せるなにもかもが――千代紙自身が望んで手に入れた力だった。


大好き、と――たった一言、一言血の繋がってない父に言うために。


「……全く、料金表が欲しいよ」


灯真は見た。膝を抱え自嘲気味に嘯く千代紙を。それは如何にも弱々しく、力のない有様で、目も当てられない醜態だった。


性質もだが、身内の事で状況を見失うのは千代紙もまた灯真と同類である。


油断したのだ、失念したのだ。

灯真に付き添ったのは己を嘲笑うために(あら)ず、生餌に釣られた獲物を仕留めるためであったのにも関わらず。

肉を裂き骨を断つ牙を濡らすは、宿敵の血。


だが吐露した己の弱音に湿る千代紙の鋭牙は、灯真に向かって一直線に伸びる影を知覚できなかった。


死をも恐れず噛み付く人狼は、ほんの一瞬、その致命的な刹那の間――(ただ)の女子高生へ戻った。


伏した灯真の見ている横で、千代紙を急襲した影が彼女の喉笛を噛み潰す。あっという驚愕の声もないまま千代紙の肢体が中空に引き上げられた。


ごくっ。

ごくっ。

ごくっ。


蛭のように千代紙の頸に吸い付く唇から垂れる血。切断された動脈から滴る血は老廃物に濁らない健康な色をしていた。


ぐるん、と、逆さまに回転した千代紙が助けを求めて灯真を見つめてき。喀血に痙攣しながらも生きようと何とか呼吸を試みていた。


三回死んでも不思議じゃない血液量がものの十秒で吸い尽くされてもなお、千代紙は生きていた。

瞬時に生え揃った毛に包まれる手で影の頬を薙ぐ。部分的に変身した人狼の能力で影に最後の抵抗に懸けた。


いい加減煩わしくなってきて、影は畳に千代紙を押さえ付けた。


そして、再び命を吸い上げる音が屋敷中に響き渡った。


総時間、およそ十分。人狼は目を剝いた状態で完全に動かなくなった。


ちょろちょろ……――そんな不快な音がどこからかした。

音と、つんと鼻腔を刺激するにおいは、両手両足を投げる千代紙のパンツと、足の隙間から漂ってきた。


羞恥に訴えるような涙ぐんだ千代紙の視線に堪らず目を反らす灯真。


千代紙の命を吸い尽くした影の腹は、身籠ったみたいに膨れていた。


だが――それも束の間。


「おぇえええええええええええええええええ!!!」


吐き出した血の海に千代紙が沈み、鬼灯(ほおづき)を潰すように影の腹がしおしおと(しぼ)んでゆく。


人狼――人と獣がまぐわい産まれた子。


種の壁を越え、自然の摂理の道理を超えた命の成立は極めて低い。()()()()()()()()()――()()()()()()()()()のだ。


されど、無限にも等しい確率の中で確立した者は、他の命と比べ死から最も縁遠い場所にいる。

ゆえに、人狼は、死と夜の代表選手である吸血鬼(ヴアンパイア)に最も近く、決して相容れないのである。


胃に絡み付いた毒にしばらく喘いだ影は、ゆっくりと呼吸を整えていき。


周囲を呑む気配は夜、月に照る影を覆う圧倒的な存在感に空気が白く凍り付く。


その影には眼が付いていて、灯真を見つけた途端、真っ赤な瞳が潤んだ。


「――灯真ちゃん!」


千代紙を噛み殺したその口で、五条涙子は、我が子の名を叫んだ。


「ああ、灯真ちゃん。ボクの大切な灯真ちゃん…………」


息子の容態を確認する涙子。

血糊の付いた手で触るものだから、灯真まで千代紙の匂いにまみれた。


「……母さん」


呼び掛けに応答がないと思ったら、いきなり口を開いた灯真に涙子は頭が真っ白になって。


意識が戻ると、息子の唇に自分の唇を重ねていた。


驚愕に跳ねた灯真の舌に、母の舌は欲望に取り憑かれた蛇のように絡み付いてきた。

口から滴る熱い甘露は、母の味。ぬらぬらと粘るのは先輩の血の味。


「――灯真ちゃんの、味だ」


幸福を口いっぱいに湛えた涙子は、息子が無事であるのを確かめ終えた。

唾液を啜る――一滴たりとも逃がしはしない。


千代紙に迫られた時の比ではない恍惚。


狂った母がこんなにもキスが上手いとは知らなかった息子は、(せい)(こん)も尽き果て、廃人と成り果てた。


もう、何があっても離れない。何があろうと、放したりするものか。髪の先からつま先、血の一滴――DNAの一欠片に至るまで。


この()は――もうボクのものだ。


そう、再会に熱い抱擁を交わす親子の背後で。


「おかえり、‶おかあさん〟」


死神が翼を畳んだ。

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